たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光
2021年6月20日 更新

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。

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1962年5月30日、蔵前国技館で、日本フライ級チャンピオン:野口恭が、世界フライ級チャンピオン:ポーン・キングピッチに挑戦。
もし野口恭が負ければ、ファイティング原田がポーン・キングピッチに、そして斉藤清作は、日本チャンピオンである野口恭に挑戦することが決まっていたが、結果は、野口恭の判定負け。
その後、 すぐに ポーン・キングピッチ vs ファイティング原田戦は5ヵ月後の10月10日と決まったが、野口恭介 vs 斉藤清作戦は、野口恭介がポーン・キングピッチ戦で左拳を痛めたため、
「秋頃までに」
ということになった。
斉藤清作は、それまで数戦、メインイベンターとして、ランキング下位や外国人選手相手にノーガード戦法で凄絶に打ち合い、勝ち続けた。
斉藤清作のブルファイトは、ファイティング原田のラッシュや海老原博幸のカミソリパンチに負けないインパクトがあり、、ファンを熱狂させた。
メインイベンターのファイトマネーは、1試合20万円。
祝儀を加えると30万円に達することもあった。
しかし相変わらず住まいは4畳半のアパートで、電化製品も裸電球と畳の上に置いた白黒だけで、ファイトマネーは夜の街に消えた。

ファイティング原田 VS ポーン・キングピッチ Ⅰ (1962年)

日本ランキング2位、日本チャンピオンでさえないファイティング原田の世界挑戦について
「時期尚早」
「完全に格下」
というマスコミの論調に、本人は
「ナニクソ!」
と死に物狂いで練習した。
チャンピオンが来日し、羽田空港に迎えにいったときも、握手をしようと手伸ばしたが、ポーン・キングピッチに無視された。
「ナメやがって、この野郎、絶対に勝ってやる」
試合当日、リングでコールされたとき、ファイティング原田は笑っていた。
「苦しい練習を積み重ねてきて、それをやっと発散できるんだ。
楽しくないはずないじゃないか」
一部の専門家は、プロ2年半、19歳のファイティング原田のキャリア不足、テクニック不足、パンチ力不足を指摘し、ポーン・キングピッチ有利と予想していた。
しかし斉藤清作は、ファイティング原田の勝利を信じていた。
ゴングが鳴ると、ファイティング原田は、相手コーナーに向かって突進。
ポーン・キングピッチは2、3歩前に出たところで奇襲のフックを顔面にもらい後退。
ファイティング原田は猛然とラッシュ。
11R、ファイティング原田は、右ストレートでポーン・キングピッチをロープまでフッ飛ばすと狂った風車のようにラッシュ。
ポーン・キングピッチは少しずつ落ちていき、2分59秒、ファイティング原田のKO勝ち。
日本人で2人目の世界チャンピオンとなった。
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ポーン・キングピッチ戦から2ヵ月後の12月、年明け早々に行われるリターンマッチに向け、ファイティング原田は、伊豆下田の蓮台寺で強化合宿が行った。
これに日本タイトル挑戦を控えた斉藤清作も参加。
朝7時から約1時間、ロードワーク。
斉藤清作は、ファイティング原田の後方を、両脇を締めて胸の前に拳を揃えた姿勢で走った。
その後、朝食。
ファイティング原田の朝食は、トースト3枚、ハム2枚、大根おろし。
ちなみに昨日の夜は、トースト2枚、鶏のから揚げ、卵スープ、果物だった。
ポーン・キングピッチ戦後、自由に食べ、数週間後に練習を再開したとき、体重は57.1kg。
この合宿に入った時点で54.4kg。
試合まで1ヵ月でフライ級のリミット、50.8kgまで落とさなければならなかった。
朝食後、軽く仮眠をとって練習再開。
シャドーボクシングやサンドバッグを3分間やって1分間休むことを繰り返す。
昼食後、午後はスパーリング。
斉藤清作はヘッドギアをつけずにマウスピースだけくわえて打たれる訓練を重視。
普通は顔面に向かってくるパンチを、かわす練習をする。
その場合、いかに最小限の動きでかわすかが課題となる。
しかし斉藤清作は、いかにパンチを殺すかを磨いた。
首を柔らかくしてパンチの破壊力をそぐのである。
フックを受けるとブンッと顔が回転し、ストレートやアッパーを受けると頭が後方に折れるが、そういう派手な動きはパンチ力をそぐと共に相手の対する演技となった。
すごいパンチを入れたはずなのに効かない、俺のパンチでは倒れないというマイナスの暗示を植えつけるのである。
17時に夕食となり、20時には就寝。
酒を飲まなければ寝られない斉藤清作は、みんなが寝静まったのを見計らって、隠しておいた一升瓶を出した。
宿舎を抜け出して飲み屋にいくこともあった。
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合宿中、ポーン・キングピッチ戦の日程が正式に決まった。
試合は1月12日。
場所は敵地タイ。
時間は、現地時間の19時半、日本では21時半開始だった。
「日本とタイは時間が違うんですか?」
(斉藤清作)
「なにいってるんだ。
フィリッピンへいっただろう」
(ファイティング原田)
「あ、そうだ。
時間、そういえば違ってたっけ」
みんなが爆笑したので斉藤清作が
「そんなにおかしいですか?」
と聞くとまた爆笑された。
「でも不思議だな。
どうして時間、違ってんのかな」
「そりゃお前、地球が丸いからだよ。
回っているからだよ」
「地球が丸いから時計も丸いのかな?
