1974年6月8日 ロッテオリオンズ
翌1973年は6勝10敗と成績を落とし、シーズンオフに日本ハムファイターズに移籍します。この時の交換トレードの相手がロッテ・金田正一監督の実弟、金田留広でした。
1974年は、球団名が日本ハムファイターズに変わった初年度です。いきなり4連敗を喫しますが、6月8日古巣のロッテ戦で勝利。ついに、パ・リーグ全球団から勝利を達成しました。
結局、この年は4勝9敗で負け越しに終わります。しかし、翌1975年は11勝3敗、勝率.786で、最高勝率のタイトルを獲得。翌1976年は一転、13勝16敗で最多敗を記録してしまいます。年によって波のある成績こそ、野村収を象徴する特徴と言えるでしょう。
1978年、古巣の大洋ホエールズに移籍します。
1974年は、球団名が日本ハムファイターズに変わった初年度です。いきなり4連敗を喫しますが、6月8日古巣のロッテ戦で勝利。ついに、パ・リーグ全球団から勝利を達成しました。
結局、この年は4勝9敗で負け越しに終わります。しかし、翌1975年は11勝3敗、勝率.786で、最高勝率のタイトルを獲得。翌1976年は一転、13勝16敗で最多敗を記録してしまいます。年によって波のある成績こそ、野村収を象徴する特徴と言えるでしょう。
1978年、古巣の大洋ホエールズに移籍します。
1978年4月22日 中日ドラゴンズ
古巣に戻っての1年目。この年は、チームにとって、横浜スタジアムに本拠地が変わった歴史的な年で、チームも野村も絶好調でした。4月から順調に勝利を重ね、4月22日中日戦に勝利。以降もエース平松とともに活躍し、シーズン途中までヤクルト、巨人らと首位争いを繰り広げます。最終的に、チームは4位ながら勝ち越し。野村は、17勝11敗で最多勝のタイトルを獲得します。
しかし、巨人キラーの平松とは対照的に、野村は一度も巨人に勝てずじまい。11敗のうち5敗が巨人、という相性の悪さを露呈する結果に終わりました。
しかし、巨人キラーの平松とは対照的に、野村は一度も巨人に勝てずじまい。11敗のうち5敗が巨人、という相性の悪さを露呈する結果に終わりました。
1980年6月22日 読売ジャイアンツ
結局、巨人戦初勝利は、移籍3年目の1980年まで飛びます。この年は、6月中旬まで6勝3敗と好調。6月22日巨人戦は、王、河埜にホームランを打たれるものの、5回2/3で(勝ち投手の権利を得たまま)早々に降板します。その後を遠藤がロングリリーフで締め、6対5で辛くも逃げ切り勝ち。ついに苦手の巨人から初勝利を収めました。
残る1球団は、自球団の横浜大洋ホエールズです。
残る1球団は、自球団の横浜大洋ホエールズです。
1983年5月15日 横浜大洋ホエールズ
1983年に、加藤博一との交換トレードで、阪神タイガースに移籍。初年から先発で活躍します。
そして、その日はすぐにやってきました。5月15日古巣の大洋戦。先発として7回を2失点に抑え、最後の1球団から勝利を挙げます。ついに、プロ野球史上初めて全球団勝利を達成しました。奇しくもこの日、相手チームのリリーフ投手は古賀正明で、古賀も同じ年、全球団勝利を達成しています。
この年は12勝を挙げますが、翌年からは中継ぎに転向。阪神が優勝した1985年は、優勝を決めた10月16日に登板し、ナインから胴上げされています。1986年のシーズン後に引退しました。
引退後は、阪神、大洋、日本ハム、さらには、シドニーオリンピック日本代表のコーチを務めるなど、指導者としても活躍しています。
そして、その日はすぐにやってきました。5月15日古巣の大洋戦。先発として7回を2失点に抑え、最後の1球団から勝利を挙げます。ついに、プロ野球史上初めて全球団勝利を達成しました。奇しくもこの日、相手チームのリリーフ投手は古賀正明で、古賀も同じ年、全球団勝利を達成しています。
この年は12勝を挙げますが、翌年からは中継ぎに転向。阪神が優勝した1985年は、優勝を決めた10月16日に登板し、ナインから胴上げされています。1986年のシーズン後に引退しました。
引退後は、阪神、大洋、日本ハム、さらには、シドニーオリンピック日本代表のコーチを務めるなど、指導者としても活躍しています。
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