伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」
2016年11月30日 更新

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。

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Edward Toensend Say

 (1773725)

「これだけよ。
ほんとうにこれだけの差よ。」
「ボク、手を離さない。
ガンバッテ。
ガンバッテが通じるの。
それはLoveよ。
Sexual Loveでないよ。
Heart Loveよ。
手をこうやって、握手していうの。
通るの、届くの。」
「問題は考え。
いい考えだけ考えるの。
悪い考えみんな捨てるの。
「よしやります」
チェンピオンになれます。」
「ガッツよ、ガッツ。
どんなに疲れていてもガッツポーズ。
問題は格好。
こうなったら(疲れた格好)ダメ。
どんなに疲れていてもガッツポーズ。
大事なのはガッツ。
でも間違ったガッツはいらない。
自信と度胸は違うでしょう。
ちょっと違うの。」

知ってるつもり?! 『エディ・タウンゼント』

ボクシングにとりつかれたBad Boy

 (1767196)

1914年10月4日、エドワード・タウンゼント・ジュニアは、ハワイのオワフ島ホノルル市に生まれた。
父は、弁護士。
母は山口県から移住してきた日系女性だったが、3歳のときに亡くなったため、エディは実母の顔をほとんど知らない。
実母は後妻でエディには2人の異母兄弟いた。
父は実母の妹を3人目の妻にした。
エディは、この継母に馴染めなかった。
そして幼稚園では、「混血」といじめられた。
エディは、自ら
「喧嘩坊主だった。」
というように手のつけられないストリートファイターに育っていった。
明けても暮れても、喧嘩、喧嘩。
母には反抗し、父のいうことも聞かなかった。

拳聖 ピストン堀口 

エディは14歳でボクシングを習い始め、とりつかれた。
家のマンゴーの木にサンドバッグを吊るし夢中で叩いた。
高校になると「ジャパニーズアメリカンクラブ」というボクシングジムにスカウトされた。
このジムのマネジャーは、サム一ノ瀬。
世界フライ級チャンピオン:ダド・マリノを連れて来日し、白井義男にチャンスを与えた日系2世だった。
(そして白井義男は日本人初の世界チャンピオンとなった。)
エディをコーチをしたのは、フィリピン人トレーナー:ヤング・ギルド。
ギルドは、ピストン堀口と2度対戦し2度引き分けた。
この試合をエディはみていた。
「ピストンはすっごく下手糞よ。
下手っぴいだった。
ギルドはうまかったの。
それでもギルドは勝てない。
ピストン、とてもタフだったから。
後半にウワーンウワーンいって、ギルドは疲れてノーチャンスよ。」
高校を卒業したエディは、大学には行かず、アマチュア選手として活躍した。
それは恐ろしく攻撃的なボクシングだった。
胸にうごめく感情を叩きつけるようなボクシングだった。
そして17歳で全ハワイフェザー級チャンピオンとなった。

褐色の爆撃機 ジョー・ルイス

エディがハワイ代表として出場した1934年のAAU(全米アマチュア選手権大会)の試合会場には、リングが3つあった。
混同しないように、それぞれブザー、ホイッスル、ゴングが使われていた。
エディと同じリングに、ライトヘビー級にエントリーしていたジョー・ルイスがいた。
ジョー・ルイスとエディと同じ年齢だった。
ジョー・ルイスは楽々と優勝したが、エディはどうしてもAAUで優勝できなかった。
そしてジョー・ルイスは、後に世界ヘビー級チャンピオンとなり、25度も防衛し、「褐色の爆撃機」と呼ばれる伝説的なボクサーとなる。
1936年、ジョー・ルイスが、プロに転向して、ジム・ブラドッグに勝って世界チャンピオンになった年、エディはAAUに出場した。
この大会で決勝まで残ればベルリンオリンピックのアメリカ代表になれる。
しかし勝てなかった。
エディは、この大会を最後に、プロへ転向した。
アマ戦績は、147戦134勝13敗だった。
プロボクサーになったエディは、デビュー後、13戦全勝。
無敗の火の玉ボーイだった。

Pearl Harbor Attack

1941年12月6日、フェザー級ボクサー:エドワード・タウンセントは、プロ14戦目で初めて負けた。
悔し紛れに、遅くまでポーカーをして、朝方、ホテルに帰った。
翌12月7日、よく晴れた日曜日、サイレンが鳴った。
パールハーバーで、戦艦アリゾナが炎上し、日の丸をつけた爆撃機が飛んでいた。
太平洋戦争が勃発した。
そしてエディのボクシングキャリアが終わった。
27歳だった。
戦争が始まるとボクサーも次々と徴兵された。
ボクシングが死ぬほど好きなエディは、軍需景気で儲けていたコカコーラボトラーズに出資してもらって、倉庫を借りて、無料の練習場「コカコーラボクシングジム」を開き、トレーナーとなった。
コカコーラボクシングジムには、毎日幼稚園を終えてからやってくる子供がいた。
ボクサー:タケオ・フジイの息子だった。
この子供は、後に世界スーパーライト級チャンピオン:「ハンマーパンチ」藤猛となる。

百合子タウンゼント

あこがれのハワイ航路 岡晴夫

1953年8月、日本では岡晴夫の歌う「憧れのハワイ航路」がヒットした。
ハワイは日本人にとってあこがれの楽園だった。
そのハワイのクラブのショーに、森百合子はダンサーとして出演していた。
森百合子の両親は、東京中野区の鍋屋横丁に住む夫婦漫才師、2人の姉は、姉妹漫才師、もう1人の姉は、落語家に嫁ぎ、妹のサカエは、ジャズシンガーというエンターテイナー一家だった。
ハワイでの森百合子たちのショーは大人気で、彼女たちはちょっとしたスターだった。
エディは、百合子が踊っていたクラブによく遊びにいった。
そしてよく百合子に酒をおごった。
森百合子にとってエディは、19歳年上の優しいオジサンだった。
エディは1度結婚し、2人の息子ができたが、百合子と知り合ったころは離婚して1人暮らしだった。
ビール会社で働きながら、ボクシングのトレーナーもしていた。
やがて2人は結婚した。
エディは44歳、百合子は25歳だった。
百合子タウンゼント

百合子タウンゼント

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