伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」
2016年11月30日 更新

伝説のボクシングトレーナー エディ・タウンゼント 「OK! Come on Boy!」

力道山に見出され来日。 その大きすぎるボクシング愛で、ハンマーパンチ 藤猛、悲運の天才 田辺清、カミソリパンチ 海老原弘幸、天才パンチャー 柴田国明、和製クレイ カシアス内藤、伝説の男 ガッツ石松、エディの秘蔵っ子 村田英次郎、浪速のロッキー 赤井英和、ハンサムボーイ 友利正、天才少年 井岡弘樹など数々のボクサーを育てた伝説のボクシングトレーナー。 毎年、プロアマを問わず、活躍した、また縁の下の力持ちとして貢献したボクシングトレーナーに対して、「エディ・タウンゼント賞」が送られている。

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力道山

1947年、 羽黒山 対 力道山

百合子が踊っていたクラブには、相撲を廃業してプロレスラーになった力道山も通っていた。
力道山は、本名を金信格(キム・シンキョ)といい、朝鮮の咸鏡南道で出生し、来日後、大相撲の二所ノ関部屋に入門。
1945年、敗戦の年に十両に昇進。
1950年、5月場所で、関脇で勝ち越し「大関か?」ともいわれたが、番付編成会議の結果、見送られた。
その数か月後、力道山は、親方にも誰にも相談せず、深夜1人で髷を切り落とした。
出世を含めてさまざまな理不尽、差別、親方との軋轢など、その理由が推測されたが、力道山がそれを明かすことはなかった。

国民的ヒーロー、力道山

敗戦後、日本は驚異の復興をみせていた。
しかしまだまだ外国に対して強いコンプレックスがあった。
だから力道山が外国人レスラーに空手チョップで叩き込む姿に日本人は興奮した。
こうして力道山はスターとなった。
百合子と結婚して5年経った頃、エディはその力道山から呼び出された。
「何ですか?」
「ワシはボクシングの世界に入りたいと思っている。
今の日本にヘビー、ミドルのいい選手がいない。
そいつをワシは育てたいのだ。
ワシはトウキョウのシブヤというところにスポーツパレスをつくった。
そこにボクシングジムをつくるから来てくれるね?」
エディは考えさせてくれと頼んだが、力道山は強引だった。
「リキ、OKだ。
来月行くよ。
ただし1年契約ね。」
「来月?
No、ダメよ。
今選手がトレーニングしてるの。
教える人がいない。
来週すぐ来るの。
OK?」
こうしてエディは1人で飛行機に乗り、日本に着くと力道山と秘書の吉村義雄に迎えられた。
そして中野区本町4-31-1の鍋屋横丁の百合子のの実家に落ち着いた。
(現在、この地は、百合子夫人が経営するスナック「ドンピン」となっている。)
リキスポーツパレス