四角い時計もあるから、それは違うな。
地球が回るから時計の針も回るんだね」
「何をブツブツいってるんだ」
「むずかしいな。
ついていけねえな、俺。
ずっと時間は回ってるんだね。
時間は過ぎるんじゃなくて回るものなんだ。
違ってっかな」
「お前、たまに気に利いたこというんだよな。
なかなか哲学的だよ」
「たまにこう、何が何だかよくわかんなくなっちゃうんだよね。
こんがらがっちゃって」
みんなまた爆笑。
昔から人を笑わせることは好きだったので、笑われることはよかったが、最近では別に笑わせようと思ってなくても笑われることが多く、どうしてか疑問だった。
自分でも笑わせようと思っているのか、無意識なのか、わからないときもあった。
ひょっとすると自分は笑いの天才ではないかと思うこともあったが自信はなかった。

たこ八郎 日本フライ級タイトルマッチ

1962年12月28日の朝、ファイティング原田は、笹崎たけし会長らと共に羽田空港からタイへ出発。
そして夜になると後楽園で、日本フライ級チャンピオン:野口恭 vs 挑戦者:斉藤清作戦が行われた。
「殺されるつもりで打たれ、殺すつもりで打ち返す」
そう誓っていた斉藤清作は、ゴングが鳴るといきなり右フックをヒットさせラッシュ。
前進してくる斉藤清作に野口恭は、左アッパーと右フック。
それを顎にもらいながら斉藤清作は、右より左が弱いことに気づいた。
サウスポーの野口恭にあり得ないことだった。
(左が治っていない!)
その後、わざと不用意に接近し、ワンツーを受けてみて相手の左拳の故障を確信した。
3R、野口恭は左を出すたびに顔を歪めうめき声をもらした。
斉藤清作は心を鬼にして容赦なく攻めた。
打たれても打たれても執拗に前に出てくる型破りのボクシングにチャンピオンの華麗なテクニックは徐々に狂い始めた。
野口恭は果敢に打ち合ったが、やがて右目が完全にふさがり、ノーガードの相手にパンチを外すようになった。
チャンピオンの意地で倒れず戦い続けた野口恭だったが、10Rの死闘の後にレフリーが挙げたのは斉藤清作の手だった。
勝ち名乗りを受けた後、斉藤清作は、野口恭介に向かって深々と礼をした。
腰に巻かれたチャンピオンベルトはズシリと重かった。
「チャンピオンになった感想は?」
「ラッキー、もっけもんです」
笑いが起こったが
「実力だぞ」
という声も飛んだ。
こうして22歳の斉藤清作は35戦目で第13代全日本フライ級チャンピオンとなった
これで笹崎ジムは
・東洋太平洋ミドル級チャンピオン:梅津文雄
・日本ミドル級チャンピオン:斉藤登
・世界フライ級チャンピオン:ファイティング原田
・日本フライ級チャンピオン:斉藤清作
と4人のチャンピオンが在籍することになった。
次の日、マスコミは、斉藤清作の闘志を称えると共に野口恭の故障を伝えた。
斉藤清作は、自力ではなく、まるで棚ボタでチャンピオンになったような気になり、また野口恭が気の毒に思えた。
「勝ちは勝ちだ。
みんなどこか悪くて、爆弾を抱えてて、それでも勝負しなくちゃならないのがプロなんだ。
言い訳ナシだ」
思い直し、部屋のある一升瓶に手を伸ばした。
そして不意に思った。
「ボクシングをやめたい」
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数週間後、斉藤清作は、意を決し由利徹の家を訪ねた。
由利徹は斉藤清作と同じ宮城県出身。
大工の家の9人兄弟の次男として生まれ、ピストン堀口に憧れたが、新宿の大衆劇場「ムーランルージュムーランルージュ新宿座」の芝居に感動し、中卒で上京。
ムーランルージュに入団した翌年、大日本帝国陸軍に入って中国華北地方へ赴任し悲惨な体験をした。
