小学生には衝撃的すぎた「さらば桑田真澄、さらばプロ野球」著作・中牧昭二 - Middle Edge(ミドルエッジ)
PL学園が甲子園を盛り上げていた時代。小学生だった私にはKKコンビが憧れの存在でした。そんなKKコンビのプロ野球入団の裏側を知らされた衝撃作をプレイバック!
江川事件
怪物【江川卓】が世の中を騒がせた事件あれこれ!! - Middle Edge(ミドルエッジ)
「空白の1日」「江川問題」は世間を騒動に巻き込み、「江川る(えがわる)」という言葉をも生んだ。並外れた投手・江川は、怪物として甲子園に登場した時から世の中を騒がし続けた。そんな江川が引き起こした事件を選んでみた。
1973年(高校3年時)のドラフト
当時のドラフト会議はクジによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であった。指名順位6番目だった阪急ブレーブスが進学希望の江川をドラフト1位で指名する(なお、このドラフトにおける巨人の指名順位は10番目だった。巨人はドラフト1位で小林秀一を指名するが入団拒否された)。しかし、江川は大学進学を変えずに入団拒否。江川は当初慶應義塾大学を目指したが、入試不合格だったため、法政大学に進学する。
1977年(大学4年時)のドラフト
大学4年となった1977年、巨人への入団希望を表明。巨人側も1位指名の方針を固めていた。
この時の指名順は1番目がクラウンライターライオンズ、2番目が巨人だった。クラウンが江川指名回避に動いていると情報があったため(クラウンは地元出身の門田富昭を1位指名するという情報があった)、江川の巨人入団は確実と思われた。
しかし、当時観客動員で苦しんでいた福岡市の球団であるクラウンライターが経営再建の切り札にする目的で江川を1位指名した(江川を指名できなくなった巨人は、早稲田大学の捕手であった山倉和博を1位指名した)。
これに対し江川は「九州は遠い」という理由で入団を拒否。
1978年オフの選手契約
空白の一日
11月20日、江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。
その翌日の11月21日午前に、巨人は江川と入団契約を締結。
巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手として入団契約可能」と解釈し、ドラフト外入団という形で契約締結を決行する形となった。
巨人は野球協約の死角を突いたことになるが、これを認めればドラフトは骨抜きになるため、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効とする裁定を下した。
3度目のドラフト会議
南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団が1位指名した。
4球団の抽選の結果、阪神が交渉権を獲得。
電撃トレード
1979年1月31日、巨人と阪神は、阪神が江川と一度入団契約を交わし、同日中に小林繁との交換トレードをすると発表。
悲劇のヒーロー【小林繁】の細腕繁盛記 - Middle Edge(ミドルエッジ)
江川事件に巻き込まれ悲劇のヒーローとして語り継がれる小林繁。どうしても悲劇の主人公として見られてしまいますが、沢村賞を2度受賞し、細身の体で気迫の投球をする姿から”細腕繁盛記”と呼ばれた小林繁を振り返ります。
(引用:wikipedia)