日本航空の歴史
第二次世界大戦が1945年(昭和20年)9月に日本の降伏で終結した後、日本の占領に当たった連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって、直ちに官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止された。やがて、1950年(昭和25年)6月にGHQにより日本の航空会社による運航禁止期間が解除されることとなり、1951年(昭和26年)1月に日本航空創立準備事務所が開設された。
マーチン2-0-2(もく星号)
1951年10月25日には、戦後初の国内民間航空定期便としてアメリカのノースウエスト航空から乗員とともにリースしたマーチン2-0-2型機「もく星号」で羽田空港-伊丹空港-板付空港間の定期旅客運航を開始した。
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初の正式塗装。赤2本と青のラインを窓の部分に配し、垂直尾翼には青のラインを5本入れ、社名表記はDC-4が漢字の「日本航空」
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1960年代に日本航空の主力機になったダグラスDC-8型機
60~80年代に、活躍していた代表的な 3機種としてDC-8 には、「日本各地の観光名所」コンベア880 には「草木の名前」そして、Boeing 727 には、「日本の代表的な河川名」が愛称として名付けられていました。
1964年オリンピック仕様もあった
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日本で開発された旅客機 YS-11
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戦後初の国産旅客機「YS-11」が9年ぶりに民間飛行!【動画】(2015.5.27飛行) - Middle Edge(ミドルエッジ)
国産初のジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」の開発に注目が集まる中、MRJの大先輩ともいえる、40年以上前に作られた国産プロペラ旅客機「YS-11」が9年ぶりに民間飛行をした。
実はコンコルドの計画があった
1965年にはエールフランス航空やパンアメリカン航空などのライバル各社とともに、先行して開発が進んでいた超音速旅客機のBAC/シュド・アビアシオン コンコルドを3機仮契約した。両機ともに1970年代前半の就航の見込みであったが、開発が大幅に遅れた上に、超音速飛行に伴う衝撃波や離着陸時の騒音などの超音速旅客機特有の公害問題の存在が明らかになったこともあり、その後多くの航空会社と同様に両機の発注をキャンセルした。
実現していれば、歴史に残る機体となっていたでしょうね。