たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光
2021年6月20日 更新

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。

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ファイティング原田が21連勝で日本ランキング1位となり、世界に照準を合わせた頃、斉藤清作も、日本ランキング入り。
同時期、帝拳ジムがフィリピンでの試合を企画。
フィリピン側から3試合(トリプルメインイベント)を要求され、自分のジムから、全日本ウェルター級チャンピオン:渡辺亮、同級2位:金田森男を出すことを決めたが、フライ級に適当な選手がいなかったので、笹崎ジム所属の斉藤清作が借り出されることになった。
こうして斉藤清作は、A級の初戦をフィリピンで行うことになった。
初の海外、初の10回戦、相手は、フィリピンのフライ級2位:ヘンリー・アシドだった。
雪がちらつく東京から移動するとマニラは連日、30度を超えた。
2年後の東京オリンピックには自由化が予想されていたが、まだ海外渡航は特殊な職業や階級に限られていて、フィリピンに日本人はいなかった。
食事は水牛のステーキ、デザートにマンゴーとパパイヤが出た。
太りやすいファイティング原田と違って、斉藤清作はどれだけ食べても50kgを超えなかった。
試合前日、海辺のホテルからロードワークに出ると、ビーチで人々が寄ってきて握手を求めてきた。
「Oh、サイトー、セーサク・サイト」
「ジャパン、フライウエイト、ナンバー5」
本当は斉藤清作は日本フライ級9位だったが、フィリピンでは5位になっていた。
おそらく賭けが偏り過ぎないようにするための措置だったが、それでも試合前の予想は、8対2で「アシド有利」だった。
しかし斉藤清作にとっては大チャンスで、フィリピン2位を敵国で、しかも10回戦で破れば、大きな実績となり、帰国後の出世は約束される。
外国人の歓待に感謝しながら走り去り、ロードワークを続けた。
走り終えた後、海岸で右目をつむると夕陽が消え、かすかな赤が滲んだ。
「自分のボクシング」
と善戦を誓った。
特別、作戦はなく、これまで通り、自分のボクシングをするだけだった。
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1962年2月24日、試合会場には2万人の観衆が入った。
16時、トリプルメインイベントの1試合目、ヘンリー・アシド vs 斉藤清作の試合が開始。
タオルを頬かぶりした斉藤清作、帝拳ジムのケニー新保トレーナー、渡辺亮、金田森男が入場し、青コーナーからリングイン。
ほどなく赤コーナーにヘンリー・アシドが現れた。
褐色の肌で筋肉隆々、目が鋭い精悍な顔立ちで、近づいてよし離れてよしのボクサーファイター。
1R、足を使いながら左で探りを入れるヘンリー・アシドに、色白で一見ひ弱そうな体をした斉藤清作が、いきなりロングフック。
意表を突かれて後退した相手を前傾姿勢で追ってボディーを連打。
ヘンリー・アシドは顔面へパンチを放ってリング中央へ押し返した。
その後もしゃにむに前進する斉藤清作に、キレのいいヘンリー・アシドのストレートがヒット。
斉藤清作は、カウンターパンチをもらいながら前進し続け、ヘンリー・アシドはロープ際で押し倒した。
レフリーが割って入り、リング中央から試合再開。
頭を下げて突進してくる斉藤清作に、ヘンリー・アシドはアッパーを突き上げて上体を起こし、右ストレート。
斉藤清作の顔が後方へ折れた。
1Rが終わるとケニー新保は、斉藤清作からマウスピースをもぎ取りタオルで顔を拭った。
「もっとガード上げて!
