ジョン・マッケンロー  怒る悪童 氷の男との戦い
2021年9月10日 更新

ジョン・マッケンロー 怒る悪童 氷の男との戦い

悪童ジョン・マッケンロー、「怒り」や「憤り」は情熱の証。「You Cannot Be Serious!(冗談だろ、マジメにやれ!)」と審判に叫ぶことができる彼は、一般的にガマンを美徳とし得意とする日本人にはできないことをやってしまい、やってのけるのであーる。 悪童ジョン・マッケンロー、「怒り」や「憤り」は情熱の証。「You Cannot Be Serious!(冗談だろ、マジメにやれ!)」と審判に叫ぶことができる彼は、一般的にガマンを美徳とし得意とする日本人にはできないことをやってしまい、やってのけるのであーる。

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怒る悪童

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プロ入り後、マッケンローは、持ち前のテニスセンスで、半年間で50万ドル以上の賞金を獲得。
国別対抗戦であるデビスカップにもアメリカ代表として出場。
自国を6年ぶりに優勝に導いた。
「彼のような反逆児が国のために戦う姿に人々は圧倒されました。
彼には愛国心がありそれが原動力だったのでしょう」
(デニス・ミラー、アメリカのトークショーの司会者)
マッケンローは愛国心が強く、世界ツアーを優先してデビスカップを欠場する選手に対して苦言を呈したこともある。
1979年、20歳になると、マッケンローは世界中のトーナメントに出場。
夏には実家から数kmの場所で行われた全米オープンに出場し、シングルスで初のグランドスラムタイトルを獲得した。
ギャラの良さから多くの選手が南アフリカでエキシビションを行っていたが、マッケンローは
「1日100万ドルなんてウサン臭いし、そんな機会を利用して金銭の授受を正当化するのは情けない気がしました」
とアパルトヘイトに反対する立場からオファーを断った。
これに対してデビッド・ディンキンズ(政治家、アフリカ系アメリカ人として初にして唯一のニューヨーク市長)は
「引き受ければ名声と大金を得られたのに彼は自分の主義を貫き拒否した」
と評価している。
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20歳のマッケンローは、すでに有名でお金持ちだったが、ホテルの部屋は散らかし放題で、洗濯物はバッグに詰め込んで持ち帰って母親に洗ってもらうなど、まだまだ大人ではなかった。
コートでも、審判への暴言、対戦相手への挑発、メディアへの噛みつき、観客とのケンカなど、感情を抑えることができなかった。
多くの人は、
「お金持ちのお坊ちゃん」
「彼はまだ子供」
「才能があっても感情が制御できない若者」
と認識し
「そのうち克服するだろう」
と見守っていた。
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しかしマッケンローの怒りがおさまることはなかった。
特に審判に激しく抗議するシーンが多かった。
弁護士の父親の影響か、審判の判定が間違っていると感じると黙っていられず
「アレがみえない?」
「そこで座ってなにやってんだ!」
「今すぐアンタをイスから引きずり下ろしておろしてやる」
「お前は、失業者で、アホで、間抜けだ。
それ以外に、何か問題があるか?」
「お前は人類の恥だ」
「おい、審判。
俺が何をいったって?
いえよ。
いってくれよ」
「あんたが台無しにしたポイントは、どんなに大切なことか、わかっているのか?
ムカつくぜ」
「お前がコートで仕事をすることは2度とないからな。
わかってるのかよ?
哀れな奴だ」
「お前は、俺の人生でみた中で最低の審判だ。
お前が別の試合を仕切ることは2度とないぞ」
などと激しく抗議。
たとえそれが自分に有利な判定であっても反発し、スコアを訂正するために自らポイントを棒に振ることもあった。
明らかに誤審だったケースもあり、抗議の内容に味方する者はいたが、無礼ないい方と態度を擁護する者はあまりいなかった。
マッケンロー自身、ひどい言動をしてしまった試合の後は、自らを恥じ後悔。
周囲から改めるようアドバイスされると
「ご指摘、ありがとうございます」
「もう2度としません」
と答えた。
しかしイザ、試合になると同じ過ちを繰り返した。
同じプロテニスプレーヤーで、4歳下のジョン・マッケンローとダブルスを組んで多くのタイトルを獲得した相棒、ピーター・フレミングも、
「彼はカンシャクを抑えろといわれ、それが正しいアドバイスだということもわかっていましたが、自分がおとなしくなってしまうことを恐れていました。
自分がここまで強くなれたのは、持って生まれた激しい気性に負うところが大きいと思っていたからです」
と分析している。
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マッケンローの怒りは、審判の納得できない判定だけでなく、相手にポイントを奪われたり、うまくプレーができなかっり、自分のミスに対してもカンカンに怒ることがあった。
このことについて有名なメンタルトレーナーであるジム・レイヤーは、
「怒ることでエネルギーを得ている」
と分析。
ジム・レイヤーは、試合中のスポーツ選手の行動について

