たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光
2021年6月20日 更新

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。

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1940年11月23日、
たこ八郎こと斎藤清作は、宮城県仙台市の外れ、外苦竹村の裕福な農家に生まれた。
8人兄弟の2番目、未熟児として生まれ、その後もずっと体は小さかった。
学校の成績は良くないが、優しくてサーボス精神旺盛な調子ノリ、誰からも好かれる人気者だった。
まだ戦後、間もない頃で、大陸から引き揚げてきたばかりの経済的に苦しい家庭も多く、仙台市立東仙台小学校には、弁当を持ってこられない子供もいた。
米に不自由したことがなかった斎藤清作は、母親に弁当を5つつくってもらい、
「弁当のない子に分けてあげよう」
と学校に向かった。
しかし学校に着いてみると弁当のない子は何十人もいた。
「これでは足りない。
分けてもらえない子が出たらもっとかわいそうだ。
どうしよう」
悩んだ末、結局、誰にも弁当を渡さず、家に引き返し、そのまま学校を休んでしまった。
斉藤家では、子供は農作業の手伝いをするには当たり前だったが、斎藤清作は農業が好きになれず、みんなが仕事をしていても1人だけ離れ、蔵の米を町で売ってお金を作って遊ぶこともあった。
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9歳のある日、友達と、三角沼という膝までつかるほど深い沼地で、泥でつくった球をぶつけ合って遊んでいた。
そのとき友達の投げた泥球が斎藤清作の左目を直撃。
チカチカと痛みを感じ、川で洗ったが、こすったことで悪化させたかもしれない。
その後、友人のことを気遣い、親にも告げず、医者にも行かず、放っておくと左目は視力が低下していき、最終的に光を感じるだけとなり、左瞼も緩んでタレ落ち、小さい文字を読むときは少し首を捻って右目を近づけなければならなくなった。
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仙台にサーカスがきたとき観にいって、おどけた仕草で拍手喝さいを浴びるピエロをみて
「いいなあ。
俺もあんなふうになりたいな」
「あちこち自由に旅できていいな」
と憧れた。
小さい頃、悪いことをしたとき、親に
「サーカスには人さらいがいてさらわれるぞ。
捕まると酢を飲まされて体を柔らかくされ曲芸師にされる」
と脅されていたので、楽屋の周りをうろついてドキドキしながらさらわれるのを待った。
中学生になると映画に夢中になった。
中でも好きだったのはアメリカ映画の「底抜けシリーズ」
コメディアンのジェリー・ルイス(ボケ)と歌手のディーン・マーティン(ツッコミ)の2人組「Martin and Lewis」のドタバタ喜劇。
激しい動きで笑わせるコメディアンに強く惹かれ、将来は人を笑わせて幸せにする喜劇俳優になりたいと思った。
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スポーツが盛んな仙台育英学園高等学校に進学した斉藤清作は、まずサッカー部に入った。
ドリブルはうまかったが、キック力がなくてレギュラーになれなかった。
次にレスリング部に入ろうとしたが、52kgが最軽量クラスとなる競技で44kgの体は小さすぎると入れてもらえなかった。
その後、いくつかまわったっ果、モスキート級という44kgのクラスがあるボクシング部に入った。
2つ上の先輩に芳賀勝男(ローマオリンピック日本代表、プロでも日本バンタム級チャンピオン)がいた。
普通、右利きの人間は、左肩を前にして体を斜めにして構え、左で軽いジャブを放ち、相手を牽制しながら機をみて強い右を叩き込む。
しかし左目がみえない斉藤清作は、右利きだったが右肩を前に構えるサウスポースタイルで構えた。
みえる右目を前にして少しでも視界をよくし、利き腕の右のジャブでコントロールし、チャンスで左を思い切り打った。
片目のために相手との距離感やパンチがみえづらい上に、トドメを刺す左が非力なため、勝つために徹底的にヒット&アウェイ(打って離れる)スタイルのアウトボクシングをやって、2回、宮城県大会で優勝。
最終戦績は、20戦18勝2敗。
2つの負けは、県チャンピオンとして2度出場した東北大会の準決勝と準々決勝で、共に判定負け。
18勝中、KO勝ちは0だった。
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卒業が近づき、進路を決めなければならなくなった。
日本は高度経済成長期に入り、企業側の求人に応じ、東北から東京へ、九州・四国・沖縄から大阪や名古屋へ、少年少女たちが出征兵士のごとく就職していく「集団就職」や農家の次男坊以降が中学校や高校を卒業した直後、都市部のの工場や商店などに就職するために臨時列車に乗って旅立つ「集団就職列車」が社会現象となっていた。
