たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光
2021年6月20日 更新

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。

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ファイティング原田がプロデビュー戦で4R TKO勝ちしたとき、斎藤清作にはプロテストが迫っていた。
入門して3ヵ月、練習を続ける中で高校時代のサウスポースタイルのアウトボクシングではプロでは通じないことを悟った。
「スパーリングお願いできないでしょうか」
ある日、斎藤清作は、梅津文雄に近づいて頭を下げた。
身長で20cm、体重で22kg上回るミドル級、しかも東洋チャンピオンである。
梅津文雄は相手にしなかったが、
「お願いします」
と斎藤清作は大先輩にしつこく迫った。
「失礼だぞ」
「ガードしても腕が折れる」
「1発で死ぬぞ」
周りの練習生が騒ぎ出し、パンチングボールを叩いていたファイティング原田も気づいて近寄っていった。
「清作、どうした」
練習生から事情を聞き
「こいつ、ちょっと変わってるんです。
ひとつご愛敬で・・・」
取りなそうとするファイティング原田を斎藤清作は
「愛嬌はいりません」
と遮った。
「本気で殴ってもらいたいです」
その真剣なまなざしに梅津文雄はうなずいた。
「準備しろ」
斎藤清作はヘッドギアをつけた。
本当はつけたくなかったが、それではやってもらえないに決まっていると思いつけた。
マウスピースを入れる前に
「1度倒れたらやめますから倒してください」
と頭を下げた。
「半分の力で十分だよ」
ヘッドギアもマウスピースもせずに梅津文雄が答えた。
「はい。
それでいいです。
倒れるまで打ってください」
「・・・・・・」
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スパーリングが始まると斎藤清作は、左肩を前にした右利きのオーソドックススタイルで構え、左ジャブから右を狙ったがまったく届かない。
強引に飛び込むとアッパーで顔面を跳ね上げれた。
それでも梅津文雄のパンチを顔面にもらいながら前進。
明らかに手加減した攻撃にいらだち、相手を本気にさせようと、とにかく攻めた。
2R、右ストレートをもらって腰が落ちかけたが、すぐに立て直し反撃。
クリンチになったとき、梅津文雄にささやいた。
「お願いします。
本気で打ってください」
梅津文雄は不愉快そうに突き放し顔面へ連打。
斉藤清作は踏ん張ってしのいで渾身のフックを顔面に返した。
(まだ先輩はセーブしている)
そう思いながらガードを下げたまま前進。
怒った梅津文雄は、力をこめて左ジャブから右フック。
斉藤清作は顔を横に捻られたが、元の位置に戻るとロングフックを返した。
それが梅津文雄の顎をとらえ、そのままラッシュ。
梅津文雄の顔が真剣になり、斉藤清作を突き放し、腰の入ったパンチを顔面に浴びせた。
「我慢するな、清作。
倒れろ!」
ファイティング原田が怒鳴った。
棒立ちになった斉藤清作は、次の一撃でロープまで吹っ飛ばされ、顔を上に向けて後方に倒れた。
誰もがロープの反動で前方に倒れると思った瞬間、斉藤清作は、その弾みを利用してノーガードの梅津文雄の顔面にパンチをめり込ませた。
梅津文雄は腰を落として後退。
斉藤清作はそれを追った。
頭突きを交えてコーナーへ押し込み、ボディを連打。
ここで2Rが終わった。
ファイティング原田は、うがいをしている斉藤清作の肩に手を置いた。
「もうやめたらどうだ。
お前のタフネスはわかったよ。
もう十分だろう」
「やる」
と答え、心の中でつぶやいた。
3R、リーチで上回る梅津文雄はカウンター戦法に切り替え、前進してくる斉藤清作を槍で突くように遠い間合いからストレート系パンチを連打。
斉藤清作は打たれ、夢遊病者のようにフラフラになりながらも攻め続けた。
「ラスト30秒」
そう声がかかると、梅津文雄がはじめてボディを叩いた。
斉藤清作はうめき声を上げ、上体を折って横転。
リングの上でエビのように丸まった。
心配そうに上から屈みこんでみている梅津文雄に声を絞り出した。
「大丈夫です。
ありがとうございました」
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さすがにダメージは大きく、早く寝ないと明日の仕事にさわるため、その日は原田家にいかず、2階建ての古い木造アパートに戻った。
