板垣恵介の格闘技史2  板垣死すとも格闘ドリームは死せず
2020年2月7日 更新

板垣恵介の格闘技史2 板垣死すとも格闘ドリームは死せず

「男に生まれたからには1度は最強を目指す。最強に憧れないなんて男じゃない。最強を夢みない男なんていない。みんないつかあきらめてしまうだけなんだ。だからこそみんな強さに憧れるんだ」そういう板垣恵介の真っ直ぐな人生と共に20世紀の格闘技史を振り返る。

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ブラジリアン柔術の始祖となったのは日本人だった。
1878年(明治11年)12月18日、青森県弘前市で前田光世は生まれた。
19歳で講道館に入門。
講道館四天王の一人:横山作次郎などに鍛えられ、メキメキと頭角を現し、入門4ヵ月後、初段昇段審査を受け、嘉納治五郎(講道館初代館長)に前田光世のみ15人抜きを命ぜられ達成し初段となった。
柔道をはじめて1年以内に2段となったが、これも前例のないことだった。
23歳で3段になり、早稲田大学、陸軍幼年学校、学習院の柔道師範となる。
アメリカ大統領:セオドア・ルーズベルトは、日露戦争で大国ロシアを破った日本の軍人を評価していた。
また講道館の四天王の1人:山下義昭とジョージ・グランドという大男のレスラーの試合があり、山下義昭は自分の2倍はありそうな大男を体落とし、横捨て身で投げ、抑え込んだ。
大学時代、レスリング選手だったルーズベルトは、その技に感動し、海軍兵学校に柔道を取り入れたいと考えた。
そして強い柔道家を招き試合をさせたいと外務省を通じて嘉納治五郎に依頼。
嘉納治五郎は1番弟子:富田常治郎を派遣し、前田光世もついていくこととなった。
渡米すると、ホワイトハウス内に試合場が設営されていた。
前田は進言した。
「試合は私にさせてくれ」
富田常次郎は、講道館四天王の1人で、当時の最高段位の六段だったが、他の四天王(西郷四郎・横山作次郎・山下義昭)に比べて明らかに実力が劣っていた。
講道館立ち上げ以前から嘉納治五郎と共に行動し、六段は功労者的な意味合いが大きかった。
「自分が責任者だから君たちを出すことはできない。
文句をいわずに君たちはみていればいいんだ。」
富田はいった。
試合は、大統領、大統領夫人、その令嬢、政府・軍関係者、各スポーツのトップ選手、
日本大使、駐在武官、大使館員、マスコミ関係者なども観戦していた。
富田常次郎は、身長は160cm足らず、体重60kg足らず。
アメリカ側の代表は、陸軍士官学校の学生でフットボール選手。
身長192cm、体重110kg。
試合の始まると、フットボール選手は富田の両肩をつかんで力ずくで押さえた。
富田は、もがいたが鷹に捕まった小鳥のように逃げられず、そのままフォールされてあっけなく負けてしまった。
アッという間だった。
会場は拍子抜けし、ルーズベルトは柔道がなにもできず負けたことに衝撃を受けた。
日本大使館員は
「日本男児の面目丸つぶれ」
といい、前田光世は唇を噛み締めた。
マスコミによって試合結果はアメリカ全土に伝えられた。
「柔道を貶めたまま日本に帰れない」
前田光世は、失墜した柔道の権威を取り戻すため、富田と袂を分かってアメリカに残った。
そして自ら柔道の強さを示すため、単身陸軍士官学校や大学で柔道の試合やデモンストレーションを行い、誰にも負けなかった。
こうした活動に注目したアメリカ人の後押しによってニューヨークに道場を持った。
入門者は多かった。
しかし前田光世は相手が誰でも遠慮なくビシビシ畳へ投げつけ容赦なく指導したため、誰も道場に来なくなった。
前田光世は、道場のオーナーと相談し、新聞で1000ドルの懸賞金つきの真剣勝負を呼びかけ公開の場で決戦することにした。
最初に挑戦してきたのは、世界一の怪力男、ヘビー級レスラーのブッチャー・ボーイ。
新聞は
「史上初の異種格闘技戦」
と書き会場は超満員となった。
前田光世は、165cm66kg。
ブッチャー・ボーイは、185cm115kg。
試合は3本勝負。
両者、柔道着を着用。
関節技・絞め技・投げ技で戦い、「まいった」するか、失神、戦闘不能、レフリーストップ、あるいは両肩をマットにつけたら1本。
2本先取したほうが勝ち。
前田光世は、体落としや巴投げでブッチャーボーイをマットに叩きつけ、首投げにきたブッチャーボーイを抱きついて投げて両肩をマットにつけて1本目先取。
3分後、跳びつき腕ひしぎ十字固めでブッチャーボーイは「まいった」し2本目を取り勝利した。
「実力を示し続けさえすれば柔道の真価は必ず理解される。
富田が貶めた柔道への評価などは取り返せる。
それには自分が勝ち続けることだ」
この後も前田光世は、アメリカ各地を転戦し他流試合を行った。
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ベアナックル(素手)のメキシコ人ボクサーには、下からの十字固めを極めた。
中国拳法家は、蹴り足を掴んで膝十字固めで勝利。
柔道着を着ていないと使えない柔道の技もあった。
またいくら投げても勝ちにならないので、確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに、前田光世は独自の戦法を編み出していった。
さらに開発は突き蹴りという打撃技にまで進んでいった。
「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ」
それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別ものだった。
「柔道は、究めるものであり、金をとり観客にみせるものではない」
アメリカで転戦する前田光世を講道館は破門した。
もともと講道館四天王の1人の富田が負けたため、柔道の真価をみせようと、敢えて異国に留まった。
しかし海外でのあまりに高い名声、次々に編み出される前田独自の柔道技術が講道館を嫉妬させ、恐れさせたのかもしれない。
前田光世は気にせず、アメリカを周り終えイギリスに渡り、ヨーロッパを周った。
ベルギーで異種格闘技戦、100戦100勝を達成。
やがて有名になりすぎ相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばなかった。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」はどうか。
伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
これがリングネームとなった。
「困る伯爵」ならぬ「コマ伯爵」というワケである。
29歳でメキシコへ。
32才で中南米(グァテマラ、ニカラグア、パナマ、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリー、アルゼンチン、ウルグアイ)を巡った。
1913年(大正2年)、ブラジルへ入った。
前田光世はブラジルのアマゾンの大自然に魅せられ決心した。
「アマゾン川流域開発に残る人生を賭けよう」
ここまでアメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
うち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
敗れたのは2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだもので、うちの1回が、ジミー・エチソン戦。
195cm、132kg。
世界レスリングチャンピオン大会の決勝戦でのものだった。
1917年(大正6年)、前田光世は道場を開設した。
1921年(大正10年)、前田光世は、ブラジル政府より70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移住者で、ガストンはブラジルで3代目だった。
「息子に柔術で鍛えてくれ」
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは頼んだ。
こうしてガストンの5人の息子たちは柔道を始めた。
前田光世は彼らにその技術と精神を教えた。
1925年(大正14年)、4年間、みっちり柔道を習ったグレイシー兄弟は、共同で「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田光世は講道館から破門されていたので「柔道」という名前を使わせなかった。
この「柔術アカデミー」が、やがてグレイシー柔術となり、ブラジリアン柔術となるわけだが、末弟のエリオ・グレイシーは、身体が小さく、前田の柔術をさらに改良し、力を使わず誰にでも使いこなせる技術体系を完成させた。
だから現在でもグレイシー柔術宗家は、ストロングスタイルのカーロス派と、合理的で技巧派のエリオ派に大別される。
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エリオ・グレイシーは、木村政彦と対戦した。
木村政彦は、全日本選手権10連覇、15年間不敗、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれる不世出の柔道家だった。
戦後、師匠である牛島辰熊が起こしたプロ柔道に参加。
格付け(ランキング)戦でもトップに君臨し続けたが、半年ほどで興行自体が屯坐した。
木村政彦は、難病を患った妻のため、プロレスラーになることを決意し海外へ渡った。
1951年、木村政彦は、サンパウロの新聞社の招待でブラジルへ渡り、プロレスと柔道の指導を行った。
同年9月23日、同行していた加藤幸夫がエリオ・グレイシーが試合を行い、絞め落とされた。
それまでにもエリオ・グレイシーは、加藤幸夫だけではなく、何人もの日本の柔道家を破っていた。
10月23日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、木村政彦とエリオ・グレーシーが対戦。
ルールは、立技での一本勝ちは無し。
ポイント無し。
抑え込み30秒の一本も無し。
決着は、「参った(タップ)」か、絞め落とすこと。
寝技専門のエリオ・グレイシーに対し、木村政彦は気絶狙いの大外刈り。
気絶は失敗したが、そのまま寝技に移行し、終始、有利なポジショニングを維持し、最後は、腕絡みでエリオ。グレイシーの腕を折った。
しかしエリオ・グレイシーは強靭な精神力でギブアップせず、木村政彦も折れた腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。
試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングにかけ上がり木村政彦の体をタップし、木村政彦の一本勝ちとなった。
「何という闘魂の持ち主であろう。
腕が折れ骨が砕けても闘う。
試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」