リキスポーツパレス

東京都渋谷区大和町76
現:ヒューマックス渋谷ビル
間も無く百合子が帰国。
エディを百合子に連れられてリキスポーツパレスを訪れた。
リキスポーツパレスは、東京都渋谷区大和町76(現:道玄坂)にあった。
このビルは、約15 億円(現在の貨幣価値に換算すると約55億)をかけて建てられた。
1階が、ボウリング場とスナックバー。
2階は、スチームバス、レストラン、喫茶店、ボクシングとレスリングのトレーニングジム。
3階は、リングが常設された円形会場、プロレスのオフィス。
4階には、社長室とボディービルジム。
6階と7階は、女性向けのチャーム・スクール(花嫁学校)。
8階は、女性向けのボディービル・ジム。
屋上には、王冠のモニュメントが輝いていた。
しかし力道山の進出に対してボクシング界は否定的だった。
真剣勝負であり、クリーンなファイティングスポーツであるボクシングのイメージダウン。
そして興行的な懸念があった。
全日本ボクシング協会会長:本田明は、ボクシングに理解がある住吉連合の阿部重作会長を仲介人にして、力道山と手打ちを行った。
本田会長は本田天皇と呼ばれるほどのボクシング界の実力者で、阿部重作は東日本を取り仕切る大親分だった。
力道山は、あまり表に出ず、オーナーとして裏方に徹し、リキジムの代表には、伊集院浩が就いた。
伊集院は、毎日新聞運動部のベテラン記者で、明治大学ではラグビーと相撲のトップ選手だった。
剛直な性格と侍のような精神の持ち主で、力道山の招聘を受け、新聞社を繰り上げ定年した。
加えて、日刊スポーツの鈴木庄一、スポーツニッポンの後藤秀夫が在社のまま非公式なブレーンとなった。
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リキスポーツパレスの2階のトレーニング場は、昼間はプロレスラーが使い、17時からはボクサーが使った。
リキスポーツパレスは、ボーリング場、ビリヤード、スナックバー、レストラン、喫茶店、サウナなど、まだ日本では珍しいものが多かったが、リキジムのスタッフもインターナショナルだった。
マッチメーカーはロスから邦字紙「加州毎日」の記者のジョージ吉永。
ときどきハワイからサム一ノ瀬やテッド河村がやってきて臨時トレーナー。
世界ヘビー級チャンピオン:ジョージ・フォアマンを育てたディック・サドラーが来たこともあった。
初めてリキジムに入ったエディは、ゴツい竹刀が何本もあるのに気づいた。
「この竹刀片付けてよ。
リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるの?
ボク、ハートで教えるの。
ラヴよ。
わかる?」
リキスポーツパレスでは、隔週土曜日ごとに、「ビッグファイト」と銘打ってボクシングの試合が行われた。
外人選手と日本選手が戦うスリリングなカードが人気だった。
しかし日本には強い重量級の選手がいなかった。
ジョージ吉永がいった。
「横浜に海兵隊上がりの強い奴がいると聞いたが、名前も住所もわからないんだ。」
元海兵隊の日系三世でハワイ出身、喧嘩っ早くて、背は大きくないが腕力は抜群だという。
力道山は命令した。
「その男をすぐ見つけて連れて来い。」
 (1777623)

1963年2月20日、リキジム代表の伊集院浩が日本刀で割腹自殺した。
古式にのっとた見事な切腹だった。
リキジム代表は力道山の秘書だった吉村義雄が引き継いだ。
吉村はスタッフに命じた。
「勝率を上げてください。」
リキジム所属選手の勝率が上昇カーブを描き出した。
「エディさんはディフェンスをあまり教えない。
まず攻撃から教える。
ちょっと腰を落として1発1発に腰を入れて打つ。
パンパンパンといいながらね。
とにかく攻撃主体のボクシングだった。」
「エディが教えるのは反則ばかり。
サミング(親指で相手の目を突く)、キドニーパンチ(背後から打つ)、ローブロー(ベルトラインより下を打つ)、肩で相手のアゴを跳ね上げるとかね。」
エディのボクシングスタイルについての証言である。
骨の髄までプロフェッショナルボクシングファイターだったエディにとって、ボクシングは勝たねばならぬ点で徹底していた。
その口癖は
「ボクシングは戦争よ。
リングに上がったら相手を殺すの。」
だった。
しかし次の言葉も忘れてはいなかった。
「試合が終わったら友達になりなさい。」
 (1770199)