共同の炊事場で湯を沸かし、インスタントコーヒーをつくり、それを持って4畳半の部屋に戻り、コタツに入った。
コタツ以外の電化製品は、40Wのはだか電球と畳の上に置いた白黒テレビだけという質素な部屋でコーヒーを飲みながらぼんやりとスパーリングを思い浮かべた
高校時代からタフさに自信があったが、改めて再確認できた。
本来の右利きで構えて戦うことがプロを目指すためには絶対に必要だったが、これでメドがついた。
「やれるだけやってやる」
右目だけでは距離感がつかみにくい。
非力で1発KOのパンチもない。
あるのは粘りだけ。
じゃあどうする。
結局、斉藤清作がとったのは前代未聞の奇策、ノーガード戦法だった。
顔面のガードを下げて前進。
当然、打ってくる相手に、防御は上体を動かしてパンチをかわしたり殺したりするダッキングとウィービングだけで、打たせて打つ、肉を斬らせて骨を断つという捨て身の戦法だった。
「どんなに打たれても倒れず、耳元で『効いてない効いてない』とささやき続け、相手が打ち疲れたところで猛反撃して、試合が終わってみると相手は打ちのめされていました。
対戦相手にとっては本当に怖かったと思いますよ」
(ファイティング原田)
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プロテストの日、後楽園ジムで簡単なスパーリングと健康診断が行われた。
問題は視力検査だった。
検査員は20歳くらいの女性だった。
「はい、最初は右目です」
といわれ、結果は、1.0。
「次は左目です」
といわれると、黒いしゃもじで右目を浅く隠し、検査員が棒で指し示すために検査表に顔を向けた瞬間、スッと左目にスライド。
「これは?」
と聞かれ
「下」
と答えると注意されることはなかった。
(よし!イケる)
興奮を抑え平静を装いながら答え続け、結果は、1.0。
9月5日、ファイティング原田に数ヶ月遅れ、プロデビュー。
1発打たれたら3発返すボクシングで判定勝ち。
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デビュー戦から2ヵ月後、第17回東日本新人王戦トーナメントが始まった。
毎年、行われる新人王戦トーナメントの出場対象は、プロで1戦以上4勝未満の新人ボクサー。
東日本と西日本に分かれ、各階級でトーナメントが行われ、勝ち上がってきた選手が、それぞれ東日本新人王、西日本新人王になる。
そして各階級の東日本新人王と西日本新人王が対戦し、勝者は全日本新人王となる。
全日本新人王は日本ランキング10位にランクされる。
笹崎ジムは、フライ級にファイティング原田と斉藤清作の2人を出場させた。
この年のフライ級は、ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利(あおきかつとし)という大型新人3名が同時にプロデビューしていて、「フライ級3羽カラス」と呼ばれていた。
根性とラッシュの原田、カミソリパンチの海老原、メガトンパンチの青木、3人3様の個性を持ち、このトーナメントで直接対決すればどうなるのか、誰が優勝するのか、ファンは興奮していた。
斎藤清作はあまり注目されていなかったが、ベスト16まで勝ち進み、3羽カラスの1人、青木勝利と対戦することになった。
「メガトン・パンチ」青木勝利は、3羽カラスの中で、最もイケメンで最もKO率が高く最も才能に恵まれているといわれていた。
反面、、練習嫌いで、結局、3羽カラスの中で唯一、世界チャンピオンになれなかった男でもあった。
試合前の控え室で、笹崎たけし会長はハッパをかけた。
「負けたら承知せんぞ」
「はい」
1R、青木勝利の強打がヒット。
2R、その圧倒的な攻撃に観客は早くも青木勝利のKOを期待。
斉藤清作はひるまず前進し、残り30秒で手数が落ちた青木勝利にラッシュをかけた。
3R、青木勝利はみるみる減速。
斉藤清作はボディから顔面へ連打。
接近戦では完全に打ち勝ち、青木勝利はたびたびクリンチで逃れた。
青木勝利は、パンチが強いだけに、それが効かなかったときの動揺は大きく、精神的に優勢になった斉藤清作の一方的な展開となった。
4R終了後、判定はドローだったが、ポイントで斉藤清作が優り、勝利。
周囲が番狂わせだと騒ぐ中、斉藤清作は
「青木のパンチは効かなかった」
とほくそ笑んだ。
同日の最終試合でファイティング原田も勝利し、共にベスト8に進んだ。
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1週間後、21時に練習を終えた斉藤清作は、事務室に呼ばれた。