まるでノーガードじゃないの。
どうしたのよ」
「わかってます」
「フルラウンドやるつもりでスタミナの配分も考えて」
「はい」
「左に回りながらリードから入ったほうがいい」
全日本ウェルター級チャンピオン:渡辺亮は首筋をもみながらアドバイス。
「そうよ。
相手は日本の6回戦ボーイじゃないのよ」
ケニー新保の大声に斉藤清作は無言でうなずいた。
2R、接近戦に持ち込もうとする斉藤清作にヘンリー・アシドは足を使って中間距離を維持。
槍のようなストレートパンチで迎え撃ち、ロープに押し込まれるとすぐに体を入れ替え、パンチを見舞った。
顔面のガードを下げてボディだけガッチリ固め、ダッキングとウィービングだけで前進する斉藤清作は、パンチをもらい続けた。
それで自分の距離になると連打を繰り出したが、ヘンリー・アシドはクリンチで逃れた。
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2R終了後、
「聞かない小僧だね。
どうしてガード上げないの。
タフなのはわかるけど闘牛場じゃないんだからね」
とケニー新保は、再度、ガードを固めながら足を使って左ジャブから入っていくという基本的なボクシングをするよう指示。
笹崎ジムの人間ならこんなことはしない。
何度繰り返してもやらないことを知っていた。
斉藤清作が、何故、それをしないのか?
それともできないのか?
誰もわからなかった。
3R、ヘンリー・アシドは出てくる斉藤清作の顎に左アッパーを突き上げ、さらに右、左、右。
斉藤清作の顔から血が滴り落ちた。
さらにヘンリー・アシドは一方的に攻め、とどめの1発を炸裂させた。
しかし斉藤清作は倒れなかった。
顔をひん曲げ、血をたらしながら、頭を左右に振りながら、足でリングを踏んでいた。
「自分のパンチが効かない」
ヘンリー・アシドはうろたえた。
攻撃を止めたヘンリー・アシドに斉藤清作は突進し、ロープに詰めてボディーの連打から顔面に返した。
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6R、
「サイトー」
試合が後半に入ると、日本人への声援が多くなった。
斉藤清作がコーナーに押し込んでメッタ打ちすると、アシドはクリンチ。
するとレフリーが割って入り中央に戻した。
しかしすぐに斉藤清作は左右を炸裂させ、アシドはすぐにロープを背負った。
足が鈍ったアシドはメッタ打ちになった。
アシドはまぶたを切り、斉藤清作は鼻血を出していて両者血まみれだった。
流血戦に観衆は、熱狂し、レフリーが試合を止めることを恐れた。
自分のパンチが通用しないことに失望したアシドは失速。
「音を上げやがった」
それを肌で感じた斉藤清作の執拗に攻めた。
「やるじゃないの、ボウヤ
ほんとブルファイターね」
ケニー新保はいった。
10R、最終ラウンドが始まると、このままでは勝ちはないアシドがラッシュ。
斉藤清作はそれをノーガードで受け、すぐに反撃を開始。
歓声を受けながら相手をコーナーに追い込んでパンチを連打した。
ゴングが歓声にかき消され聞こえなかったため、レフリーは3分を超過してやっと斉藤清作の攻撃をストップさせた。
「グッドファイト」
「ベリーグッドファイト」
斉藤清作は観客を聞いて
(勝った)
と思った。
ホームタウンディシジョンを許さない試合をした自身があった。
「セーサク・サイトー」
判定は2対1で斉藤清作の勝利を支持。
「鉄の顎、ヘンリー・アシドを寄せつけず」
「まるで人間の壁 アシド打ち疲れ敗れる」
翌日、マニラの新聞は斉藤清作の強さを称えた。
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あまりの人気に、急遽、もう1戦組まれ、セブ島でフィリピンのフライ級10位:ビリー・ブラウンと対戦することになった。
こうして斉藤清作一行は、戦後、初めてセブ島に入った日本人となった。
「殺されるんじゃないか」
と思っていたが、大歓迎され、対戦相手とパレードまで行った。
試合前の予想は、圧倒的に「斉藤清作有利」だったが、結果は惨敗だった。
理由は、試合前日に食べたアイスクリームだった。
「デッカいんだ、向こうのは。
残すのはもったいないと思ってみんな食った。
そしたら・・」
(斉藤清作)
「この子ね、リングに上がる1分前までトイレにかけっこよ。
リングに上がっても、いつクソたれるか気が気でないの」
(ケニー新保)
