明石家さんま 西の郷ひろみ時代
2022年5月14日 更新

明石家さんま 西の郷ひろみ時代

東京進出、ドラマ出演、レコードリリース、おまけに芸能人運動会で田原俊彦に勝ってしまうという吉本芸人にあるまじき活躍の数々。

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漫才がブームに乗ると落語家は仕事が激減。
それまで関西でトップを走っていたさんまですら漫才師たちに追い越された感があった。
特にザ・ぼんちの人気はすさまじかった。
夏休みになると花月に若者が押し寄せ、ザ・ぼんちが登場するとみんな立ち上がってクラッカーを鳴らし、紙テープを投げ、2人の出番が終わると一斉に席を立って出待ちに走った。
そのため劇場は一気に冷め、ザ・ぼんちの後に出演した芸人は苦笑い。
全芸人が、ザ・ぼんちの後に出るのをイヤがった。
自分のファンが漫才師のファンに寝返るのを目の当たりにし、密かに
「こりゃヤバイな」
と思っていたさんまは、ある日、花月でザ・ぼんちの後に出演することになった。
しかしステージに上がると客はほとんど動いておらず、1人、心の中でガッツポーズ。
漫才ブームが続く中、ピンのさんまは漫才師とうまく絡み、イジり、仕切り、お笑い界の好位置をキープ。
西川のりおは
「ずーっとさんまがおるなあ、なんでや?」
と周囲に漏らし
「いやあこんだけのメンバー仕切ろうと思ったらさんまさんくらいしかアカンのとちゃいます」
となだめられると
「なんで俺やったらアカンねん」
と嫉妬心ムキ出しでヒガんだ。
島田紳助も
「漫才ブームが来て、やった、これでアイツを引き離せると思うて。
ブームが終われば絶対にさんまの方が有利になるから、2馬身はリードせなアカンかったのにアイツはくっついて来よって。
関係ないくせに・・・」
とその適応力に驚いた。
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25歳の明石家さんまは、1980年8月、自叙伝「ビッグな気持ち」、9月には1stアルバムCDシングル「Bigな気分」をリリース。
デビューしたばかりの松田聖子と2人で「週刊明星」の表紙に載ることになり、撮影のときに
「初めまして、松田聖子と申します」
と挨拶され
「聞いたで。
デビューしたばっかりなんやて?
歌手の世界は大変やで。
アカンかったらすぐやめや。
ズルズルしがみついていたらアカンで」
とアドバイス。
ドラマ「天皇の料理番」では、初キスシーン。
相手は注目の新人女優、田中裕子。
「キスシーンをしたら、その夜、結ばれる」
と思い込んでいたさんまは、撮影1週間前から焼肉、餃子を断った。
しかしキスをしてOKが出ると田中裕子がスーッと帰っていってしまい、いつもはMサイズなのにSサイズのパンツを履いていたさんまは、ショックを受けた。
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この直後、さんまは朝のワイドショーで大竹しのぶと共演。
局の廊下ですれ違ったのが2人のファーストコンタクト。
1stアルバムの宣伝のため、ガラガラ声で歌うさんまをみて、大竹しのぶは、
「この人はきっとすごい大病を患っている人だ。
若くてしてもうすぐ死ぬ人のためにテレビ局の人が最後に出させてあげたんだ」
と思い泣きそうになった。
大竹しのぶの母親も家のテレビで番組をみていて
「あんな声で・・・
かわいそうに・・・」
と思っていた。
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1980年10月、吉本興業は赤坂のストークビル4階の一室に「東京連絡所」を設立。
当時、吉本芸人は全員、関西に住んでいた。
三枝、仁鶴、やすきよなど一部の大御所にはマネージャーがついていたが、若手やそれ以外の芸人が東京や地方で仕事をするときは、スケジュールを書かれた紙を渡され、自分で新幹線やタクシーで移動して1人で挨拶し現場に入っていた。
東京連絡所は、そういった芸人を東京でサポートし、急増するバラエティ番組に送り込む役割を担った。
当初、オフィスは机とイス、電話1台だけ。
スタッフも木村政雄と大崎洋の2人だけで、1人はテレビ局や芸人との連絡を担当し、1人は現場回り。
しかしすぐに電話も人間も足らなくなり「吉本興業東京事務所」へ昇格した。
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さんまはすぐに東京連絡所に所属。
東京進出の先鋒となった。
結局、マネージャーがつくのに数年かかったが、それも面白さにつながったという。
「売れてきて東京に来るでしょ。
共演者の楽屋に行くと、『エッ、1人なの』と驚かれるわけ。
他のタレントさんはマネージャーやら付き人とか3人くらいついてたりしてますから。
でもそれだけ俺は動いてんのよ。
みんなマネージャーとかと一緒に行動してるやろ。
だから起こることって限られてんのよ。
1人で行動するといろんな面白いことがあるわけよ。
道間違っても面白いし、1人でポツンとどっか行っても面白いしね。
そういう楽しみを見つけなダメよ。
笑いの作り方って人それぞれやけど、俺はリアルに体で感じなきゃダメなタイプやからね」
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月~金、12~13時、フジテレビで「笑ってる場合ですよ!」がスタート。
新宿にできたばかりのスタジオアルタから生放送され、製作は、横澤彪プロデューサー、佐藤義和ディレクターら「THE MANZAI」のスタッフ陣。
司会は、B&B。
各曜日のレギュラーは

