中井祐樹 片目を失いながらも相手を叩きのめすなんて信じられない 
2016年11月25日 更新

中井祐樹 片目を失いながらも相手を叩きのめすなんて信じられない 

小さな巨人、柔術ヒーロー、ラストサムライファイター、中井祐樹は体格は小さいのに本当に勇敢すぎる。片目を失いながらも相手を叩きのめすなんて信じられない。大きな代償を支払うことになったけれど、どの格闘家よりも多くを成し遂げたことは誰にも否定できない。

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「打倒!九大」 「打倒!甲斐」、北海道大が12年ぶりに優勝

吉田寛裕と中井祐樹

吉田寛裕と中井祐樹

4年目、中井祐樹は副主将となった。
主将は吉田寛裕だった。
吉田は、小柄だが闘志の塊のような男で、寝技の緻密さでは中井に劣るものの、投げ技を合わせた総合力では上だった。
そして柔道衣を脱げば豪快な笑顔をみせる男だった。
入学当初は寝技中心の部の方針に反発していたが、先輩たちが七帝戦のたびにみせる涙に感化されて主将になった頃には柔道部精神の権化のような男に育っていた。
北海道大学柔道部は
「打倒!九大」
「打倒!甲斐」
を目標に1年間対策を練った。
そして大阪で行われた七帝戦の1回戦で九大と激突。
作戦通り中井が甲斐を止めて1人残しての辛勝。
敗者復活を勝ち上がってきた九大と決勝で再び相まみえ、これを破って12年ぶりに優勝旗を奪還した。

91年七帝柔道 九大×北大 2試合目 新谷-中井

91年七帝柔道 九大×北大 3試合目 雪野-中井

大学中退 - 立技と寝技、武道とスポーツ、生きることと死ぬこと

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中井祐樹は、大学4年目の七帝戦を終えると、8月に北海道大学を中退した。
そしてプロシューティング(後のプロ修斗)に進んだ。
この3年後には「VTJ95(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン95)」に出場し、伝説の試合を行うわけだが、その3年の間に大切な男を2人が亡くなっている。
甲斐泰輔は北大へ雪辱するため5年目の七帝戦にかけて猛練習を続けていたが、急性膵臓炎で22歳の短い命を閉じた。
吉田寛裕もその後を追うように24歳で逝った。
この2人の戦友の死は、元来、真剣勝負、ホンモノの強さを求める中井祐樹に、より死生観を与えたかもしれない。
あのジェラルド・ゴルドーの悪意と恐怖に満ちた反則を受けても、逃げずに戦い続ける姿は決してスポーツではない。
尋常ではない反則を上回る尋常ではないファイティングスピリッツがそこにはあった。
「今1991年春頃の事を思い出しています。
或いは初夏のことだったでしょうか。
その日僕は同期の吉田寛裕と珍しく練習後2人きりで(最初で最後か)銭湯に来ていました。
(僕は何故か実は誰かと2人で行動する事が極端に少ないのです。)
当時3年目の僕はいらいらしていました。
西岡さんを始め4年目の先輩方も辛そうに見えました。
かつて全国一に輝いた伝統ある部を引き継いでいるんだという誇り、しかしそれを望んでも叶えられない現実と力不足、全てが遠く感じられていました。
湯船に浸かりながら僕らはどうしていくべきかを延々と語りました。
吉田は少しばかり驚いているようでした。
僕はあまり現状を悲観しない人間だと思われていたのかも知れません。
いや悲観じゃなくただ泣きつきたかったのでしょう。
4年目の七大戦まではこの部に賭けようと考えていた僕を吉田は実にポジティブに受け止めてくれました。
そしてスッキリした僕はそれっきりネガティヴな想いを消しました。
結果この年は限りなく優勝に近い準優勝。
西岡さんの背負い投げは今も瞼に焼き付いたままです。
秋には吉田の援護射撃のつもりで出た個人戦でまさかの正力杯への切符を掴む事となります。
翌年我々は優勝カップを奪回する事に成功しました。
そして僕は北大を離れました。
あれから15年以上の時が流れましたが僕は未だ問い続けています
立技、寝技。
武道か、スポーツか。
生きる事、死ぬ事。
闘う事の面白さ。
そして闘う意味を世に問う事は僕のライフワークとなりました。
今も北大時代は僕の中ではずっと変わらぬいい思い出です。」
(中井祐樹)
中井祐樹のシューティング入りには否定的、あるいは反対する意見のほうが圧倒的に多かった。
しかし数少ない肯定派、賛成者の1人、岩井(北海道大学柔道部)監督はこういっている。
「副主将の中井は大学から柔道を始めたが北大を代表する寝技師に成長した。
3年の時には体重別71kg以下級で準優勝。
更に全日本では関西代表選手を寝技で破り、北大の寝技が全国・国際ルールでも充分通用することを示してくれた。
彼の特徴は何といってもそのガッツであり、稽古の時から気力に溢れ、道場の窓が開いている時は武道館に近づくにつれ、窓が閉まっている時には武道館のドアを開けると彼の掛け声が聞こえ、私自身気が引き締まる思いがした。
7月の出陣式の際、「今年は僕、甲斐でいいですよ」と中井から切り出してきたが、その言葉に彼のFor The Team、七大戦にかける意気込みを感じたし、おぼろげながらにイメージしていた対九大の作戦が固まっていった。
彼は「シューティング」という格闘技の道に進んだ。
「何故」と首をかしげる人もいるだろうがそれも1つの生き方であり、私自身としては彼の今後の活躍を楽しみにしたい。」