入ってみると笹崎たけし会長と茂野貞夫トレーナーがいた。
「まあ、かけなさい」
笹崎たけし会長はソファーを勧めた。
「前の試合は健闘したな」
茂野貞夫トレーナーは目を細めながらいった。
「はい。
思ったとおりの試合運びで」
「おばあちゃんがほめてたよ。
清作のボクシングはおもしろいって」
「はい」
「話というのはだね、ベスト8にうちから2人残った。
その対策のことなんだよ。
対戦相手をみると次の試合では原田もお前も勝つことに違いない。
ところがその場合、どういうことになるか、わかるだろう?」
「どういうことでしょうか?」
「ハッキリいおう。
君には次の試合で棄権してもらいたい」
「ハッ?」
「この世界では同門同士の対決は原則としてやらないことくらいわかっているね」
「・・・・・・・」
「このままではお前と原田は準決勝で顔を合わせることになる」
「・・・・・・・・」
「原田とは親しくしているそうだな」
「はい」
「お前は原田を殴れるか?」
「・・・・・・・・」
「殴れるか?」
「同門同士の対決が絶対に不可能というわけじゃない。
準決勝でお前が原田を倒すことは十分あり得るだろう。
アオキのパンチに動じなかったお前だからな。
そのときは原田が死ぬことになる」
「死ぬ?」
「そうだ」
「私は原田をとにかく大事に育て上げたいと思っている。
もちろん君もだ。
見捨てるわけじゃない。
戦ってどちらかが死ぬよりも戦わずしてどちらかが1歩譲るほうが、よほど2人のためでもあるんだよ」
「会長のおっしゃるとおりだ。
ボクシングは並みのスポーツじゃない。
いくら正々堂々のスポーツマンシップといったって陸上競技とは違うよ。
相手を、それこそ殺す気で殴らなければ勝てないのがプロボクシングだ」
「・・・・・・・・・・・」
「お前は原田を殺す気で殴れるか」
斉藤清作は首を振った。
「そうか」
茂野貞夫トレーナーはうなずいた。
「原田もお前を殴れないといっていたぞ」
「はい」
「もう帰っていいぞ」
「はい」
斉藤清作は立ち上がり、一礼して事務室を出た。
ジムを出ると、背後から声がした。
「清作、ちょっと」
おばあちゃんは斎藤清作に近づき、手をとってチリ紙に包んだお金を握らせ
「今夜は遊んでおいで」
と耳打ちした。
「ひねくれるんじゃないよ」
「わかってます」
斉藤清作は頭を下げた。
おばあちゃんは目を細めてうなずき、肩を抱き寄せ、ポンッポンッと背中を叩いた。
「おばあちゃんはお前の味方だよ」
チリ紙の中には3000円が入っていて、斉藤清作は夜の街で憂さを晴らそうとした。
心の中では
(バカな。
実力で勝負をつけるのがスポーツじゃないか)
という怒りと
(原田はスター選手だから仕方ない)
という優しい気持ちがジェットコースターのように交錯し続けていた。
結局、このことは斉藤清作の中で、一生、残った。
「自分はファイティング原田より強かった」
という自信があった。
少なくても「強かったかもしれない」ということは事実で、確かめようない事実を延々と追い続け、悔やみ続けることになった。
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クリスマスに行われた東日本新人王決定トーナメントの決勝戦は、ファイィング原田 vs 海老原博幸となった。
「原田の右、海老原の左、先に当たったほうが勝つ」
といわれ一瞬も目を離せないスリリングな戦いが予想された。
1R、開始のゴングと同時にファイティング原田は赤コーナーに一直線に向かってボディと顔面に左フック、そして右フック。
海老原も打ち返し、2人はにらみ合う暇もなく打ち合った。
1分過ぎ、ファイティング原田の右が海老原の顎にヒットしダウン。
カウント9で立ち上がった海老原にファイティング原田は猛然とラッシュ。
2分30秒、ファイティング原田が右のロングフックで2度目のダウンを奪った。
カウント8で立ち上がった海老原は、残り15秒をなんとかしのいだ。
海老原は生涯で72戦し、その中には世界戦も6戦あるが、KO負けは1度もなく、ダウンも、この試合での2度だけである。
3R、ファイティング原田は、海老原をロープに追い詰めて連打し、レフリーはロープダウンをとった。
「イケる」
観戦していた斉藤清作は拳を握り締めた。
4R、カミソリパンチの異名を持つ海老原博幸の左ストレートが決まり始める。
5R、海老原博幸の左が顎に刺さり、ファイティング原田が腰を落とした。
続くラッシュでファイティング原田はダウン寸前に追い込まれた。
「倒れるな!