帰国後、ストリップ劇場のコントで活躍。
本来は喜劇役者になろうと考えておらず、2枚目の役者や歌手を目指していた。
「ガキの頃は、お袋やお父っつぁんに人に笑われるような人間になっちゃいけないよっていわれたけどね。
それじゃ食ってけないんでね。
一生懸命笑ってもらえるような芝居やります」
その人柄から多くに慕われ、テレビドラマやバラエティー番組、映画にも出演。
「オシャ、マンベ!」
のギャグが有名でサインを求められたとき書く言葉は、
「子供の涙は虹の色、喜劇役者の涙は血の色」
とそのドタバタ喜劇ぶりから想像もつかない言葉だった。
斉藤清作にしてみれば由利徹は、崇め畏れる大御所で、相手にしてもらえるのは日本チャンピオンという肩書きがある今だけという思いがあった。
王座を陥落する前に行かなければ滑り落ちてからではもう遅い。
渋谷区笹塚の住宅街にある由利家にいき、玄関に出てきた夫人にオドオドと告げた。
「あの、僕、斉藤清作といいますけど、先生はいらっしゃいますか」
「おりますが・・・」
夫人が消えた奥から
「斉藤清作?
聞いたことあるな」
という声を聞いた斉藤清作はワクワクした。
「ボクサーの君が俺に何の用かね」
着物姿でやってきた大御所に斉藤清作は身を強張らせた。
「あの、ボ、僕を弟子にしてください」
いきなりいって、カッパ刈りの頭頂部を由利徹に向け、深く頭を下げた。
「君は近頃フライ級で活躍しているカッパボクサーだな」
「はい、間違いありません」
「弟子になりたいとはどういうことかね」
「弟子にしていただけたら僕、ボ、ボクシングやめます」
緊張で舌をもつれ、尿意がもよおし、脚はふるえていた。
「俺は弟子をとらねえんだよ」
「お、お願えします。
僕、仙台苦竹村の出身です。
腺性に弟子入りしたくて東京へやってまいりました」
斉藤清作は土下座して声を張り上げた。
「まあ、上がりなさい」
「ありがとうごぜえます」
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由利徹は応接間に入って、夫人に運んできた酒を斉藤清作のお猪口についだ。
「君はチャンピオンになったばかりじゃないか」
「はい」
「何を考えているのかね。
弟子にしてくれたらボクシングやめますだって?
冗談じゃないよ、君」
由利徹は厳しいまなざしを向けた。
「僕、ボクシングが嫌いなんです」
「好きも嫌いもないよ。
それで喰ってるんだろう」
「はあ」
「チャンピオンになったんだろう」
「はい」
「甘ったれるな。
君のような男に負けた前のチャンピオンはどう思うかね」
「・・・・・・」
「ろくに防衛もしないような野郎に負けた男はさぞかし悔しいだろうよ」
「・・・・・・」
「君のボクシングはテレビでみて知っているよ
なかなかのファイトぶりじゃないか。
打たれて打たれも前へ出る。
いいねえ」
「どうか僕を弟子に・・」
「ブルファイターっていうんだろう。
下手な闘牛士の手に負えない。
ジョー・メデル(「ロープ際の魔術師」といわれファイティング原田をKOした)あたりとやらせてみたいね。
ありゃ、名闘牛士だから」
「ボ、僕を弟子に・・・」
「うっせえ。
何べんいったらわかるんだ。
俺のファンだからっていちいち弟子にするわけにはいかねえんだ」
「才能あると思ってるんです」
「ボクシングの才能だろう」
「ボクシングの才能はないです」
「なくてチャンピオンになれるか」
「なれたんです。
どういうわけか。
運がよくって。
部屋掃除、庭掃除、便所掃除なんでもやります。
小間使い、小僧、丁稚、そう思って使ってください。
師匠!」
「師匠?
