歌舞伎町のど真ん中に昭和レトロな居酒屋、仕切るのはインディーレスラー「KUDO」!
2017年8月7日 更新

歌舞伎町のど真ん中に昭和レトロな居酒屋、仕切るのはインディーレスラー「KUDO」!

東京・新宿歌舞伎町のど真ん中に昭和レトロ風居酒屋「エビスコ酒場」あり。プロレスファンならお馴染みのこの居酒屋を仕切るのは、DDTプロレスリングのトップレスラーKUDO選手。プロレスキャリア16年、今なおレスラーとして第一線で活躍を続ける一方、この土地で8年間飲食業を営むKUDO選手が淡々と語る、インディーレスラーとしての覚悟、そしてプロレス愛。

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新宿・歌舞伎町のど真ん中に「エビスコ酒場」あり

2017年4月、DDTプロレスリングのトップレスラーKUDO選手にインタビューの機会を頂戴したミドルエッジ編集部(ミド編)。

KUDO選手といえば、多士済々たるDDTプロレスリングにあって2001年のデビュー以来、団体のトップを務めてきたベテラン選手。
そしてもう一つの顔が、飲食業ひしめく東京・新宿歌舞伎町のど真ん中で、昭和レトロな感が漂う「エビスコ酒場」を8年間切り盛りしてきた経営者の顔も持つ。

今回、昭和レトロなエビスコ酒場店内も撮影したいと要望をお伝えして、インタビューは新宿歌舞伎町で行われることとなった。
KUDO選手が経営する「エビスコ酒場」

KUDO選手が経営する「エビスコ酒場」

歌舞伎町のメインストリート「セントラルロード」を直進、新宿東宝ビル(旧コマ劇場)とぶつかる角にあるエビスコ酒場。

<店舗所在地>
東京都新宿区歌舞伎町1-14-6 第21東京ビルB1F
エビスコ酒場は昭和レトロな空間

エビスコ酒場は昭和レトロな空間

一歩店内に入れば、新宿歌舞伎町のど真ん中とは思えない、昭和レトロ風な空間が広がっている。
懐かしい看板が所狭しと飾られている

懐かしい看板が所狭しと飾られている

誰もが見た(?)ボンカレーの看板などが、店内の至る所に。

「宝石箱アイスを出していたこともあったんですよ」(KUDO選手)

なんと昭和レトロ感漂うエビスコ酒場で、あの「宝石箱アイス」を出していたこともあると話してくれたKUDO選手。

飲み歩く中でヒントを得たメニューで、駄菓子のすももを使った「すももサワー」を提供したり、店内にガチャガチャ設置を検討したり、競合ひしめく歌舞伎町で飲食店を8年間続けた顔が、そこにはある。

そんなKUDO選手のインタビューを通して、読者の皆様にお伝えしたいのはインディーレスラーの覚悟とプロレス愛。

「二足の草鞋」と言うは易し、行うは難し。
淡々と語って下さったKUDO選手。しかしその口調の裏には、積み重ねてきた年月の重みがあった。

身体が小さく、なれないと思っていたプロレスラー

ミド編)2001年にDDTプロレスリングでデビューされたKUDO選手ですが、プロレスラーを志したのはいつ頃からだったのでしょうか?
身体も小さいしガリガリだったから、正直レスラーにはなれないと思っていました。
大学に入って学生プロレスをやってる間に闘龍門など様々な団体が登場して、レスラーになれるチャンスが出てきましたね。大学の4年間が過渡期だったのではないかなと思います。
高校時代、千葉県下有数の進学校に通っていたKUDO選手。

そのころの彼は、私たち世代の多くがそうであったように毎週の少年ジャンプや少年マガジンを楽しみにする学生生活。
そして、当時の全日本プロレス好きなら共感出来るであろう「四天王プロレス」に励まされて勉強を頑張ったというエピソードも。

しかし一方では、高校にあまりちゃんと通っていなかった、若干引きこもっていたという一面を述懐。
現役時代には大学受験をせず、浪人生活を送る中で先の人生を思い悩んだのだそうだ。
KUDO選手はアラフォー世代

KUDO選手はアラフォー世代

プロレスラーへの道、その始まりは浪人を経て大学時代の学生プロレスから。

学生プロレス、そしてキックボクシングへ

大学に進学した後は学生プロレスをやっていました。
大学1年の時には高田延彦選手の真似をして蹴り技をよくやっていましたね。
そのころに田村潔司さんと藤原敏男先生の対談を見て、藤原敏男ジムの門を叩いたんです。
「キックの荒鷲」と呼ばれるほど激しい攻撃力で一時代を築いたキックボクサー、藤原敏男。
その藤原ジムでキックを教わったKUDO選手。練習は非常に厳しく「No」とは言えないものだったそうだ。

学生時代、プロのキックボクサーに

例えばタイヤを首に抱えて階段の昇降をするなど、練習はかなりハードでした。
Noと言えない空気の中、入って1か月で「プロテスト受けろ」って言われたんですよね。
で、受けたら受かったっていう感じで。
プロキッカーとなったKUDO選手の学生時代、それはキックボクシングと学生プロレスの二足の草鞋だった。

DDTプロレスリングとの出会い

DDTプロレスリングとの接点は、学生プロレス時代にリングを借りていたんですね。
その縁でDDTの興行のお手伝いもしていました。
で、ある時にDDTの高木社長から「ちょっとリングで動いてみろ」といわれて、動いたら動けたっていう。
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