農業が嫌いでコメディアンを夢みる斎藤家の次男坊は、芸能界に何の情報もツテもなかったが、とりあえず上京することにした。
「おめえ、東京さいってどうすんだ」
「喜劇役者になりたいと思ってんだ」
「喜劇役者?」
「んだっちゃ。
でちたら俳優やりたいと思ってんだ」
「その面でか」
「・・・・・・・・・」
友人のあざけりに無言で応え、仙台駅に見送りに来た母親には
「偉くなるまで帰らない」
とだけ告げ、上野行の集団就職列車に乗った。
家族は次男が東京行きの真の目的を告げなかったため
「野良仕事がイヤなのだろう」
と思っていた。
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1958年の3月29日、上京後、東京の銀座の貴金属店「銀パリ宝飾」に就職。
スーツを着て接客を行った。
芸能人のように着飾った客をみて
「こんなところにいても仕方ない。
サーカスでも何でもいい。
早く芸能の道へ入りたい」
と思いながら、必死に働き、イントネーションは東北弁のままだが東京弁をマスター。
秋になると、新聞で映画配給会社の求人広告を発見し応募。
採用が決まると銀パリ宝飾を辞め
「芸能界に近づいた」
と喜んだ。
しかし仕事は、映画フイルムを積んだ自転車で、映画館から映画館へ走って回る運び屋で、半年間、劇場に住み込んだ後、四畳半のアパートを借りた。
仕事自体は嫌ではなかったが、やがて映画関係とは名ばかりの仕事と気づくと、再び焦り始めた。
どこかで芸能関係の人に会ってスカウトされることを夢みて、冬でもアロハ1枚で目立つようにした。
しかしスクリーンやブラウン管の向こうの世界は遠く、むなしく時間は過ぎていった。
フィルムを運び始めて1年後、1959年の冬の夜、風がつらくて自転車を降りて歩いていると、暗い街でこうこうと明かりを灯す建物を見つけた。
シュッシュッとパンチを繰り出す音やパンチングボールやサンドバッグをたたく音を発しながら、若者たちが汗をかいて練習をしていた。
自宅近くのよく通る道だったが、ボクシングジムであることに、そのとき初めて気づいた。
思わず、その場で釘づけになり、いいようのない感情が込み上げてきた。
高校時代、プロになろうとも、なれるとも思わず、ボクシングは終わったはずだった。
故郷を出て2年、何もない自分と比べ、彼らは明日に向かって懸命にトレーニングしていた。
翌日、入会金2000円と月会費1000円を持っていき、手続きをした。
フィルム運びの仕事は不規則で、暇があれば東横線を隔てて反対側にあるアパートから歩いてジムに通い、汗を流した。
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笹崎ボクシングジムは、300名以上の練習生を抱える大きなジムで、15時頃からポツポツと人が現れ始め、18時になると活気と熱気でむせ返った。
戦争で青春を奪われた白井義男が日本人として初めて世界チャンピオンになり、敗戦で自信を失っていた国民に計り知れない希望を与え、そのタイトルを失った後も、拳ひとつで天下をとろうという若者とスターの誕生を待ち望むファンが数多く存在し、ボクシング人気は衰えることはなかった。
笹崎たけし会長は、元東洋フェザー級チャンピオン。
北海道で手のつけられないガキ大将だった笹崎たけしは、アマチュアで鳴らした後、「拳闘は武道である」といってノーガードで前進あるのみというファイトスタイルを貫く「拳聖」ピストン堀口に憧れ、上京。
プロデビュー後、槍のようなストレートで9連勝。
無敗のまま兵役に就き、戦地で白内障を患い左目を失明。
傷夷軍人として戻った後、再び連勝。
26戦無敗の笹崎たけしとピストン堀口の対決を多くの人が熱望したが、所属ジムの問題
(笹崎たけしの所属する日本拳闘クラブの渡辺勇次郎は、「日本ボクシングの父」といわれる人物で、ピストン堀口を見出し、自分のジムにスカウトし育て上げた。
しかし諸事情からコーチだった岡本不二が、ピストン堀口を連れて不二拳(現:不二ボクシングジム)を設立。
師弟関係が現在より厳しかった時代、深い遺恨が残っていた)
で実現できずにいた。
笹崎たけしは、ボクシング誌で
「開かぬ城門、発展を遮断す」
と挑発。
するとピストン堀口は挑戦を受諾。
両会長も手打ち式を行い、
「世紀の一戦」
と大きな話題となった。
戦前の予想は「笹崎有利」だったが、 笹崎たけしは1Rにダウン。
その後、槍のストレートで一歩も退かない激闘を繰り広げた。
しかし4R、ピストン堀口の攻撃で右目がふさがり、6R、両目がみえなくなりタオルが投入されTKO負け。
現在でも伝説の試合として語り継がれる名勝負だった。
その後、
「世紀の一戦の再戦」
と銘打たれ再選が行われ、両雄は計5度の対戦し、堀口1勝、笹崎2勝、引き分け2。
指導者となった「槍の笹崎」は、「鬼の笹崎」と呼ばれるほど厳しい練習を課した。
笹崎たけしの母親(おばあちゃん)、季子夫人 、娘もジムを手伝い、一家でジムを経営していた。
特におばあちゃんは、無類のボクシング好きで、練習生の面倒見もよくみて、みんなに親しまれていた。
