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小林がちょうど巨人のエース格にのしあがってきた時期で、1月、多摩川グラウンドでの自主トレから絶好調。「今年のコバは間違いなく20勝する。あの細い腕が優勝を運んでくれるよ」と、当時の巨人・長嶋茂雄監督は目を細めて期待を口にしたものだった。
それが…。江川問題に直撃され、宮崎キャンプに向かう羽田空港でトレードを通告され、荷物だけが宮崎へ。残酷なドラマにも「ボクが阪神に行けば収まるんでしょ」と、泣き言ひとついわずに自宅へ引き返した。
巨人のチームメートは皆、怒りと小林への同情でいっぱいだった。主砲・王の「ひどい! コバ、球団からたっぷりお金をもらえ」といったコメントが紙面に氾濫した。
「野球が好きだから阪神に行く。同情は買いたくない」
阪神時代
高知・安芸での阪神のスプリングキャンプ。日程的に半ばの第3クールに入った祝日。朝から安芸市営球場につながる国道55号線は3キロ以上の渋滞が発生した。
球場に集まったファンは、午前中の段階で1万人超。69年(昭44)に法大から鳴り物入りで阪神入りした田淵幸一捕手初のオープン戦となった阪急戦に4000人集まったのがキャンプでの最高人数だったが、その2・5倍も駆けつけた。前年最下位の阪神にこれだけの集客と期待をもたらしたのは、巨人から移籍した“悲劇のエース”背番号19、小林繁投手だった。
小林は巨人への未練に苛まれながらも「ジャイアンツだけには負けたくない」と思うようになり、巨人戦に合わせて自分のローテーションを組むよう、監督のドン・ブレイザーに直訴。開幕2戦目となる4月10日の甲子園球場での試合を皮切りに、巨人戦8連勝を飾り「巨人のエースの怖さ」をまざまざと見せ付けた[54]。トレード前、小林には「自分はジャイアンツに必要なピッチャーなんだ」という自負があったが[55]、江川との交換要員となったことで「小林を出してでも江川を獲りたい」、「小林よりも江川のほうが戦力になる」と球団側が判断したのだと考え、プライドを大きく傷つけられていた[56]。巨人戦に登板した時の小林は普段見せるクールな態度を捨ててベンチ裏で声を出して気合を入れるなど、闘志をむき出しにした。また、巨人戦に登板する日はピリピリした雰囲気を漂わせ、新聞記者は球場入りした姿を見ただけで小林がその日の試合に先発することがわかったという[57]。この年、小林は22勝、防御率2.89という成績を挙げ、2年ぶりに沢村賞、ベストナインを獲得した[58]。
トレード1年目の79年、小林は対巨人8勝0敗。「巨人が憎いのではなく、(野球界、球団などの)偉い人、上の人にこの気持ちを分かってもらいたかった」という一心で投げ続けた。
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1982年シーズン終了後、小林は「来シーズン、15勝できなかったらユニフォームを脱ぎます」と宣言した[64]。この発言は次のシーズンへ向けた意気込みの表れと受け取られたが、小林は本当に引退を意識していた。原因の一つは右肘にあった。小林の右肘は1978年頃からまっすぐに伸ばすことができなくなり、82年には内側に強く曲げることができなくなった。さらに81年後頃から下半身の踏ん張りが利かなくなり、肩の力に頼って全力投球を続けたことで右肘の状態はさらに悪化した[65]。また、年俸が上がらず、巨人時代に経験した「チームとして勝つための野球」が経験できない中[† 5]、江川事件以来ついて回る「悲劇のヒーロー」というイメージにも嫌気がさし、「好きな野球をやっているんだ」という感覚、野球に対する情熱を失いつつあった[66]。
江川卓VS小林繁
江川のことを名前ではなく「あの子」と呼んでいた小林。「どうしても勝たなければならない試合、心の中でケリをつけなければならないゲーム」(江川卓ほか著「たかが江川されど江川」88年新潮社)と位置付けていた江川。因縁の初の直接対決は、トレードから564日目、時折強く降る雨の中での投げ合いとなった。
試合時間2時間59分。軍配は江川に上がった。10安打5四死球と不出来ながら176球を投げて完投勝利。三振は4つと江川にしては少なかったが、最後はルーキーの岡田彰布二塁手を3球三振に仕留めた。
登板2日前の練習で右手人差し指を打撲した小林は、雨が染み込んだマウンドで踏ん張りがきかず、変化球の制球が乱れ5回6安打4失点。5回に江川に勝ち越しの中前適時打を打たれ76球で降板した。
1980年 江川卓 小林繁と初対決 - YouTube
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試合後、小林はホットコーヒーをすすりながら言った。「野球人生の中での最大の煩わしさが終わった」。
28年の時を経て
2007年秋、博報堂の企画による黄桜のCMで江川卓と小林が共演することになった。当初小林は「いまさらコマーシャルに出るつもりはない」「俺がやると言っても、江川君はどうなの?断ると思うよ」とオファーを拒絶したが、江川の「小林さんさえよければやりたい」という意向を聞いて承諾した[78]。CMのテーマは両者の和解であった[79]。
小林繁 江川卓 黄桜CM long edit - YouTube
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まさにドラマだった野球人生
肩も肘もきつかったけど、騙し騙しやれば、次のシーズンも10勝はできたかもしれない。それに技巧派にスタイルを変えるという手もあったはずだと思う。でも自分が思い描いたボールが投げられなくなっているのに、投げ続けることにこだわろうとは思えなかったよ、あの時は。
こんなことを言っても仕方がないけれど、もし、あのトレードがなくて、ジャイアンツに残っていたとしたら、もっと長く現役を続けていただろうね。ジャイアンツにいたら35歳ぐらいまで、いや投げれる間はユニフォームを着ていたんじゃないかな。結局、あのトレードから、人の評価に振り回される僕の人生が始まった。自分のやりたいように生きていなかったね。周りの評価ばかり気にして、そんな自分が嫌で、つかれて、もう野球から離れたかったんだと思う。だから引退を決めた時、自分の野球人生を振り返ろうともしなかったし、感傷に浸ることもなかった。
— 近藤2010、175頁。