明石家さんま 西の郷ひろみ時代
2022年5月14日 更新

明石家さんま 西の郷ひろみ時代

東京進出、ドラマ出演、レコードリリース、おまけに芸能人運動会で田原俊彦に勝ってしまうという吉本芸人にあるまじき活躍の数々。

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さんまが出番の日は、一目見ようとプレゼントを抱えて詰め掛けた女性ファンでごった返すため、花月の楽屋で芸人の世話をしていたお茶娘の狭間トクは、さんまが楽屋入りする時間になると
「はいはい、どいてんか。
かかるで~」
といって水をまき
「水かけババア」
と恐れられた。
そして車が停まり、さんまが登場すると高い歓声が起こった。
さんまは、四方八方からプレゼントをもらいながら
「ありがとう」
「ありがとう」
と1人1人に対応。
好みや面白そうな女性がいると話もした。
「君どこや?」
「長崎です」
「おう、長崎のどこや」
「佐世保」
「オレにも佐世保」
至近距離で下ネタを放たれた女性はうれしがった。
人ごみにもみくちゃにされながらを楽屋口へ移動したさんまに
「お疲れさんです」
迎えに来た村上ショージが挨拶。
「お帰り」
「さんまちゃん、お帰り」
楽屋へ続く廊下をプレゼントを抱えて歩くさんまに、みんなが声をかけた。
「どや、東京は?
東京なんて気取った顔してもほとんど田舎モンの集まりやで。
負けたらアカン」
狭間トクにいわれたさんまは
「意地でも関西弁で通したるねん」
と応じた。
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こうして劇場入りしたさんまは、出番まで楽屋で過ごし、ステージを終わると再び楽屋でくつろいだ。
「あーあー果てしない♪
あーあー♪」
誰かが大都会を歌い出すと
「お前はターザンか」
と村上ショージがツッコんだ。
「さすがショージ兄さん」
「なっ、このよさがプロデューサーにはわからへんねん」
「兄さんのギャグが高級すぎるんちゃいますか?」
「高級、サンキュー、オレの手取り8300円」
「兄さん、キレがある。
勉強になります」
「キレがあるのに笑いがない。
誰がや!
ドゥーン!」
村上ショージ得意の3段オチと後輩にヨイショが飛び交い続ける楽屋で、やがてさんまは立ち上がった。
本来、花月から出るにはロビーを通って正面から出るか、裏の楽屋口から出るか2つに1つ。
しかしさんまは第3の道を行く。
出待ちのファンをかわすため、風呂場の窓から脱出し、建物の横の細い道に出た。
狭間トクは一緒に風呂場から出ようとする村上ショージに怒鳴った。
「お前は堂々と表から出え。
誰も追いかけてくるか」
「エエやんか。
今から兄さんとメシを食いに行くねん」
「お前は10年早い。
表からや」

Mr.アンダースロー ( ♪ 明石家さんま)