「リングでウンコして帰れないよ。
我慢するのが精一杯でパンチに全然力が入らなくて・・・」
お腹は冷えたかもしれないが、ふところは温かかった。
アシド戦のファイトマネーが10万円だったが、番狂わせで賭けで大儲けした客や、純粋なファイトを称えるための祝儀が20万円もあった。

Boxer Dies In Ring: Benny "Kid" Paret and Emile Griffith

アシド戦から2ヵ月後、世界ウェルター級タイトルマッチで死亡事故が起こった。
12R、すでにグロッキーだったチャンピオン:ベニー・パレットが、挑戦者:エミール・グリフィスにTKOされ、意識不明となり脳手術の甲斐なく亡くなった。
すでにグロッキーだったチャンピオンがロープによりかかったまま打たれ続けたのが直接的な原因だが、その前の試合で強烈なKO負けをしており、そのときの脳のダメージも回復し切っていなかったことも間接的な原因と考えられた。
事故後、アメリカでは「ボクシング禁止論」が巻き起こった。
1対1で長時間殴り合うボクシングはとても危険で、例えば前から強いパンチを顔面に受けると、脳が頭蓋骨の後頭部側に激突し、さらに反動で前側にもぶつかる。
いわゆる脳震盪の状態に陥ったり、脳が腫れ、出血し血腫ができると記憶喪失、脳梗塞、動脈瘤、血管破損なども起こり、多くのボクサーは何らかの脳損傷に苦しむことになる。
脳のダメージの度合いによっては死に至ることもあり、試合直後は、変わった様子がなくても、数日後、突然倒れることもある。
試合後、控室でトレーナーに負けたことを詫び、頭が痛いと訴えていたボクサーが、倒れこみ、そのまま意識が戻らず数日後亡くなったこともある。
ボクサーは、厳しい体重制限があるため、禁欲的な生活を強いられる。
勝つためには激しい練習が必要で、肉体的にも精神的も苦しい思いをしなければならない。
そして試合では命がけで戦う。
その上、何の保証もないため、常に将来の生活に不安を抱えている。
その上、健康を損なう危険性も高く、底辺から頂点に這い上がるサクセスストーリーには必ず悲話もつきまとった。
ボクシング禁止論は、このときに始まったことではなかったが、世界タイトルマッチでのチャンピオンの死がつくった波紋は大きかった。
マスコミは
「合法的殺人」
と強く非難し、議会でボクシング禁止法案を通すべきと主張した。
これがカナダやイギリスにも飛び火。
トロントはボクシングのラジオ放送を中止。
BBC(イギリスの公共放送)もタイトルマッチの放映を中止。
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日本のマスコミも
「戦後、世界で194名、年間10名以上のボクサーが試合が原因で死亡し、うち6名が日本人」
「対岸の悲劇ではない」
「興行本位に猛省のとき」
「急務の健康管理」
「レフリーにも資格審査の必要」
とこの問題を取り上げた。
医学界も反応し、日本ボクシングコミッションドクターの医学博士ら数人が
「プロボクサーの災害に関する研究」
をまとめた。
それによると1956~1961年の5年間で、外傷を受けたボクサーは310人。
外科が178人、眼科42人、耳鼻咽喉科31人、内科9人、泌尿器科1人。
圧倒的に多い外科の大部分が、頭部外傷。
脳障害が最も危険な症状とされ、死亡者のほとんどがこれに該当した。
死亡しなくとも脳障害や視力障害でリングを去る者も多かった。
脳障害はボクシングを辞めた後も尾を引くことがあった。
真っ直ぐ歩けなかったり、酒に酔ったようにろれつが回らない肉体的障害。
記憶力が低下したり、怒りっぽくなったり、威張ったり、嘘をついたり精神的障害。
これらは「進行性障害」といわれ、いわゆる「パンチドランカー」といわれる状態だった。
彼らは、脳障害を防ぐために、定期的に脳波検査を受けることを薦めた。
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日本フライ級チャンピオンの野口恭は、積極的に協力した。
試合前、翌日、1週間後の3回、頭部に12本の針を刺して脳波を測定するテストを行った。
その結果、試合前、正常だった脳波は、翌日には打たれた影響で乱れ、数日間ゆっくり休養すると正常に回復していた。
現実的に健康管理はボクサー自身に、試合でのストップするか否かはレフリーに任せられる。