この回さえ持てばお前の勝ちだ」
斉藤清作の思いに応えるように、ファイティング原田は逃げずに打ち返し、強烈なパンチの打ち合いとなった。
6R、最終回も好ファイトが行われ、熱狂のうちに終了のゴングがなった。
「ハラダ」
判定は3者共に2~3ポイント差でファイティング原田を支持。
「いい勝負だった」
斉藤清作は思った。
その夜、パーティが開かれ、笹崎たけし会長は新人戦に出た全選手の健闘を称えた・
「よかったな」
斉藤清作はファイティング原田に近づいて頭をなでた。
準々決勝での棄権以来、原田家に行くことも、2人でロードワークすることもなく、お互いに避け合っていた。
ファイティング原田は斉藤清作のグラスにビールをつぎ、斉藤清作もオレンジジュースをつぎ返し、乾杯した。
(新人王か)
斉藤清作の中で、これまでと違うライバル意識が芽生えた。
青木勝利に勝った斉藤清作には
「俺はファイティング原田よりも海老原博幸よりも強い」
という自信があった。
しかし今夜の2人のファイトをみて、かなわないものがあることも認めた。
それはスリル、迫力、テクニックなど誰もがわかるボクシングの面白さであり、スター選手の持つ輝きだった。
(なんとかする
俺が1番強いんだ)
戦うことができなかった男は、闘志をかき立てた。
海老原を下したファイティング原田は、その後西日本の新人王も倒し全日本新人王になった。
実力的に5分5分といわれていただけに、もし斉藤清作が棄権せずファイティング原田と戦っていれば、ボクシングの歴史は変り、「たこ八郎」も誕生しなかったかもしれない。
しかし斉藤清作が棄権の件で、ファイティング原田に不平不満を口にしたことは1度もなかった。
かえって切磋琢磨して友情を深め、そんなことはなかったかのように戦い続けた。
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日本のプロボクシングにおいて、世界チャンピオンになるための一般的なコースは

・プロテストに合格しプロボクサーになる
・C級ボクサー(4回戦ボーイ)として、4R制の試合で4勝し、B級昇格
・B級ボクサー(6回戦ボクサー)として、6R制の試合で2勝し、A級昇格
・A級ボクサーとして、8R制の試合に勝って、10回戦、12回戦に進む
・日本ランキング10位以内に入り、日本タイトルへの挑戦権を得る
・日本チャンピオンになる
・日本タイトル防衛
・東洋大平洋チャンピオンになる
・世界ランキング上位入り
・世界チャンピオンになる

そして世界タイトルを防衛していく-と書くのはかんたんだが、実際は大変なプロスポーツである。
減量のためにストイック(禁欲的)な生活と勝つためにハードなトレーニングが要求され、大きな恐怖とロープを乗り越えリングに入って、凶器のような拳で殴り合う。
その上で勝てなければ、いつかリングから消えていくしかない世界だった。
ちなみにプロボクシングで、全日本新人王-日本チャンピオン-東洋太平洋チャンピオン-世界チャンピオンのすべて獲得することを「グランドスラム」という。
(強いアマチュアボクサーが新人王トーナメントを飛ばしたり、東洋太平洋チャンピオンにならずに世界チャンピオンになることもある)
ファイティング原田は、すでにB級ライセンス、6回戦に進んでいて、西日本新人王の田中利一を下し全日本新人王となり日本ランキング10位に入ると、すぐに10回戦のメインイベンター(その日の最後に行われる、興行の中心となる試合)となるなどグランドスラムロードを走っていた。
期せずしてその道から落っこちてしまった斉藤清作の次の目標は、1ヶ月に1~2回の試合を勝ち抜いてC級ライセンス(4回戦)からB級(6回戦)へ昇格することだった。
1度、バッティングでTKO負け
(当時はバッティングで出血し試合続行不可能になった場合、たとえそれまでの試合内容が優勢でも、「血を流すほうが弱い」とされ負けとなる)