1979年9月21日、さんまは、シングルレコード「Mr.アンダースロー」で歌手デビュー。
この曲は関西では有線ランキングで1位にもなり、東京でもプロモーションを開始。
「西からエースがやってきた!」
と銘打ち、さんまは東京の各所を宣伝に回った。
しかしまったく売れず、西のエースはメッタ打ちにされた。
結局、このレコードの売り上げの80%は関西。
まだ関西芸人が誰も東京に進出していなかった時代だった。
しかしこの後、さんまは東京で初のレギュラー番組を獲得する。
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関西の人気深夜ラジオ番組「ヤングタウン土曜日」のレギュラーになって1年、さんまは関東の人気深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」のメインパーソナリティーになるためのオーディションを受けることになった。
東京、有楽町からニッポン放送のスタッフが大阪までやって来て
「今からテープを回しますので生い立ちから今までをしゃべってください」
といわれ、さんまは内心
(ナメてんのか)
と思いながらしゃべり、1週間後、合格。
オールナイトニッポンは、月~土、1部が25~27時、2部が27~29時に生放送。
さんまは木曜日の2部を担当し、1979年10月4日が初放送。
1部は、「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、本来、1部と2部はCMの間に入れ替わるが、さんまは、度々、1部の放送途中に乱入。
桑田佳祐が2部まで残ることもあった。
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オールナイトニッポンが始まるとさんまは、毎週、大阪と東京を往復するようになったが、その新幹線でよく鶴瓶と一緒になった。
鶴瓶は、ファンに会うと、必ず会釈したり手を振ったりして愛想を振りまき、決してサインや握手を断らない。
新幹線に乗り込むとき、ファンからおにぎりをもらうと、すぐに車内でパクリと頬張ってみせた。
ファンから食べ物をもらっても
「何が入っているかわからない」
と食べることができないさんまは、
(さすが!
ファンを信じて大切にしてはるんや)
と感心。
しかし鶴瓶は電車が発車しファンがみえなくなると食べかけのおにぎりを袋に戻した。
「もう食べまへんの?」
「みてないところで食べてもしゃーないがな」
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また鶴瓶の提案で新幹線の中でいろいろなゲームが行われた。
「借り物ゲーム」では
「1号車のAの席の人の靴を片方借りてくる」
「13号車でヘアピンを借りる」
「3号車に乗っている女の人に口紅を塗ってくる」
などと鶴瓶が指令を出す。
さんまは1号車にいき、寝ているサラリーマンを見つけ、
「すみません、すみません」
「あー、はい、何ですか」
「すみません、右の靴、貸していただけませんか。
ちょっと今ゲームやってまして」
と頼んで靴を借りてきた。
鶴瓶は、さんまがズルをしていないか確認するために1号車まで行き、スーツ姿で片方だけ靴を履いた男性がいたため
「律儀なやっちゃな」
とさんまの人間性を認めた。
さんまは、
「借りてこれたら1000円やるわ」
といわれていたが、もらえなかった。
そして午前1~3時までオールナイトニッポンを生放送でやった後、6時の新幹線で大阪へ帰り、うめだ花月へ向かった。
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結局、1979年、さんまはテレビやラジオでレギュラー番組14本、合間にスペシャル番組やゲスト出演、そして花月の舞台も月20日、1日2回立って、取材や営業、イレギュラーの仕事もこなした。
休みは1日もなかったが、仕事が終わると芸人仲間と遊んだ。
とにかくどんなに疲れていても人と会い、話すことをやめず、寝るのは移動のときだけ。
体はやせ、ある日、起きると声が出ず、病院にいくと
「しゃべりすぎですね」
という診断。
さらに
「しゃべることをやめることはできないですよね」
といわれガラガラ声で
「はい」
と答えた。
以来、さんまはカスレ声である。
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桂三枝が12年間続けた「ヤングタウン」を勇退すると、さんまがメインパーソナリティーとなり、後を引き継いだ。
まだ松竹と吉本が共演NGの時代に、鶴瓶は、ハガキを書いて送ったり、電話でさんまのヤンタンに出演。
あるとき河内家菊水丸が大阪千里丘の毎日放送から車で出て、兵庫県西宮市の鶴瓶が建てたばかりの家を訪れるという企画があった。
深夜、
「間もなく到着します」
という連絡を受け、鶴瓶が家の前で待っていると、それらしき車のライトが近づいてきたので、
「よっしゃ」
とパンツを脱いで丸出しの尻を開いて待った。
しかしその車は近所の人で
「プップー」
とクラクションを鳴らして通り過ぎていった。
やがてラジオカーがやってくると
「お前ら遅いから町内の人の車に向かってズボンずらしてみせてしもうたやないか!
引っ越してきてまだ半月や!」
と怒ったが菊水丸にはなんの落ち度もなかった。
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あるとき鶴瓶は、
「弟子にしてください」
という電話をもらったため、とにかく自分の師匠、6代目笑福亭松鶴に会わそうと
「・・・・(日時)に・・・・(場所)に来てください」
と答えた。
しかしこの電話の主は実はさんま。
「鶴瓶兄さんがもう弟子をとろうとしている」
という噂を流した。
またさんまは、鶴瓶の嫁、玲子にも
「水道局ですけど、風呂の水が流れっぱなしになっていますからみてください」
「電話局ですが、1m離れて鍋のフタ叩いてみてください」
などとイタズラ電話を入れて楽しんだ。
しかし後に大竹しのぶと離婚したさんまから電話がかかってきたとき、鶴瓶は玲子に
「お前幸せか」
と聞き
「幸せです」
という声を聞かせた。
こうしてヤングタウンのメインパーソナリティーとなったさんまは、テレビやラジオで10本以上のレギュラー番組をやりながら、花月にも出続け、営業の仕事もこなし、相変わらず不眠不休状態。
仕事が終わるとファンに囲まれながらタクシーに乗って、栄養ドリンクを飲んで、カイロを喉に貼って睡眠。
移動時間だけが唯一、安らぎの時間となった。
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1979年10月、日曜日の21時に放送されていた関西テレビの「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
気をよくした「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」で、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
これをみて各局も新しいバラエティー番組を製作。
どのチャンネルを回しても漫才がみるようになる。
中でもフジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
この3ヵ月に1度放送される番組は、毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に若い客を入れた。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君微笑めば)」が流れた。
出演者はベテランではなく若手が中心。
出演順は抽選で決め、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
1980年4月、「THE MANZAI」の放送が始まると空前の漫才ブームが勃発。
ブームを牽引したのは、関東では、星セント・ルイス、ツービート、B&B、関西では、横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などの漫才師。
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