月 ザ・ぼんち
火 ツービート
水 島田紳助・松本竜介
木 春風亭小朝
金 西川のりお・上方よしお

と人気若手漫才師たち。
1ヵ月後、お昼の番組としては異例の10.3%という高視聴率をマーク。
さんまも月1のペースで6分ほど漫談ネタで出演。
春風亭小朝とさんまは同年齢で、東西の落語家としてよく比較された。
15歳で弟子入りし、36人の先輩をごぼう抜きして真打に昇進した「落語界のプリンス」と呼ばれていた小朝。
数々の不祥事を起こす上、落語をほとんどやらないさんまと好対照だった。
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「THE MANZAI」は3ヵ月に1度のペースで放送されていたが、1980年12月30日の放送で、最高視聴率32.6%を記録。
翌日の大晦日、日本テレビ「特別生放送 笑いは日本を救う?」、TBS「笑ってサヨナラ 東西BEST漫才」が放送され、1年前、77%だった「NHK紅白歌合戦」の視聴率は71%まで下がった。
さらに翌日、1981年1月1日、ザ・ぼんちがシングルレコード「恋のぼんちシート」をリリース。
(最終的に80万枚を売り上げた)
その後、1ヵ月間で漫才を125本、1日最高22本をこなした。
分刻みのハードスケジュールで、バイクやヘリで移動。
合間に点滴を打ち、移動時間だけが睡眠時間となったが、それも1日合計で3時間程度。
すでにネタは尽き、新しくつくらなければならなかったが、その時間もなかった。
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さんまは、時代劇ドラマで憧れの大原麗子と共演。
本読みをしているとき、後ろから
「どうぞ」
と大原麗子にみかんをもらい、うれしくて食べることができず、腐るまで大切に家に置いておいた。
さらに
「何か身ににつけているものを下さい」
と頼み、帯板(帯の下、または間に入れる)をもらった。
その後、さんま、島田紳助、松本竜介が3人で六本木を歩いているとき、台湾料理店から出てくる女性陣を発見。
先輩2人の指示を受けた松本竜介が背後から
「お姉さん、お茶飲まへん?」
と声をかけると、振り向いたのは浅丘ルリ子と大原麗子。
松本竜介は
「あ~、おはようございます。
すんまへん」
といって退却。
逃げた後、2人の先輩からドつかれた。
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桂三枝が12年司会を務めた「ヤングオー!オー!」から勇退。
さんまはメイン司会者となり、また「花の駐在さん」でも、桂三枝に代わって主役と座長を務めることになった。
桂三枝は、落語家として、また吉本のトップ争いということでも、やすきよをライバル視していた。
ヤングオー!オー!の勇退も
「漫才には負けてられへん」
と本業の落語に身を入れるためで、以後、トーク番組などをこなしつつ創作落語に本腰を入れていく。
ある日、やすきよの番組にも出演していたさんまは、楽屋で西川きよしに
「さんま君、昼飯に僕が何をごちそうしたか三枝君にいうたげて」
といわれ
「重亭のハンバーグをいただきました」
と答えた。
「あそこのハンバーグ、なかなかいい値段するよな」
西川きよしが目をむいていうと桂三枝は
「重亭のハンバーグなんかでエエのんか?
もっといいもんを食べに行くか」
さんまは吉本の権力闘争に巻き込まれた。
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1981年3月、女性週刊誌「微笑」に、
「スクープ!愛の巣を発見!明石家さんまに東京妻がいた」
という見出しが踊った。
内容は、さんまが銀座の高級クラブに勤める女性の家に週に2、3回泊まっているというもの。
さんまの
「彼女とはもう別れたんです
遊びじゃなくマジメにホレてました」
というコメントも載った。
取材を受けた後、さんまはなぜ週刊誌にバレたのか気になって女性に電話したがつながらなかった。
一方、大阪ではさんまが使っていた喫茶店に村上ショージ、Mr.オクレ、ジミー大西がいると般若のような顔をした女性がやってきた。
それはさんまの彼女、大阪で長年付き合っている本命の恋人。
女性は店内を見渡してさんまを探し、テーブルに置いてあった週刊誌をものすごい目つきでにらむと猛然とした足取りで出ていった。
東京のさんまのマンションにはたくさんの記者が張り付いていた。
「抗議しましょか」
という吉本社員。
「こっちが面白がったらええねん。
人気商売、騒いでくれるだけ丸儲けや」
「さんまさん、ほんま笑い好きですね」
「夢中になれるもん探してたらこうなったんや」
「夢中ですか・・・」
「夢中や。
必死やで。
アホみたいに」
そういった後、心の中で続けた。
(こんなアホみたいに必死になれるものに出会えた自分は幸せやと思う)
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