おい、ちょっと待てよ」
斉再び土下座する藤清作を由利徹を立たせソファーに座らせた。
「困った野郎だな。
じゃ、こうしよう。
とにかく今はダメだ。
君はチャンピオンなんだからファンもジムも許すわけがない。
ファンを見捨てるようじゃ役者としても失格だよ。
とにかく今はボクシングを続けなさい。
今のうちにウンと多くのファンをつくっておくことこそ大事だ。
できるだけ長く防衛して、そしてボクシングができなくなったらもう1度来てみなさい」
「ボクシングができなくなったら弟子にしていただけるんですね」
「わからん。
それはそのときだ」
「わかりました。
よろしくお願えします」
斉藤清作は、額をテーブルに打ちつけしばらく動かなかった。
その後、斉藤清作はボクシングに打ち込み、由利徹は、斉藤清作のファンとなり、リングサイドまでいくこともあった。

ファイティング原田 VS ポーン・キングピッチ Ⅱ (1963年)

タイのバンコクでファイティング原田が、初防衛戦となるポーン・キングピッチのリターンマッチにのぞんだ。
笹崎ジムでは、斉藤清作を含むジム仲間と報道陣がラジオを取り囲み、6000km離れた場所で行われている試合の模様をかじりついて聞いた。
8Rと9Rにファイティング原田のパンチでポーン・キングピッチが倒れたが、レフリーはダウンを取らなかった。
そして終盤、ポーン・キングピッチが反撃し優勢になり、判定勝ち。
タイトルを失ったファイティング原田は、帰国後、バンタム級に転向を表明した。
翌日、ジムで顔を合わせた斉藤清作とファイティング原田は、軽く汗を流した後、赤坂の焼肉屋にいった。
「お前は日本チャンプ、俺はただの男になったよ。
会長は次にお前にポーンへ挑戦させたいといってる」
「まさか」
「何がまさかだ。
お前はもうれっきとした世界ランカーだよ。
次の発表で9位にはランクされるはずだ。
飛行機の中で何べんも次は清作だって・・・」
「次は海老原だよ。
俺は日本で十分だよ。、
俺に世界チャンピオンなんて似合わないよ」
「なにいってるんだ。
ポーンにも勝つ自信があるっていってたじゃないか」
「あるよ。
でも自分はこれでいいと思ってる」
斉藤清作は
(原田だけには・・・)
と由利徹に会いにいったことや、ボクシングをやめた後、喜劇役者になりたいことを打ち明けた。
「やめた後のほうが長いからな」
ファイティング原田はいった。
「役者なら、片目でもずっとやっていけるし」
「片目?」
(とうとういってしまった)
斉藤清作はそう思いながら
「こっちの目、みえねえんだ」
といってしまった。
「何だと?
お前・・・」
「うん、昔っから」
「・・・・・」
笑顔でいう斉藤清作に唖然としたファイティング原田はテーブルに視線を落とした。
しばらくして
「知らなかった」
とつぶやき、さらに目を伏せた。
「黙ってろよ。
相手に知られたらヤバいから」
「当たり前だ」
軽くいう斉藤清作にファイティング原田は目を濡らしながら精いっぱい答えた。
焼き肉を出ると斉藤清作は馴染みのクラブへ向かった。
一郎あんちゃんとはよくいくが、笹崎たけし会長に飲みに誘うことを禁じられていたのでファイティング原田は1度も連れていったことがなかった。
(今夜は特別だ。
明日からは誘わない)
片目で世界ランカーになった男は、そう心に決め、2階級制覇に向かうファイティング原田の新しい門出を祝って大いに飲んだ。
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1963年2月19日、ファイティング原田がタイでタイトルを失った1ヵ月後、世界ランキング9位の斉藤清作はノンタイトル戦で、世界フライ級10位、東洋太平洋フライ級チャンピオン、「タイの稲妻小僧」チャチャイ・チオノイと対戦。
「タイトル防衛戦のつもりでいけ」
そうハッパをかける笹崎たけし会長には、「勝てば世界挑戦という目論見があった。
一方、斉藤清作は、チャチャイ・チオノイはいずれ間違いなく世界を制するとみていて、この強敵に勝つことは大きな誇りになると燃え、ヘアスタイルをカッパ刈りから丸坊主に改めた。
「世界ランキングではお前のほうが格上だぞ」
と茂野貞夫トレーナーがいう通り、ランキングでは上にいたが、東洋太平洋チャンピオンという肩書きは日本チャンピオンより格上。
斉藤清作は、挑戦者サイドである青コーナーからリングに上がった。