ヒクソン・グレイシー

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目潰し、嚊みつき、急所へ攻撃以外は何でもありという初期のUFCにおいて、ホイス・グレイシーは柔術着を着て戦い、圧倒的な強さでアッサリと勝った。
そしてリング上で
「兄ヒクソンは私の5倍は強い」
と発言した。
エリオ・グレイシーには6人の息子がいて、ホイス・グレイシーもヒクソン・グレイシーもエリオ・グレイシーの息子だった。
そして1994年7月29日、佐山聡は、ヒクソン・グレイシーを招聘し「VALE TUDO JAPAN OPEN(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン) 1994」を開催。
修斗からも2選手が出場したが、共に1回戦で敗退。
「世界最弱」と叩かれた。
初来日したヒクソン・グレイシーは、1回戦では西良典、準決勝でダビッド・レビキ、決勝でバド・スミスにほぼ無傷で勝利し優勝した。
テイクダウンからマウント、絞めを狙う地味でシンプルな戦法だったが、圧倒的な強さを感じさせ、打撃重視、組技軽視の傾向にあった格闘技の概念を覆した。
この後、修斗はグラウンドパンチを段階的に解禁し、他の格闘技もその流れになっていった。
ヒクソン・グレイシーは、翌年行われた「VALE TUDO JAPAN OPEN(バーリ・トゥード・ジャパン・オープン) 1995」でも、。1回戦で山本宜久、準決勝で木村浩一郎、決勝で中井祐樹を、それぞれチョークスリーパーで下し、優勝した。
1997年10月11日「PRIDE(プライド)1」において、高田延彦と対戦し、1R、腕ひしぎ十字固めでギブアップを奪った。
1年後の1998年10月11日、「PRIDE.4」で高田延彦のリベンジマッチを受け、前回同様腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2000年5月26日、「コロシアム2000」で船木誠勝と対戦。
鉄槌パンチを受けて左眼窩底を骨折し、一時視界を失ったが、ポーカーフェイスで船木誠勝に気づかせず、視界が回復後、反撃を開始。
グラウンドに持ち込んでバックをとると、片腕を首に巻きつけながらマウントパンチを浴びせ、チョークスリーパーで絞め落とした。
「最強ってなんだろう」
「最強は誰だろう」
プロレスラー、大山倍達、極真空手、少林寺拳法、ボクシング・・・
その他、たくさんの格闘家や武道家を板垣恵介はみてきた。
中でもヒクソン・グレイシーは、1番わかりやすく強さをみせた。
「実社会同様、格闘技界も価値観が多様化し、誰が最も強いのかは意見が分かれるだろう。
こんな状況で男として凄みを1番感じさせてくるのがヒクソンだ」
範馬勇次郎に負け、アメリカへ修行に出た刃牙は、700戦無敗のブラジルのバーリトゥーダー:ディクソンを訪ね、東京ドームの地下闘技場で敗れたことを聞かされた。
「強敵に出会いたいならトーキョーへ戻れ」
こうして刃牙は日本へ戻ることを決意した。

柔道という競技の崇高さ

 (2165394)