した以外、4回戦では負けず、ファイティング原田が10回戦へ進む2ヶ月前に6回戦に昇格。
6回戦といえば、メインイベントの前座試合だが、高いチケットを買った観客の注目を浴びて戦う1人前のプロボクサーだった。
東京オリンピックまであと3年、新幹線や高速道の工事が始まり、大気汚染や公害を顧みず高度成長の狂騒に中にある日本で、力道山のプロレス、巨人・長嶋茂雄のプロ野球、そしてプロボクシングは大人気で、各局がボクシング番組を持ち、連日テレビで放送され、プロボクサーの仕事(試合)の数も多かった。
斉藤清作は6回戦の初戦を勝つとフィルム運びの仕事を辞めた。
月に1~2試合あり、1ファイトで祝儀を入れて6万円もらえたからだ。
朝起きるとロードワーク。
ジムで縄跳び、シャドーボクシング、サンドバッグ。
午後、少し休んでから、夜にまたジムで練習。
とますますボクシングに打ち込み、自分のボクシング、肉を斬らせて骨を断つ捨て身のノーガード戦法を完成させていった。
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以前からパンチングボールはやらなかった。
小刻みな反動を繰り返すボールを打つパンチングボールは、パンチのスピード、リズム、タイミングを養うのに最適な練習だったが、片目なのでうまくできなかった。
「お前はなぜパンチングボールを叩かないんだ?」
笹崎たけし会長にとがめられても理由をいうわけにいかず、なんとかいい逃れをして黙々とサンドバッグを打ち続けた。
それに加えて
「逃げ足はいらない」
と縄跳びもやめた。
ジムではシャドーボクシングでアップした後、サンドバッグ、スパーリングに多くの時間を割いた。
サンドバッグは、実戦をイメージし、ディフェンスも忘れず、飛び込んで頭をつけて左右のボディ。
1歩引いてフックとアッパー。
3分打って、1分休む、その繰り返し、15回目、世界戦なら最終ラウンド、15Rの最後に猛然とラッシュした。
スパーリングには特に力を入れた。
通常は1日2、3Rだったが、5、6Rをこなした。
しかも相手は自分より重いクラスを選んだ。
試合では、これまでも突進して打たれていたが
「どうせパンチを喰うならハッキリ打たれたほうがいい。
打たれた瞬間、自覚して打たれたほうがダメージが少なくてすむ」
といって、より相手に打ちたいだけ打たせて誘い込むようになった。
腕はダラリ、拳を顎のはるか下で構え、首を振りながら前進。
相手のパンチを下がったり、左右にステップしてかわさず、クリンチもしない。
相手に真っ直ぐ進んでいき、周囲があきれるほど打たれながら、必ず打ち返す執念をみせる。
斉藤清作は、早ければ1Rから、少なくとも早い回から、まるでプロレスのように必ず流血。
やがて打ち疲れ、動きが鈍くなり、音を上げた相手に猛然とパンチを繰り出し反撃開始。
このとき観客は沸き、不死鳥のごとく蘇った斉藤清作に声援を送った。
そういう戦い方をしながら、6回戦の戦績は、16戦14勝(4KO)2敗
勝利はすべて逆転勝利。
2敗の1つはバッティング(頭突き)の減点、もう1つは風邪によるコンディションを崩していたための判定負け。
KO負けは0だった。

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試合はファイティング原田のメインイベントの前座が多かったが、観客の中には斉藤清作目当ての客も多くいた。
ファイティング原田がバリカンでイタズラしたことから生まれた、頭頂部を丸く苅ってくぼみをつくったヘアースタイルが
「カッパの清作」
とウケると
「水がたまって気持ちいい」
とボケて、さらにウケた。
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