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笹崎ジムの看板選手は、東洋ミドル級チャンピオンの梅津文雄。
斎藤清作が入会金と月謝を持ってジムを訪ねたとき、26歳の梅津文雄が玄関を掃除していて、掃除のおじさんと勘違いし軽口を叩いてしまい、後で驚愕した。
斉藤清作のフィルム運びの月給が1万円、大卒の初任給が1万3千円の時代、梅津文雄はノンタイトル戦でも30万円のギャラをもらっていた。
梅津文雄以外にも、
フライ級の矢尾板貞男
バンタム級の米倉健志
フェザー級の小林久雄
Jフェザー級の坂本春夫
Jライト級の大川寛
ウェルター級の福地健治
ライト級の小坂照男
フライ級の関光徳、野口恭
フェザー級の高山一夫
など戦後日本の復興と比例するように世界を狙う選手が続々と現れていた。
斉藤清作がボクシングに身を投じたのは、そんな激しい時代だった。
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また笹崎ジムには、まだプロデビュー前の原田政彦がいた。
後に日本人として2人目の世界チャンピオンとなり、日本人初の2階級(世界フライ級・バンタム級)制覇を成し遂げるファイティング原田である。
「狂った風車」
と呼ばれた俊敏な動きで相手を追いつめ連打で仕留めるスタイルは、マイク・タイソンも影響を受けたといい、海外でも「すべての時代を通じて最も偉大なボクサー」の1人として名前が挙がるレジェンドである。
小学校6年生のとき、白井義男が日本人初の世界チャンピオンになるのをみてボクサーに憧れ、中学に入ると植木職人が大ケガで働けなくなったため、近所の米屋で働き出した。
「白井義男のようになりたい」
と笹崎ボクシングジムに入ると、学校の後、米屋で働き、さらにその後、練習。
その後、高校には進学せず、米屋とジムと家を往復する日々を送っていた。
ボクシングの階級は

ミニマム級      ~47.62kg
ライトフライ級    48.97kg
フライ級       50.80kg
スーパーフライ級    52.16kg
バンタム級      53.52kg
スーパーバンタム級   55.34kg
フェザー級      57.15kg
スーパーフェザー級   58.97kg
ライト級       61.23kg
スーパーライト級   63.50kg
ウェルター級     66.68kg
スーパーウェルター級 69.85kg
ミドル級        72.57kg
スーパーミドル級   76.20kg
ライトヘビー級    79.38kg
クルーザー級     90.71kg
ヘビー級       90.71kg~

があり、斎藤清作とファイティング原田は、白井義男と同じフライ級(50.8kg)だった。
年齢は、20歳と17歳で斎藤清作のほうが3つ上。
2人はすぐに意気投合し
「お前」
「セーサク」
と呼び合う仲になり、昼間、仕事の自転車でスレ違うときは
「オッス」
と声をかけ合った。
ジムでは練習を競い合い、2人でロードワークに出た。
ロードワークは多摩川近くまで遠征することもあったが、斉藤清作は、そこでハコバ、ミツバなどを摘んで川の水で洗って口に入れた。
小学校時代、野生動物が食べるものには普通の野菜の数倍の栄養があると教わったことと
「強くなるためにはなんでもする」
という一途な思いからそういった行動が起こるのだが、ファイティング原田は、牛のように草を食む姿を奇異の目でみた。
最初、
「お前も食べろ。
強くなるぞ」
といわれ、1度だけ口に入れたが吐き出してしまい、以後、1度も食べなかった。
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練習後は、2人で世田谷区にあったファイティング原田の実家に戻って食事。
周囲は瓦なのに原田家だけ、まだ藁ぶきだった。
両親、兄、姉、2人の弟、そしてファイティング原田、この家の住人は、全員、いかにも人が好さそうな丸顔をしていた。
父親の垣作と母親のヨシは、まるで子供がもう1人増えたかのように斎藤清作を迎え入れ、兄弟が食べ残した魚を頭までキレイに食べる斉藤清作をホメた。
B-29が東京に大量の爆弾を落としたとき、2歳のファイティング原田は背負って逃げた長男の一郎は、印刷会社に勤めていた。
斎藤清作は1つ上の一郎を
「あんちゃん」
と呼んだ。
2人は酒好きで、よく飲みに出かけたが、斎藤清作がお金を払ったことはなかった。
斎藤清作の酒好きは死ぬまで治らず、毎日、まるで仕事のように休みなく飲み続け、練習後も米の代わりに酒を飲んだ。
偉くなるまで故郷に帰れない斎藤清作にとって、原田家は暖かかった。
「うちに遊びに来てもね、俺より兄貴のほうがよくなってね。
というのはアイツもお酒飲むでしょ。
だから俺がいなくてもね、兄貴とお酒を飲んで楽しんでいたんじゃないの。
お袋なんかでも清作のほうがかわいかったんじゃないの。
よくお袋、お袋っていってくるから」
(ファイティング原田)
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