伊集院浩が日本刀で割腹自殺してから約10ヵ月後の1963年12月8日、力道山はラジオ番組の収録後、赤坂のナイトクラブに向かった。
力道山は酒癖が悪く、気分がよければドアボーイに1万円札を与えたりしたが、些細なことからテーブルをひっくり返したり、ケンカをした。
この日も、アメリカからやってきた黒人のバンドに向かって
「Negro Go Home.」
「SonOf A Bitch.」
と大声で怒鳴った。
そしてトイレの前で女性と話していると、住吉連合系暴力団の大日本興業構成員:村田勝志が、その横を通った。
力道山は後ろから村田の襟首をつかんだ。
「足を踏んだぞ。」
「踏んだ覚えはない。」
2人は口論となった。
力道山は村田の顎を拳で突き飛ばした。
村田は吹き飛んで壁に激突した。
力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打した。
村田はナイフを抜いて下から力道山の左下腹部を刺した。
錆びた登山ナイフの刃が根元まで刺さった。
力道山は脇腹を押さえながら席に戻り、周囲の心配をよそに平然と酒を飲んだ。
しかし次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。
山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山と親しい医者のいたため、ここに運ばれた。
診察の結果、緊急手術が必要と判断されたが、執刀できる医者がいなかった。
一方、村田勝志は深夜に、力道山が顧問を務めていた町井久之率いる東声会からの報復を受け重傷を負い入院した。
刺された翌日(12月9日)深夜、聖路加病院の外科医長が山王病院に呼ばれ、力道山の手術が行われた。
手術は無事成功し命に別条は無いものと思われた。
12月15日、回診で腹膜炎により腸閉塞を起こしているのが発見され、再び聖路加病院の外科医長により再手術が行われた。
これも成功したと報告されるが、約6時間後の21時頃から力道山は危篤状態に陥り、22時35分に死亡した。
力道山は、呻くように指を3本出しこと切れてしまったという。
最後の言葉は
「俺は死にたくない」
だった。
この3本の指で何を伝えたかったのかは、今も謎のままである。
エディの心の中には力道山の言葉が残った。
「エディさん、日本チャンピオンをつくったら車をプレゼントするよ。
世界チャンピオンをつくったら家を一軒勝ってやる。
これエディとオレとの約束よ。」
「エディさん、心配ないよ。
契約は1年じゃない。
ずうっとワシはいつまでもあんたを離さないよ。」
Amazon.co.jp: 麻酔と蘇生―高度医療時代の患者サーヴィス (中公新書): 土肥 修司: 本 (1770221)

1993年、力道山の刺殺事件から30年後、岐阜大学医学部教授:土肥修司の著書『麻酔と蘇生』(中央公論社)が出版された。
この中に力道山の死因について書かれてあった。
『力道山の死は出血でもショックでも何でもなく、単に運び込まれた病院で麻酔を担当した外科医が気管内挿管に失敗したことであった。
・・・・・・
問題は、筋弛緩薬を使用したため、外科医が気管内挿管の失敗を繰り返していた間、呼吸ができなかった(人工呼吸をしなかった)ことによる無酸素状態が死亡の原因であった。』
筋弛緩薬とは、人工呼吸のためのチューブを体内に入れる(気管内挿管)時、その作業をやりやすくするために体の筋肉を柔らかくする麻酔薬の一種。
全身麻酔を必要とする手術の場合、筋弛緩薬を投与し、筋肉が緩んだ直後にチューブを体内に入れ人工呼吸を行うのが一般的なやり方だという。
土肥教授によれば、力道山は筋弛緩薬によって筋肉が緩んだが、太い首が災いし、気道が広がらずチューブの挿入に失敗したという。
土肥教授は留学先のアメリカで、力道山の手術について知る当時の医学生から事情を聞き、後に専門医として調査した結果を発表した。
力道山の死に、加害者側である住吉連合に対し、被害者側のバック、東声会から大規模な報復があるのではと危惧されたが、村田の所属する住吉連合系のトップと力道山に近い東声会の兄貴分、山口組の田岡一雄との間の話し合いが行われ事なきを得た。
力道山を刺した村田勝志は、力道山の死を、報復を受けて入院した病院のベッドで聞いた。
そして裁判では1審で12年、2審で8年、最高裁で懲役7年の刑が下され、キッチリ7年間、刑に服した。
そして出所後、村田組の組長として都内に事務所を構えた。
力道山の命日の翌日になると、人目を避けて、力道山の眠る大田区の寺に参っていたという。
2002年、力道山の孫娘:パク・ヘジョンは、北朝鮮の女子重量挙げの監督として釜山アジア大会に参加した。
へジョンは力道山の長女:金英淑と北朝鮮選手団を引率しているパク・ミョンチョル北朝鮮体育指導委員長の4女で、高校では体操選手、その後重量挙げ指導者になった。
一方、村田勝志の愛娘:篠原光は、格闘家として活躍した。