1R、斉藤清作はノーガードで前進。
的確なパンチをもらって首を後ろに折られながら踏み込んでパンチを放つがチャチャイ・チオノイはもうそこにいない。
斉藤清作は追ったが俊敏なチャチャイ・チオノイにパンチが流れ、体制が崩れたところにパンチをもらい鼻血が噴き出した。
2R、斉藤清作はいつもの打たせて打つボクシングができない。
打とうと出れば打たれ、追えば追いつめる前に打たれるか、クリンチされてしまう。
3R、やっと斉藤清作のパンチが決まる。
4R、気負って飛び込んでいく斉藤清作に、チャチャイ・チオノイはわずかにステップバックした足を踏ん張って右ストレート。
これが顎に命中。
腰の入ったパンチをもらった斉藤清作は棒立ち。
さらに右ストレートが2つ顎を打ち抜き、斉藤清作の膝が折れた。
これまでどれだけ打たれても決して倒れなかった男が、ついに倒れた。
観客がどよめいたが、カウント8で立ち上がると声援を送った。
斉藤清作は何事もなかったように攻め始め、チャチャイ・チオノイはクリンチに逃れた。
ラウンド終了のゴングが鳴ってコーナーに戻った斉藤清作は呆然としていた。
効いたパンチではなくタイミングを合わされたパンチだったが、自分がダウンしたことが信じられなかった。
「まだいけるか」
「もちろんです」
笹崎たけし会長に吐き捨てるように答えた。
セコンドについたファイティング原田はタオルで顔を拭ってワセリンを塗った。
鼻に内出血があり、目も腫れていて、思いつめた表情のファイティング原田は一言も発せなかった。
「さあ、いけ」
ゴングと共に笹崎たけし会長に送り出された斉藤清作は突進。
しかしチャチャイ・チオノイはそれをかわし、機をみて集中打を浴びせ、接近戦になるとクリンチ。
そういう展開が続いた。
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6R終了後、戻ってきた斉藤清作に笹崎たけし会長は、試合を止めるとを告げた。
「これ以上やってもムダだろう」
斉藤清作は激しく首を振った。
「まだやれます。
これからです」
「これからこれからって打たれてばかりじゃないか」
鼻は真っ青で、みえない左目が完全につぶれたのはいいとしても、頼りの右目も半分ふさがっていた。
「やめたらどうだ。
もうみえないんじゃないか」
ファイティング原田にいわれても
「大丈夫。
やれるよ。
あのクリンチは減点だよ」
と返した。
「あと1回だけだぞ」
笹崎たけし会長はいわれ
「本気はこれからだ。
見せ場をつくってやる。
最終ラウンドまであと4回ある。
必ずとらえてみせる」
そうつぶやいて斉藤清作は立ち向かっていった。
そこへチャチャイ・チオノイのカウンターパンチが突き刺さった。
顔面が左右、後方に弾かれ、鮮血が散った。
(2度とダウンはしない)
斉藤清作は足を踏ん張ってパンチを受け、連打が止むと突進。
右目がますますふさがって視界が狭まり、目の前しかみえない。
少しでも左右にステップされると相手は消え、やっと目の前にとらえても先にパンチを浴びた。
斉藤清作はそれでも前に出た。
「やらせてください。
最後までやります」
ラウンドが終わりコーナーに戻ると試合放棄をいわれる前にいった。
「・・・・・」
笹崎たけし会長は無言。
「もういいよ、清作」
肩に置かれたファイティング原田の手を斉藤清作は払いのけた。
続行か、ストップか、笹崎たけし会長が判断を迷っているうちに8R開始のゴングが鳴った。
斉藤清作は飛び出した。
そのフックをブロックしたチャチャイ・チオノイは、ワンツーからアッパーを突き上げた。
斉藤清作の体がのけ反った瞬間、笹崎たけし会長はリングにタオルが投げ入れ、ゴングが鳴らされた。
それでも斉藤清作はレフリーを押しのけ、チャチャイ・チオノイに襲いかかろうとしたが、相手はすでに背中を向けていた。
怒りに顔を歪め、投げ入れられたタオルをグローブですくい上げ、自コーナーに投げ返した。
「やれる。
まだやれる」
必死の形相で叫ぶ斉藤清作をみて笹崎たけし会長は首を振った。
チャチャイ・チオノイがレフリーに手を挙げてもらっている横で斉藤清作は、自コーナーのイスを蹴飛ばした。
「これからってときにどうして!」
「半殺しにされたのか!」
笹崎たけし会長は怒鳴った。
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