USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」(We Are The World・1985年)
we are the world(ウィ・アー・ザ・ワールド)
「ウィ・アー・ザ・ワールド」の参加アーティストが次々と不幸に見舞われる。
「ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い」
1985年、アメリカン・ポップスの
青春が終わりを迎えた……
1985年に発表された〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉は、白人と黒人が真の融合を果たしたチャリティ・ソングとして名高い。しかし、皮肉にもこの曲をきっかけにして、アメリカン・ポップスはかつての輝きを失ってしまった……。奇跡の楽曲が生まれた背景に迫るとともに、その「呪い」を検証する!
西寺氏によると「参加した現役世代のアーティストは、翌1986年までの2年間で自身の調子を最大に上げた後、軒並み失速する」(『ウィ・アー・ザ・ワールドの呪い』より)というのだ。
突拍子もない説に聞こえるかも知れないが、同書では実際に参加したアーティスト名とセールス記録が列挙してあり、この説を裏付けしている。
そこにはスティーヴィー・ワンダー、ビリー・ジョエル、ホール&オーツ、シンディー・ローパー、そして「We Are The World」をマイケル・ジャクソンと一緒に作曲したライオネル・リッチーと、音楽史上に名前を残すビッグネームが並ぶが、彼らはその後驚く程ヒットを出していない。
「マイケル・ジャクソン」 幼児虐待疑惑や整形手術など音楽以外のことがクローズアップされ、2009年、麻酔薬で心肺停止に陥り死亡。
『スリラー』(原題:Thriller) Michael Jackson - Thriller
約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。
1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。
1985年、アフリカ飢餓救済のためのプロジェクト「USA for Africa」に参加。「We Are The World」ではライオネル・リッチーと共に作詞作曲を手掛けた。
「ビリー・ジーン」(Billie Jean) は、1983年にマイケル・ジャクソンが発表した楽曲、及び同曲を収録したシングル。Michael Jackson - Billie Jean
1993年8月、性的虐待疑惑が浮上。裁判が推定7年近くかかること、またマイケルが精神的に危険な状態にあったことなど音楽活動への多大な影響を懸念して和解。
しかし和解を結んでしまったことで世間からは偏見の目を向けられ、後のマイケル・ジャクソン裁判まで尾を引くことになる。
「バッド」(原題: Bad)とは、マイケル・ジャクソンのアルバム、Badの表題曲。Badからの第2弾シングルカット。Michael Jackson - Bad
マイケル・ジャクソンに対する過失致死事件(マイケル・ジャクソンにたいする かしつちしじけん)とは、アメリカ合衆国の歌手であるマイケル・ジャクソンが、元主治医の過失によって死亡した事件。
Googleにおける2009年6月25日の「Michael Jackson」のアクセス数の推移。
マイケルの死は、各国のメディアでトップニュースとして報道された。CNNやBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた。
インターネット上で最初に報道したのはアメリカのセレブリティ専門サイトのTMZで、死後18分後という異例の速さだった。その後、ロサンゼルス・タイムズがその7分後に続いた。
2つのサイトはアクセス数の急増によってダウン。
大手検索エンジンGoogleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり、「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ不可能となるという事態が起こった。
Twitterでは6月29日に「1秒あたり456件」検索された。
「ライオネル・リッチー」 1986年の「セイ・ユー、セイ・ミー」以降、精神を病み、坂道を転げ落ちるように転落。
Lionel Richie - All Night Long (All Night)
全米、全英、全豪のアルバム・チャートで1位を獲得。1985年の第27回グラミー賞で最優秀アルバム賞を受賞している。
アメリカでは"Hello"と"All Night Long (All Night)"の2曲がシングルカットされ、いずれも全米1位を記録している。
原題は1曲目の曲名でもある"Can't Slow Down"であるが、日本ではシングルカットされた"All Night Long (All Night)"の邦題である「オール・ナイト・ロング」がアルバムタイトルとされた。
1985年にはマイケル・ジャクソンとの共作で、USAフォー・アフリカのチャリティー曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」を作曲。居並ぶスーパースターたちの中で名誉ある歌い出しを務めた。
1986年発表の『セイ・ユー、セイ・ミー(Dancing on the Ceiling)』からは「セイ・ユー、セイ・ミー」が自身5曲目の全米1位を獲得するが、この後ライオネルはしばらく表舞台から退いた。なお、「セイ・ユー、セイ・ミー」でアカデミー歌曲賞を受賞している。
1996年に、10年ぶりとなる復帰作を発表し、その後もマイペースでアルバムを発表しているが、母国アメリカではヒットしなかった。
近年では、養子の娘ニコール・リッチーがテレビパーソナリティとして人気者となっており、また、離婚した元妻から請求された莫大な慰謝料と豪勢な生活ぶりが報じられるなど、音楽以外の面で話題になってしまっている。
「ハロー (心の扉)1984年2月13日に発売されたライオネル・リッチーのシングル Lionel Richie - Hello
ライオネル・リッチー『セイ・ユー、セイ・ミー(Dancing on the Ceiling)』(1986年) Lionel Richie - Say You, Say Me 1985
「ビリー・ジョエル」 2000年以降、アルコール依存症や鬱病が原因で入院したり、私生活がめちゃくちゃになってしまった。
「ピアノ・マン」 (Piano Man) は、ビリー・ジョエルによってリリースされた最初のシングル。 Billy Joel - Piano Man
しかし、1977年にビリーのアルバム『ストレンジャー』がリリースされてから、急にスーパースターの地位まで上昇し、まもなくこの曲も、彼の最もよく知られ、ラジオでヒットした曲の1つとなり、そのタイトルから、ビリーの代表曲とまで考えられるようになった。
今日でもこの曲の人気は続いており、2011年07現在では、iTunes Storeのビリーの曲として1位にランクされた。ビリーのコンサートでは、この曲が非常に知られているため、コーラスの部分を聴衆に歌わせるのがお約束となっている。ビリーはしばしば、コンサートの最後を「ピアノ・マン」で締めくくる。
そして1985年1月28日の夜、アメリカン・ミュージック・アワードの直後、アメリカ・ポップス界を代表する45人がハリウッドのA&Mスタジオに集結してレコーディングされた。この夜、マイケル・ジャクソンはアメリカン・ミュージック・アワードを欠席し、一足先にコーラスの目安に使うためのガイド・ボーカルの録画を行っていた。21時を過ぎると、続々とアーティストが到着してきた。 ライオネル・リッチーはアメリカン・ミュージック・アワードの司会、シンディ・ローパー、ティナ・ターナーは歌ったりと、多くのアーティストがこの授賞式から直行であった。22時、クインシー・ジョーンズの提案で、先ず45人のアーティストが全員でユニゾンと、ハーモニーのパートを録音。そしてコーラスの間のソロ・ボーカルの録音は、約20人のアーティストによって翌日早朝4時に始まり、午前8時にようやくすべてのレコーディングが終了した。