・絶対にあきらめるな
・絶対に怒るな(自分以外の何かに当たるな、自分を責めるな)
・絶対にビビるな
・チャレンジしろ

と指導する。
もし誤審があった場合にも
「それが自分ではコントロールできないできないことなら、それがたとえ間違っていたり理不尽なことでも受け入れるほうがプラスになることがある」
とし、怒ったり、マイナスの感情を引きずるのを避けるべきだという。
そしていつも「チャレンジ精神」を持ち続けることこそ最高のメンタルの状態であり、どんなに困難な状況になっても、まるで「台本」があるように、あきらめずに、怒らずに、ビビらずにチャレンジし続ける選手を「演じる」ことが必要であるという。
怒ることでやる気をかりたてる行為は、火に油を注ぐのと同じで、それでうまくいくこともあるが、火が大きくなり自分がヤケドを負ったり自爆してしまうことのほうが多い。
「スッとする」
「エネルギーを得る」
「プレッシャーを減らす」
「高揚する」
「ビビるのを防ぐ」
「周囲の人に自分は力はこんなものではないと知らせる」
などという一時的な効用があっても、やはり怒りの感情はネガティブなもので、力の発揮を妨げ、楽しさや喜びを奪い、戦争のような戦いになり悲劇で終わることが多い。
ジム・レイヤーは、すぐ怒ったり、かんしゃくを起こす選手に対して
「ポジティブな感情で闘争心に火をつけられない」
とし、マッケンローについては
「あの悪癖がなければ、よりフィジカルとスキルを向上させ、より偉大な選手になれただろう」
といっている。
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一方、マッケンローの怒りについて
「観客とのコミュニケーションとして有効」
「観客と怒りを分かち合い、楽しませる手段」
「怒りで冷静さを失うというのは誰もが共感できること。
才能ある選手が怒りを爆発させると人は親近感を覚え、多くの人はそれをみることを楽しむ」
など、プロのアスリート、プロのエンターテイナーとして肯定的な評価もある。
実際、マッケンローが怒りを爆発させると、観客は大いに盛り上がり、楽しんでいた。
神聖なコート上でもおかまいなしに舌を鳴らすマッケンローの悪童ぶりは、やがてお約束として期待されるようになった。
多くの人が、マッケンローの怒りは、決して傲慢なものではなく、いかにも人間らしいものだったり、1球1球に真剣に取り組む姿勢の現れであると気づいたからである。
またお偉いさんをまったく意に介さないマッケンローの反逆ぶりは、過度に権威的だったテニス界に変革をもたらしたことも事実で、古い体質や権力への挑戦を支持するファンも多くいた。

氷の男と対決

Jimmy Connors vs John McEnroe: Wimbledon Final 1982 (Extended Highlights)

1980年6月、ウィンブルドンに第2シードで出場したマッケンローは、順当に勝ち上がり、準決勝でジミー・コナーズと対戦。
1セットを先取した後、ラインコールに納得できず
「いつになったらまともな判定ができるんだ!」
と猛抗議。
その後、冷静さを失い、11ゲーム連続で失った。
もはや勝負はついたかと思われたが、ここから驚異的な粘りをみせて持ち直し、最終的に逆転勝利した。
この試合についてマッケンローは
「必死でした。
勝つためにはあきらめず頑張るしかありません」
と語ったが、本当にベストを尽くすことになるのは、翌日の決勝戦だった。