プロシューティング(現;プロ修斗)

横浜(シューティング横浜ジム)へ

 (1710587)

中井祐樹は、横浜へ移り「シューティング横浜ジム」に入門した。
以下は横浜から北海道に向け送ったものである。
「皆さん、お元気ですか?
僕は今、バイトに稽古にと多忙な日々を送っております。
結構シンドイと感じることもありますがどうにかこうにかやっています。
北大にいた3年4カ月を現在、冷静になってみて素晴らしいと言えるのはやはり柔道があったからだと思う。
食事や睡眠など生活のほとんど全てをそそぎ込み熱中した柔道。
技術を創り上げることとは何か。
そしてその喜びを知った柔道。
自分の考え方を生み出す原動力(あるいは基準、アンチテーゼ)となった柔道(部)。
講道館柔道に七帝柔道など自分の中で柔道は様々な表情をしていたとつくづく感じる。
そんな中で七大戦を優勝で飾ることが出来たということは取りも直さずやるべきことはやったということを意味していた。
だからこそ僕は今ここにいるのだ。
七帝前の壮行会で酔った椛島(次期主将)に「中井さんには(進路は知っているけど)もう1年やって欲しいんです」といわれた。
でも僕は「俺が柔道部に残ることは楽なことなんだよ」と答えた。
真意が伝わったかどうかわからないが、僕には心の安らぐ場所であった柔道部、そして北大を去ることの方が長い目でみてベターであると思っていた。
ただそれだけのことだった。
諸先輩の方々、14人の同輩達、後輩諸君、本当にどうもありがとうございました。
シンドイ時は皆さんの励ましの言葉を思い出して、元気を出したいと思っています。
それでは、ジムに行ってきます。
もう昔は振り返りません。
サンキュー、じゃあね」
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4月、本来ならば大学を卒業して就職していたであろうときに中井祐樹はデビュー戦を戦った。
「前略 辺りもすっかり暖かくなりました。
皆様如何お過ごしでしょうか。
さて私が横浜にてシューティングを始めてから8カ月の時が流れました。
そしてこの度、4月26日(月)の後楽園ホール大会に於て当日の第1試合として私のデビュー戦が決定致しました。
(当日は6時開場、6時半試合開始となっております。)
なんとかここまで漕ぎ着けることが出来ましたのも皆様のご支援のおかげです。
感謝の念に堪えません。
私にとりましてこれが出発点であり、これからも理想に向け精進してゆく所存です。
今後も変わらぬご指導宜しくお願い致します。
草々」
そして中井祐樹は則次宏紀に53秒で快勝。
2カ月後の6月24日には倉持昌和に2R1分36秒ヒールを極めて連勝した。

佐山聡(初代タイガーマスク、シューティング(現:修斗)創始者)

 (1708462)

佐山聡は、アントニオ猪木に憧れ新日本プロレスに入り、初代タイガーマスクとして空前のプロレスを巻き起こし、その後、会社(新日本プロレス)と袂を分かち、前田日明と共にUWFで格闘技ブームを起こした後、独自の理想の格闘技「シューティング」を立ち上げた。

佐山聡、シューティングの話など

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