落語のリアリティは、森田監督の育ちにあった!
落研だった森田芳光
via ameblo.jp
初めて劇場映画を手がけるにあたり、森田は自分が誰よりも知っている「風俗と落語」を結びつけることにする。
何しろ彼の実家は旧花街である渋谷・円山町の料亭で、芸者衆に囲まれながら育った。そして日本大学芸術学部在学中には落語研究会に所属している。
この落研時代のひとつ上の先輩に、のちの放送作家・高田文夫がいた。
高田によれば、森田はいくら稽古をつけても下手で、「演じるんじゃなくて、つくるほうにまわれ」とアドバイスしたという(高田文夫『誰も書けなかった「笑芸論」』講談社)。
題名は、三遊亭金馬 (3代目)の落語『居酒屋』に出て来る「のようなもの」というフレーズから採られた。
具体的には、「できますものは 汁に柱に鱈昆布 アンコウのようなもの 鰤にお芋に酢蛸でござい」といったくだりから引用されました。
劇中でしんととが、東京を夜な夜な歩きながら続けるシーンがあります。
道中、地名や風景を語るのは、道中づけという落語における語り口の一種です。
臨場感をお客さんに与える意図があり、本作ではそれに並行して、高校生の彼女がしんととをバイクで追いかける際の時間経過を表現していました。
さすが落語に造詣が深い森田監督ならではの演出でした。
劇中でしんととが、東京を夜な夜な歩きながら続けるシーンがあります。
道中、地名や風景を語るのは、道中づけという落語における語り口の一種です。
臨場感をお客さんに与える意図があり、本作ではそれに並行して、高校生の彼女がしんととをバイクで追いかける際の時間経過を表現していました。
さすが落語に造詣が深い森田監督ならではの演出でした。
エピソード
本作の撮影のため若手落語家を探していた森田監督は都内の寄席に通ったがなかなか思い描くような人が見つからず、『全日本落語選手権』へ出演していた伊藤克信(当時、大学生)を偶然テレビで観て主役に抜擢した。
伊藤は、保険会社へ就職が決まっており演技経験もないため申し出を断ろうと思っていたが、監督の熱意に押され映画出演を承諾した。
このような経緯で出演したため苦労話も多く、道中づけのシーンでは実際に42.195キロを歩き、このシーンのナレーション収録の際はスタジオの中を歩きながら50回近くも収録を繰り返したため、力の抜けた語り口調に仕上がっている。
秋吉久美子演じる風俗嬢も暗い影は一切なく、洋書のペーパーバックを読み、Y'sで服を買うといった具合に、知的でファッショナブルな女性として描かれている。
ここには、生家が料亭ゆえ「水商売の人がバカにされるのは好きじゃない」との森田の思いが込められていた
via blogs.c.yimg.jp
一般的な青春群像映画とは違って、いわゆる甘酸っぱいラブコメ感が少ない映画です。
男女の恋愛が主ではなく、それが淡々と描かれている点が、本作のふわふわとしたおかしみを演出しています。
例えば、劇中、若い男女の出会いと別れが感動的でなく、「普通のこと」として扱われます。
青春にはつきものである恋愛模様に焦点を当てずに、それらも日常を形成する一つの出来事だと言うように淡々と物語が進行していきます。
純朴な栃木訛りの主人公を中心に据える事で、それがより際立ちます。
常にマイペースな主人公を通して見た世界は、コメディ映画にありがちな面白い出来事に溢れた世界ではなく、普通の日常があるだけでした。
その映画らしくない世界、つまり私たちの現実的な世界をあえて映画化する点に、この映画の独特な奇妙さが内包されていると感じました。
これが森田芳光の35mm映画・初監督作品だと知り、その人間に対する洞察力に驚愕したのを思い出しました。
男女の恋愛が主ではなく、それが淡々と描かれている点が、本作のふわふわとしたおかしみを演出しています。
例えば、劇中、若い男女の出会いと別れが感動的でなく、「普通のこと」として扱われます。
青春にはつきものである恋愛模様に焦点を当てずに、それらも日常を形成する一つの出来事だと言うように淡々と物語が進行していきます。
純朴な栃木訛りの主人公を中心に据える事で、それがより際立ちます。
常にマイペースな主人公を通して見た世界は、コメディ映画にありがちな面白い出来事に溢れた世界ではなく、普通の日常があるだけでした。
その映画らしくない世界、つまり私たちの現実的な世界をあえて映画化する点に、この映画の独特な奇妙さが内包されていると感じました。
これが森田芳光の35mm映画・初監督作品だと知り、その人間に対する洞察力に驚愕したのを思い出しました。