赤ヘル打線の主砲!プロ野球界の鉄人!【衣笠祥雄】は凄かった!!
2016年11月25日 更新

赤ヘル打線の主砲!プロ野球界の鉄人!【衣笠祥雄】は凄かった!!

赤ヘルの英雄。衣笠祥雄といえば、とにかく休むことなく、試合に出続けた鋼の体を持ったスラッガーである。 その記録は、すさまじい記録で、引退するまで試合に出続けたからこそ、出来た記録です。 そんな衣笠祥雄の、現役時代の過去と、引退後の今をご紹介します。

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元祖!17年間も一度も休まなかった世界一の鉄人男。衣笠祥雄

衣笠祥雄(きぬがさ さちお)

衣笠祥雄(きぬがさ さちお)

1947年1月18日生まれ
身長175cm、体重73kg
右投げ右打ち
ポジション:三塁手、一塁手

広島カープ黄金時代の主砲として、元祖鉄人衣笠として球界にその名を轟かせたスター選手。
国民栄誉賞も授与するほどの、赤ヘルの鉄人は、山本浩二と同様に赤ヘルを盛り上げた一人である。

衣笠祥雄の獲得タイトル・主な表彰と記録

打点王:1回 (1984年)
盗塁王:1回 (1976年)
最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1972年) ※1994年より表彰
表彰[編集]
MVP:1回 (1984年)
ベストナイン:3回 (1975年、1980年、1984年)
ゴールデングラブ賞:3回 (1980年、1984年、1986年)
月間MVP:4回 (1975年6月、1979年9月、1982年6月、1983年7月)
正力松太郎賞:1回 (1984年)
日本プロスポーツ大賞:1回 (1984年)
国民栄誉賞 (1987年)
野球殿堂入り (競技者表彰:1996年)

2215試合連続出場(1970年10月19日 - 1987年10月22日)※日本記録
678試合連続フルイニング出場(1974年4月17日 - 1979年5月27日)※歴代3位

衣笠祥雄のプレースタイルは・・・

常にフルスイング!三振か本塁打の男

常にフルスイング!三振か本塁打の男

ギネス記録も素晴らしいが、打撃成績も素晴らしい。本塁打も500本以上の本塁打を放つスラッガーだが、三振も当時の選手では歴代1位の記録を持っていた。
バットを当てるという考えはなく、常にフルスイング!で毎打席の勝負に挑んでいた衣笠祥雄。自身の成績からも、打率に関しては3割を超えた年は、23年間の現役のうち、たった1度しかない。三振の数も多く、当時は日本記録を保持するほど、フルスイングに掛けていた。

しかし、現在の記録保持者、清原和博と違い、清原はシーズン最多三振数も100以上あった年が多いが、衣笠は、90以上の三振をしたことがない。

安打数も清原より400本近く多いことから、バッティングセンスの高さがある選手だったと言えるだろう。

また、走塁も積極的で、盗塁王と打点王を獲った選手は、飯田徳治とイチロー選手の衣笠のわずか3人しかいない。

プレーに対しても、紳士的でどんなデットボールを受けても、左手をさっと上げて、「大丈夫だから」と伝え、怒ることなく、一塁に向かっていった選手である。

衣笠祥雄の生い立ちからプロ入りまで

父親はアフリカ系アメリカ人(在日米軍人であった)、母親は日本人のハーフとして生まれた。
市内洛東中学校入学時には、柔道部に入りたかったが、中学に柔道部がなかったためやむなく野球部に入部した[4]。1964年の平安高等学校3年時、春の第36回選抜高等学校野球大会と夏の第46回全国高等学校野球選手権大会に捕手として出場し、いずれもベスト8の成績を残す。この時バッテリーを組んでいたのが、植木一智(後に阪神)であった。

広島東洋カープに入団して、めきめきと頭角を現す!!