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コナーズ戦の翌日、初めてウィンブルドンの決勝に進出した21歳のマッケンローの相手は、この大会4連覇中の世界ランキング1位、24歳のビヨン・ボルグ(スウェーデン)だった。
彫刻のような美しい顔立ちをしているボルグは、自らのテニスのルーツについて
「私の父は優れた卓球選手でした。
父が故郷スウェーデンで地元の大会に出場したとき、賞品として獲得したテニスラケットを私が貰うことになりました。
7歳か8歳のときです。
翌日にはコートへいき、友人たちとテニスをしました。
最初の5分で、すっかりテニスの虜になってしまいました。
12歳でジュニア大会に出場したとき、それまでにないほど不機嫌な状態で、ラケットを放り投げ、叫び、不正を働きました。
コート上でひどい態度を取ったのです。
そしてクラブから6ヵ月間の謹慎処分を受けました。
復帰以降は、口数が減りました。
またテニスを謹慎させられることを恐れたのです。
そして自分自身の感情をすべて内に秘めることを学び始めたのです」
と語り
「より安全に、より確実に、我慢を重ねて勝つ」
をモットーとするサイボーグのような強さを持つテニスの鉄人、絶対王者だった。
2人は、これまで7度対戦し、マッケンローの3勝4敗で、これが8度目の対決。
2人共、180cm、70kg前半と同体格ながら、ボルグとマッケンローは好対照だった。
マッケンローは、左利き。
ボルグは、右利き。
マッケンローのバックハンドは片手打ち。
ボルグのバックハンドは両手打ち。
極端に緩いガットと薄いグリップのラケットのマッケンロー。
極端に硬く張ったガットと厚いグリップのラケットのボルグ。
サーブ&ボレー(サーブを打つとネットに走り、相手の返球を打ち返す)を得意とするマッケンロー。
強打で相手を突き放すボルグ。
激しやすい「悪童」
並外れた忍耐力と冷静さを持つ「アイスマン(氷の男)」
異なる個性を持つ強者同士の頂上対決に人々は注目した。
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テニスは、4ポイントとると、1ゲーム獲得。
4-4になると「デュース」となり、2ポイント差がつくまで継続。
6ゲームとると、1セット獲得。
そしてこの試合は、5セットマッチで、3セットをとったほうが勝ちとなる。
第1セット、昨日の準決勝で審判に暴言を吐いて警告を受けたマッケンローを温かく迎えようとしない観客もいたが、マッケンローが6-1であっさりと先取。
第2セットもマッケンロー有利で進んでいたが、第12ゲーム、これまでマッケンローのサーブに手を焼き、リードを許していたボルグが、初めてリターンエースを決めた。
その後、試合は一気にヒートアップ。
ボルグの強打が針の穴を通すようにマッケンローの横を抜けたかと思えば、マッケンローの飛びつきざまのボレーが相手コートに吸い込まれるように落ちた。
しかし波に乗ったボルグの勢いはすさまじく、第2セット、第3セットを連取し、セットカウント1-2で一気に王手をかけた。
この時点で試合時間は2時間を過ぎていた。
第4セット、ボルグの攻勢は止まらず、4-5でマッチポイントを迎えた。
「勝負あった」
と思われたが、マッケンローはボルグの2本のマッチポイントを跳ね返し、その後、6ポイントを連続で奪った。
第4セットはスコアが6-6となり、タイブレークに突入した。

Bjorn Borg v John McEnroe: Wimbledon Final 1980 (Extended Highlights)

セットとるためには、

・6ゲームを先にとる
・2ゲーム以上の差をつける

と2つの条件をクリアしなければならない。
「6-0」「6-1」「6-2」「6-3」「6-4」になればセットは終了するが、「6-5」では終わらない。
「6-5」から、「7-5」になれば終わるが、「6-6」になった場合は、タイブレークというミニゲームに突入する。
タイブレークは

・先に7点とった方が勝ち
・6-6となった場合、デュースとなり、2点差がつくまで続けられる

というルール。
緊迫する空気の中、タイブレークでもボルグが優勢で、5回、マッチポイントを得た。
しかしマッケンローはそれをことごとくブレーク。
最終的に18-16で逆転勝利を収め、第4セットを奪い、セットカウント2-2とし、試合を振り出しに戻した。
第5セットは、22分間のタイブレークを落とした「ボルグ不利」と思われた。
マッケンローも
「タイブレークを落として気落ちしないやつはいない」
と思っていた。
しかしボルグの強さは周囲の予想をはるかに上回っていた。
タイブレークで負けた影響など微塵もみせず、うなりを上げるようなボールで、第5セットを8-6でとって試合を終わらせ、ウィンブルドン5連覇を達成した。
3時間55分に及ぶ激闘は、テニス史に残る名勝負として語り継がれている。

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