ハンマーパンチ 藤猛

 (1770267)

リキジムのスタッフは横浜の謎の噂の男を見つけ出せずにいた。
その男、ポール・フジイは横浜の外人バーで飲んでいた。
テレビの画面では、高橋美徳が世界ジュニアウェルター級チャンピオン:エディ・パーキンスに挑み、13RKOで敗れた。
ポールはいつかのテレビで、エディがセコンドをしているのをみた。
ポールはエディにマネージャーになってもらおうと思った。
しかし所在がわからないので、とりあえず日本ボクシングコミッションの事務所に行った。
そしてたどたどしい日本語で訴えた。
「ワタシ、ハワイのポールです。
メニーというハワイのトレーナー捜しています。」
対応したスタッフはリキジムに電話した。
エディはポールと話しをして、この男こそ長い間、捜していた男であること知った。
「ちょっとそこを動くんじゃない。
今迎えに行くから待ってて。」
そしてタクシーで急行した。
エディがみたその男は、オーバーにハンチング、髭面、ふてぶてしい風貌と鋭い眼光で、そしてはちきれんばかりの肥満体だった。
エディは内心ガッカリした
「Mr.タウンゼント。
覚えているかい?
タケオ・フジイの息子よ。
ポールよ。
ボク、ボクシングやりたいの。
それでエディさん、探したの。」
「年いくつ?
30か?」
「おおノーノー。
23歳よ。」
「アマチュアのキャリアはあるの?」
「もちろん。
ボク、ハワイのウェルターのチャンピオンよ。」
「今のウエイトは?」
「多分185ポンドくらいかな。」
「ブタだね。
ウエイト落とすの辛いよ
できる?」
「大丈夫よ。
やれるよ。」
エディはポールをリキスポーツパレスに連れて帰った。
ジムでは幻の男の到着を待っていたが、現れた男をみてみんなビックリした。
何たるデブか。
しかしポールがサンドバッグを打つともう1度ビックリした。
モノ凄いパワーだった。
ポールは軽く動いただけで滝のような汗をかいた。
「ポール、ウェルターまで落とすんだ。
35ポンド。
わかるね?
毎日少しずつね。
朝と晩に走るの。
ウエイトが落ちたら来なさい。」
「OK」
ポールは機嫌よく帰っていった。

ポールは中学校入学と同時にボクシング部に入り、すぐに頭角を現した.。
15歳でハワイジュニアクラス・フェザー級チャンピオン、17歳でハワイウェルター級チャンピオンとなった。
父母が本土のネバダ州ラスベガスに移住し、ポールは祖母とハワイで暮らした。
高校3年のときにゴールデングローブ大会のライト級で優勝。
卒業後、アメリカ海兵隊に志願。
全アメリカ兵隊選手権と全海兵隊のチャンピオンとなった。
神奈川県厚木市の米軍基地に入った2年後、MP軍曹として現地除隊した。
そして横浜市のアパートに移り、外人相手の不動産の斡旋・仲介をした。
それは酒と女とケンカの日々だった。
しかしボクシングが、この泥沼から救い上げてくれるかもしれない。
横浜のアパートに帰ったポールは、いわれたように朝晩のロードワークを始めた。
数日してリキジムに行った。
「5kg落としたよ」
「よく落としたね。
もっと落としなさい。
そしたらまた来なさい。」
しばらくしてまたきた。
さらに痩せている。
しっかり走っている証拠だった。
エディは初めてスパーリングをさせた。
ポールはパートナーを打ちまくった。
デブの髭おじさんと思っていた練習生は仰天した。
ポールはアマチュア時代、むしろテクニシャンだった。
技術的な基礎はしっかりできていた。
「海兵隊のとき有名な選手とやったことある?」
「No、大したことないね。」
「プロは強いよ。
もっと手を出さなきゃ。
小さい鉄砲撃つのはダメ。
マシンガン使うの。
ウワーンウワーン、パンパンパン、もっと手を出すの。
ジムに来れないときは走るの。
OK?」
ポールは素直にうなずいた 。
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