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広島カープに捕手として入団するが、当時の監督の思いで内野手に変更する。1968年ごろから一塁手として、レギュラーに定着し、活躍するが、1975年のジョー・ルーツ監督によって、広島の長嶋茂雄として、三塁手に変更される。

今だからいえるが、当時の助っ人選手が一塁手がいいと言ったことからコンバートされたらしい。
この頃から、4番、山本浩二の後の5番打者として、広島カープのクリーンナップを担い、広島カープ初のリーグ優勝へ貢献したと言えるだろう。
広島カープには、山本浩二が同じ時期にいたので、鉄人というイメージこそあれど、打者としてのイメージが目立っていなかったが、通算安打数は2543本(歴代5位)、通算本塁打数は504本(歴代7位)、通算打点数は1448打点(歴代10位)と山本浩二と張本勲しかいない、500本塁打、200盗塁も達成している。山本浩二と引けも獲らないほどのスタープレイヤーなのである。
広島の大砲!Y・K砲結成!

広島の大砲!Y・K砲結成!

山本浩二とのY・K砲は、王・長嶋のO・N砲に次ぐ第2位の86本を打った球界でも歴史に残るコンビでもあった。

若いころは、決して真面目な紳士ではなかった・・・。

「野球選手になったら、でかい家を買って綺麗な女と結婚する」と夢見ていた衣笠少年は、入団時の契約金で自動車免許を取り、フルサイズのアメリカ車フォード・ギャラクシーを購入した。当時のカープは創立十数年の貧乏球団であり、長谷川良平監督やコーチ・主力選手が乗っているのは大半がマツダ車で、中には自転車通勤の者も珍しくなかった。そんなチーム状況を横目に気ままにアメリカ車を乗り回していたが、何度となく事故を起こし、最終的には免許を剥奪された。
1960年代後半、ベトナム戦争の泥沼化に伴い、米軍岩国基地は前線基地となっていた。基地周辺は兵隊で溢れ、飲み屋やゴーゴークラブなど飲食店が大いに賑わっていた。衣笠はよく車で約1時間かけて岩国基地まで遊びに行き、現地で仲良くなった兵隊達とよく飲み明かしていた。そんなある日、いつものように一緒に飲んでいた米兵の友人に「明日ベトナムへ行くんだ」と告げられる。衣笠はこの言葉に大きなショックを受け、好きな野球をやりながら遊び回る自身を恥じ、以後野球に真剣に打ち込むようになったという。

連続試合出場の記録は過酷な道のりだった・・・。

1970年から始まった連続試合出場の記録が始まり、17年間試合に出続けた訳だが、その道のりは簡単なものではなかった。その間には、怪我もあれば、スランプもある。

例えば、怪我でいえば、カープの主軸を担えば、厳しい内角攻めも当然あります。衣笠祥雄が浴びたデットボールの数も、161回(プロ野球史上3位)と非常に多い数を受けていますが、ある試合で、左の肩甲骨を骨折する重傷をおってしまい、診断も全治2週間といわれるほど。

当然のごとく、痛みは半端ではありません。しかし、その翌日の試合は、代打としてファンの前に姿を現し、フルスイングでの3球三振をします。

誰もが、連続試合出場はストップかと思われた時に、衣笠の姿を見た時は、カープファンのみならず、相手チームからも拍手が鳴りやまなかったそうです。
その翌々日の試合では、2番サードでフル出場を果たし、鉄人ぶりを周囲に知らしめました。

もちろん、スランプもあります。

1979年のシーズンは、極度に大スランプに陥り、打率は.198と低迷。当時の監督、木庭監督は、さすがに先発メンバーからは外す苦渋の決断をしたことで、連続フルイニング出場は当時の日本記録にあと22試合というところで断念することになります。

その時の、衣笠の荒れ様はすさまじく、手当たり次第荒れまくったそうです。

世界記録を更新した時も、ラストの2年間ぐらいから、なかなか成績が昔のように打ててはないですが、途中出場の時も頻繁になるようになりました。
ファンの中でも、「監督の温情だ」とか「記録づくりのために出場してiいる」とかいろいろ言われます。

死球!死球!死球!鉄人・衣笠祥雄▼それでもボクは試合に出る(連続試合出場の裏側) - YouTube

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