将棋タイトル戦の発足
2017年5月9日 更新

将棋タイトル戦の発足

竜王、名人、王将、王位、棋聖、棋王、王座。 将棋界には七つのタイトルがあり、タイトルをかけた戦いが存在する。 戦いにはそれぞれの起源があり、そして、物語がある。ご紹介しよう。

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将棋界への招待状

 将棋連盟のホームページが改装されたのは2016年9月のことであった。
 比較的新しい話と言えよう。
 新しいホームページは読み物にも力を注いでおり、棋士・女流棋士を含めたライターが定期的に更新している。

 将棋の関係者は棋書や観戦記など文筆に携わる機会が多い。
 文筆家も昔から将棋や棋士を題材に筆をとる人は断続的に出現している。
 なにかを書くということは棋士の得意技のひとつなのかもしれない。
 《読む》のほうは言わずもがなであろう。
日本の名随筆 (別巻8) 将棋

日本の名随筆 (別巻8) 将棋

 掲載されているのは菊池寛、織田作之助、斎藤茂吉、瀧井孝作、坂口安吾、井伏鱒二など。国語の教科書と見まがうばかりの顔ぶれである。
 そして編者は団鬼六。もちろんあの団鬼六。
 将棋連盟は将棋の普及、発展、伝統文化の向上、伝承を事業として意識している。

 というと堅いが、要は「将棋をはじめたい人、将棋を知りたい人。連盟はあなたを歓迎しています!」ということである。
 関係著作は日々増えており、NHK講座やネットでの将棋チャンネル、どうぶつしょうぎの存在やブログ・ツイッターなど将棋に関係した情報発信は年々増えているだろう。

 のだが……

「で、何から見ればいいの?」

 という状態になってしまうかもしれない。

 そんな人が現れた時、または自身がそんな疑問を抱いた時、ひとつの指標となってくれるのが「タイトル戦」の存在である。

タイトル戦とは

タイトル戦の風景

タイトル戦の風景

 将棋はスポーツと類似点が多い。ルールを覚え、練習し、仲間を増やし、腕に自信がついたら大会に出て成績を残る。将棋に限らずたくさんのプレイヤーがこの道を歩き続けている。
 そして高校球児がプロ野球選手になってもその歩みは止まらないのと同じように、将棋少年少女が夢をかなえプロになってからも戦いは待ち受けているのである。

 そのなかで特に大きな大会を《タイトル戦》と呼び、現在は7つある。
 タイトル戦で優勝すると《タイトルホルダー》となり、通常1年間、その称号をつけて呼ばれることになる。
 《羽生名人》という言葉を見聞きしたことがある人は多いだろう。
 これは《名人戦》というタイトル戦に優勝し、結果として《名人》というタイトルを獲得したという関係なのである。

 実はタイトルは大会ごとに更新されており、現在だと佐藤名人、久保王将、渡辺竜王に羽生三冠という状態になっている。

 タイトル戦は7つある。それぞれの現状については連盟のコラムである、
 がわかりやすく解説してくれている。

 しかしこのタイトル戦、最初から七大タイトルであったわけではない。

「加藤一二三十段」という言葉をご存知の方もおられるかもしれない。
 《十段》というのはかつてのタイトルだったのである。

 今回は、この七大タイトル戦がいかにして生まれ、現在のかたちに至ったのか。
 その誕生の物語を簡単にではあるがご紹介しようと思う。

名人戦

 最も古いタイトルである。
 最初の名人は初代大橋宗桂。1555年生まれで、生きていれば462歳ということになる。
 もちろんというのもなんだが、初代大橋宗桂は1634年、79歳で亡くなっている。古い話であるからじゃっかん数字はずれるかもしれないが。

 将棋における《名人》は彼以降26人誕生している。
 それぞれを紹介するだけでとんでもない字数になってしまうので、今回は転機が訪れた1935年以降に話を絞ろう。
 この年、《名人》は300年にわたる世襲制に幕をおろし、新しい戦いが始まった。

 それまで名人位は家元制度、世襲制のようなかたちで進んでいた。
 これは年功序列という意味では正しいのだが、若くして才能あった人物が名人位につけなかったり、在野に異常に強い人間がいて名人の地位継承に疑問がつけられたりと問題があった。

 そんななか、13代目の名人関根金次郎が70歳で名人を退くことを発表。それからは
「名人戦を開催し、最優秀の成績をおさめた者が名人位につく」
 ということになった。
 1935年のことであった。

 この《名人戦によって名人を選ぶ制度》を《実力制名人位制度》と呼んでいる。
 羽生善治も森内俊之も加藤一二三も谷川浩二も実力で名人を奪取し、そして奪取された人物である。