1994年6月、福岡県で行われた柔道の全日本体重別選手権86kg級の決勝で、中村佳央と岡田弘隆が対戦した。
中村佳央は、前年の世界選手権で優勝した現役の世界チャンピオンだった。
岡田弘隆は、過去に2度、世界選手権で優勝した。
しかしソウルオリンピックでは直前に国内での練習でケガをして3回戦負け。
バルセロナオリンピックは万全のコンディションで、頭を剃り上げて気合を入れて現地に入ったが、試合2日前の練習でケガをしてしまう。
それでも勝ち進み、3回戦では見事な巴投が決めたが、勢いがよすぎて相手の体が回りすぎ、主審と1人の副審が「有効」の判定。
結局、残り30秒で、四つん這いになった所をひっくり返されて「技あり」を取られて負けた。
2年後のアトランタオリンピックがラストチャンスと思っていた。
そしてこの試合で岡田弘隆は、中村佳央の腕挫十字固が極められた。
体勢は完璧で、中村佳央のパワーを考えると逃げられるとは思えず、誰もが試合は終わったと思った。
しかし岡田弘隆は、
「まいった」
をしなかった。
肘はありえない方向に曲がっていた。
中村佳央も容赦なくさらに力を込めた。
耐え続ける岡田弘隆に、ついに主審が
「待て」
をかけた。
岡田弘隆の左肘は、靭帯が切れ、脱臼し、剥離骨折していた。
試合は、中村佳央の優勢勝ちとなった。
「そこでまいったをしたら自分にはもう未来はないと思った」
そういう岡田弘隆は、
「ケガを理由に引退はしたくない」
と現役を続行。
半年後、指の感覚が戻らない状態で出た講道館杯で3位に入った。
中村佳央と岡田弘隆の試合をみた板垣恵介は、柔道という競技の崇高さを感じた。
「あの勝負へのこだわりは生理的な思考で生み出せるモノとは思えない。
いったん試合場に上がったら最後、目の前の敵と一騎打ち。
男対男。
意地と誇り、そしてどれだけ多くの犠牲と共に精進してきたかという部分が、病的とも思える勝負へのこだわりを生み出すに違いない。
明日なき瞬間を彼らは生きていた」
「負けても仕方ないんだよ。
彼らがどんなに大きなものを失ったかは俺にはわからない。
でも彼らは失ったものと同じだけのものを得ただろう。
そしてそれ以上に多くのものを人々に与えてくれたんだ」

空手家の蹴り

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1995年、板垣恵介は、極真空手の全日本大会と世界大会で優勝し100人組手も達成する八巻健志の蹴りをミットで受ける機会があった。
踵落としを受けたとき、2階から冷蔵庫が落ちてきたような衝撃を受けた。
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佐竹雅昭の回し蹴りを受けたときも、体が宙に浮いてしまい、そのまま背中から落ちた。
彼らの蹴りは、どこに当たっても一撃必殺となる蹴りだった。

延藤直樹の負けん気がまぶしかった。

名勝負!!立嶋篤史vs延藤直樹

1995年9月29日、全日本キック CHALENGER-XIで立島篤史と延藤直樹が対戦。
立島篤史は中卒後、単身タイに渡りムエタイを修行。
夜間高校に通いながらキックボクサーとしてデビューし「最強の高校生」といわれた。
魂と気持ちで戦うファイトスタイルで圧倒的な人気を誇り、マイナーだったキックボクシングをメジャーなものにし、日本のキックボクサーとして初の1千万円プレーヤーとなった。
延藤直樹は以前から意識していた。
「これまでいい試合させてもらったどの選手にも危機感をもって臨んだのですが、彼だけは少し違いました。
絶対上がってくるな、そんな気がしたのです。
具体的なスタイルは若干違うかもしれないけれど、自分の存在が上塗りで消される、そんな気がしたのです」
立島篤史は、リングに上がるとお決まりの刀を振り下ろし相手を斬るパフォーマンスを行った。
すると延藤直樹は槍で突くようなパフォーマンスを返した。
延藤直樹は、立島篤史より歳は上だが後からデビュー。
キャリアでは劣るが、周囲を震え上がらせる雰囲気と眼光を持ち、立島篤史同様、気持ちで戦うスタイルだった。
1R、延藤直樹はローキックからガンガン攻めた。
立島篤史はヒザ&ヒジで対抗。
2R、立島篤史はアッパーからボディー。
明らかに効いた延藤直樹にさらにパンチ、ヒジの乱れ打ちから右ストレート2発。
ダウンを奪う。
コーナーでガッツポーズを決めた。
延藤直樹はカウント8で起きて、不適なスマイルでファイティングポーズをとった。
そして立島篤史に後ろ回し蹴りを放った。
しかし蹴りは空を切り、立嶋篤史はパンチと肘で延藤直樹をKOした。
「当日、会場の異様なまでの盛り上がりと歓声と罵声。
そして彼の持つ独特の空気が僕の頭の中を全て消し去りました。
あの日、あの場所にいた方ならわかってくれると思います。
声が痛いほど肌に当たりました。
地響き、地鳴り、後楽園ホールのリングで体感したのは3回だけです。
他にもあったとしても、あれが1番といっていい程の熱気でした。
罵声や延藤直樹のファンの鬼気迫る声援も後押ししたのかもしれません」
結局、延藤直樹は負けた。
しかし板垣恵介は感動した。
その負けん気がまぶしかった。

1999年、世紀末、42歳にして最強という底なし沼の落ちる

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