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1997年5月にヤンキースへ入団。ヤンキース初の日本人のメジャー選手だった。日米を交えた大騒動を経て入団したため、メジャー初登板初先発となった7月10日のデトロイト・タイガース戦では通常の2倍の観客が詰めかけた。このデビュー戦では、6回2/3を5安打2失点9奪三振の投球でメジャー初勝利[11]で日本人初の初登板初勝利を達成した。オーナーのジョージ・スタインブレナーからは「和製ノーラン・ライアン」と称された。
Hideki Irabu 伊良部秀輝 1997年 NY初戦 / 2002年 テキサスでクローザー - YouTube
1997年7月10日 irabu hideki Yankees ヤンキース
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念願のヤンキース入りが叶った後の1997年には、ある試合でファンから大ブーイングを受け、スタンドに向かってツバを吐いた。この行為を見た米球界は「BIG CHILD」(大きな子ども)と痛烈批判。1999年には一塁へのベースカバーに遅れた伊良部に対し、ヤンキースのオーナー・スタインブレーナーが「太ったヒキガエル」と揶揄するなど、伊良部にはヒール(悪役)のイメージがついてまわった。
7月は4勝0敗、防御率2.64、WHIP1.08の活躍でキャリア二度目の月間MVPを受賞。ヤンキースタジアムでの試合で一塁ベースカバーに入りアウトを取った際にはスタンディングオベーションが起こった。
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エクスポズに移籍した2000年は、4月に右ひざ半月板損傷、7月に復帰したが右ひじ遊離軟骨手術を受け、そのままシーズン終了。01年は故障者リストで開幕を迎え、5月に復帰したが、6月にひじ痛が再発し、靭帯部分断裂と診断されたが、手術は回避しリハビリを続けた。
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8月26日に遠征先でチームメイトと食事をした際に酒を飲みすぎ、意識不明となって病院に搬送されたことが原因で29日に7日間の謹慎処分を命じられ、9月6日に解雇された。オフにはプエルトリコのウィンターリーグに参加し5勝3敗、防御率2.34の成績で最優秀投手賞と右投手ベストナインを受賞。12月27日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ。
2002年は、リリーフとして開幕メジャー入りした。4月13日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローと初対決した。
クローザーとして5月中旬まで1勝10セーブ、防御率0.64、WHIP0.92と好投を続け、地元紙からは「球団史上に残るクローザー」とも呼ばれた[15]。しかし6月から防御率8.44、WHIP1.68と調子を落とし、7月15日に肺血栓が見つかりシーズンを終える。12月7日に阪神タイガースと1年2億円で契約した。
阪神時代
2003年、監督の星野仙一は伊良部に抑えを任せたかったが、伊良部本人の希望により先発を任された。この年はオールスターゲームにも1996年以来7年ぶりに選出され、ロッテ時代の古巣の本拠地千葉マリンスタジアムでの第2戦に先発し、3回無失点と久々の千葉マリンで好投し、優秀選手賞を受賞した。そしてシーズンでは13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。
2004年は3試合のみの登板で終わり、オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。
現役復帰
40歳となった2009年に、米国独立リーグのロングビーチ・アーマダに入団した。5年ぶりの復帰は月給1,500ドルだった。
伊良部は先発として公式戦登板当日を迎える。初球はストレートでストライクを取るが、2球目をライト前にヒットされる。その後は、味方のエラーによりノーアウト一塁・三塁のピンチに陥る。3番打者に犠牲フライを打たれ、早くも先制点を奪われてしまう。
さらに2点目を奪われ、1アウト満塁の大ピンチ。だが、伊良部の反撃はここから始まる。ストレートで押し、連続三振で切り抜けた。この試合では5回を投げ、6安打4失点(自責点2)という結果だったが、仲間の援護により勝利投手に輝いた。その後は中5日のペースで先発を続け、4試合で3勝を挙げている。