この時期の日本ボクシングは、何度ダウンしても起き上がってくれば、選手の意志を尊重し戦わせるのが普通で、流血してもよほどのない限り続行した。
もし中途半端に試合が止まろうなら、観客は
「もっとやれ」
「バカ野郎、金返せ」
と抗議しモノを投げた。
日本のボクシングは、後にも先にもこれ以上ないだろうというくらい熱狂していた。
「清作みたいにメッタ打ちにされて血を噴いてもレフリーストップになならいのは、今しかないかも知れん」
ベニー・パレットの事故後、一連の流れをみながら笹崎たけし会長はいった。
ファイティング原田の世界挑戦を進める一方、斉藤清作の次の相手については日本の上位ランカーと考えていた。
「清作。
これから上位ランカーとやっていくには今までと同じような戦法じゃ通用しないかもしれないぞ」
「はあ」
「確かに客は喜ぶよ。
人気も出る。
しかしオリンピック選手じゃあるまいし国民の要求に応えてばかりいるとバカをみることもある。
少し自分を大事にすることも考えろ」
「はい」
斉藤清作うなずいたが戦い方を変えるつもりはなかった。
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ベニー・パレットの事故から1ヵ月後、斉藤清作は、中村剛との対戦が決まった。
日本フライ級は、チャンピオンが野口恭、1位がファイティング原田、2位が海老原博幸、そして3位が中村剛だった。
野口恭は、世界チャンピオンのポーン・キングピッチとのタイトルマッチを控え、ファイティング原田はその勝者に挑戦することが決まっていた。
斉藤清作にとって、初めての上位ランカーとの対戦、初めてのメインイベンターで、試合2週間前になると、練習後、飲み歩くのをやめ、原田家に帰って寝酒だけ飲んで寝た。
原田家は、この1年で様変わりした。
カマドがあった土間にはコンクリートが打たれ、新しいキッチンができていた。
回転代つきの最新型テレビ、電気冷蔵庫、2層式電気洗濯機など最先端の家電がそろった。
屋根はまだ藁だったが、ファイティング原田のファイトマネーで改造されるのは時間の問題だった。
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試合1週間前の練習後、斎藤清作はファイティング原田にいった。
「中村に負けたらやめる。
逃げ足達者なやつに負けるほど恥ずかしいことはない。
逃げ専門、判定専門のボクシングなんてプロじゃない。
どっちがプロか思い知らせてやる」
中村剛は、ヒット&アウェイの技巧派。
打っては離れ、相手のパンチはステップバックでかわし、回り込んでパンチを入れ、またスッと離れる。
相手は追い切れず、ポイントを失い続け、中村剛は、ほとんど打たれることなく、多くの判定勝ちを積み重ね、日本ランキング3位になった。
一部の専門家はその戦い方を
「ボクシングの教科書」
とほめたが、一般のファンにはあまり人気がなく、接戦での判定勝ちが多かったことから
「写真判定男」
というニックネームをつけた。
ファイティング原田はいった。
「相打ちで行くんだ。
ヒット&アウェイの泣き所はそこだよ。
自分より数段タフなやつに合わせて打ってこられるのが厄介なんだ。
もちろん打たなきゃ勝てないから打ってくる。
そこへ必ずパンチを乗っけてく。
後はラッシュだ。
お前が中村のパンチで倒れるわけがない。
相手はお前のパンチでグラつくよ。
どうだ?」
「俺はいい友達を持ったよ」
試合当日、斉藤清作は初めから打って出た。
打たして誘い込む戦法は積極的に売ってこないボクサーには通用しない。
中村剛は足を使った。
カウンターでポイントを稼ごうとする意図を感じた斉藤清作は、そのカウンターを顔にもらいながら、かまわずボディにパンチを合わせた。
斎藤清作は、顔面を打たせながら、徹底的にボディを打った。
中村剛は、カウンターでも前進を阻めず、打つと退がる暇もなく倍のパンチを返され、クリンチに逃れた。
試合が進むほど、中村剛の足は鈍りクリンチが多くなった。
あまりにクリンチばかりでいらだった斉藤清作が下手投げで投げ飛ばすシーンもあり、果敢に打ち合おうとしない中村剛に野次や罵声が飛んだ。
試合は最終ラウンドまでもつれたが、斉藤清作の圧勝だった。
試合の次の日、原田家を訪ねると、3日前にエドモンド・エスパルサに判定負けし休養中のファイティング原田がパジャマ姿でいた。
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