 名人に挑戦できる人数は限られている。
 1年間かけて約10人の棋士が総当たりのリーグ戦を行い、最も成績が優秀であったものが現在の名人と七番勝負を行う。
 先に4勝したほうが名人であり、挑戦者が勝てば新名人、現名人が勝てば連覇して2年目3年目、ということになる。
 この、名人挑戦権をかけて戦う10人のことをA級棋士と呼ぶ。

 A級棋士になるのには時間がかかる。
 まずプロの棋士は四段から始まる。
 すると基本的にC級2組からはじまり、C級1組、B級2組、B級1組、そしてA級と上がっていく。
 もちろん年功序列なんてものではない。C級2組ならば50人、B級1組であれば13人でリーグ戦を行い、上位2、3位の成績をおさめて初めて昇級できる。
 逆に下位成績2名は降級となる。
 このクラス戦のことを順位戦と呼ぶ。
 実際に名人をかけた七番勝負のことを名人戦、それ以外の戦いを順位戦を呼ぶ人が多い印象がある。

 C2から始まり昇級が年1回。
 ということはデビューしてからA級になるまで最短で4年が必要になる。
 それを成し遂げた棋士は今までに加藤一二三と中原誠の2名しかいない。
 彼らが伝説と呼ばれる所以のひとつであろう。
第74期名人 佐藤天彦

第74期名人 佐藤天彦

九段戦(現、竜王戦)

 大会を開き、優勝者がタイトルホルダーとなる。おもしろい制度じゃないか……というやり取りがあったとは限らないが、1950年、全日本選手権戦が《九段》というタイトルを設けた。
 まず名人以外の人で戦い、名人に次ぐ実力者を決める。その人物が《九段》となる。
 それを踏まえて名人と九段で五番勝負を行い(名人九段戦)、勝利した人物が全日本選手権者となる。
 まだタイトル戦というシステムが確立しきっていない当時の面影がうかがえる。

 1956年、名人九段戦が消え、タイトルとしての九段が登場する。
 1962年、十段戦に名称が変更。
 1987年、現在と同じ竜王戦に名称が変わっている。

 実はこの九段戦、十段戦、竜王戦、それぞれに曰くというか、逸話がある。

 本来、将棋に九段という段位は存在しなかった。
 頂上に名人がいて、名人候補だと八段。
 相当な実力者は七段、というような構図だった。
 その証拠というわけではないが、実力十三段とも棋聖ともいわれた天野宗歩は実際だと七段で止まっており、宗歩の弟子で関西名人と謳われた小林東伯斎が通称八段半、実際八段であったという。

 このあたりの事情が変わったのが1924年のことである。
 将棋連盟の発足に協力したという数人が八段に昇段した。当時2名しかいなかったという八段が一気に3倍に増えたのである。
 まだ名人戦が開催されていない頃の話なので、名人の競争率が3倍に増えたという見方もできた。

 時代は異なっているうえ、「九段はあくまで名人より格下なので九段戦に名人は参加できない」なんという規定も存在していた。
 だが、九段という名には「名人と比較しても遜色無い」という意味が変わらずにあっただろう。
九段

九段

坂口安吾「九段」には若き日の大山康晴が意外な登場の仕方をする。
 1962年。名称が十段戦に変更された。
 実はこの名称変更、囲碁が関わっているという噂がある。

 囲碁と将棋は江戸時代から比較対象になっていた。
 歯に衣着せぬ表現をすれば囲碁の方が格が上だったらしい。
 徳川家康が将棋よりも囲碁の方が好きであり、幕府の職としてはそうなってしまった。

 こうなってくると仲が良かろうはずがない。
 そんななか、囲碁のある棋戦が十段戦を名乗り始めた。1961年のことである。

 誰が言い出したのだろう、
「将棋に十段は無いから、囲碁棋士の十段が現れたら将棋指しは例外無く上座を譲らないといけないのでは?」
 という旨の話が広がったらしい。
 結果、将棋のほうも十段戦と名を変えることと相成った。
 一応、噂である。

 ちなみにではあるが、将棋、囲碁ともに十段という段位が制定されているわけではなく、あくまでタイトルのひとつとして扱われている。
第55期 囲碁十段戦

第55期 囲碁十段戦

囲碁の十段戦は現在も続いている
 1987年。将棋の十段戦は竜王戦と名前を変えた。
 記念すべき初代竜王を獲得したのは島朗。
 彼が開催していた研究会(通称:島研)は羽生世代の培養土的な場であり、参加していた人物はことごとく竜王や名人を経験するというとんでもない会合である。

 この話には「ただし島自身は名人を獲得していない」というオチもつく。


 竜王戦はその後も《将棋界の革命児》と呼ばれる藤井猛、羽生善治と初代永世竜王の座をかけて争い3連敗からの4連勝で勝利を番勝負を制した渡辺明といった異才をおくりだし続けている。
島ノート

島ノート

島朗の伝説的な著作。
囲碁の依田紀基もこの後「依田ノート」という本をだしている。

王将戦

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