石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした
2019年11月4日 更新

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」

49,744 view

芦原英幸 難病を発症

 (2148939)

1992年、芦原英幸は自分の左のパンチに力が入らないことに気づいた。
2週間後には、ある人の名前をどうしても話せず、舌が動かないことに気づいた。
精密検査を受けて「ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)」と診断された。
手や足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。
しかし筋肉そのものの病気ではなく筋肉を動かし運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱くなり、筋肉がやせていく。
一方で通常、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれる。
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人という難病だった。
「俺、やっぱり死ぬわ。
最後には呼吸ができなくなるんだって」
芦原英幸は医師に入院を薦められても聞かなかった。
「ジタバタしても仕方がないわな。
2、3年か、人によっては10年以上生きることができる病気みたいだけど寿命だ。
寿命が決まっているんだから寿命が来るまでにやり残した仕事をやれるだけやってみるよ」
そういって黙々と仕事をした。
やがて言葉を発せられなくなり、文字盤を1文字1文字指して会話した。

K-1

theme k-1 grand prix

正道会館の東京進出は、新宿区の上落合で20坪ほどの風呂屋さんの半地下の小さなスペースが東京道場となった。
石井和義は、その隅の一坪のスペースに机1つと折りたたみのイスを置いて仕事をした。
そしてK-1開催が決まると、高田馬場に移転させた。
来日したK-1ファイターは、この道場でトレーニング、調整して試合に出た。
1993年4月30日、代々木第一体育館で「K-1」という新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など、代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんとする「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント。
8オンスグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
出場選手の中には8年間無敗の記録を持つキックの帝王:モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童:ピーター・アーツもいたし、この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド"ハリウッド"ヘイズを2R 0:45、右ローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳は、タイの英雄、最強のムエタイ戦士:チャンプア・ゲッソンリットをロープまでフッ飛ばした。
アンディ・フグは、この記念すべき第1回のK-1において決勝戦の前のスペシャルワンマッチで角田信朗と空手ルールで対戦し圧勝した。
そして30歳になるアンディ・フグはリング上で宣言した。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」
決勝戦ではブランコ・シカティックのパンチがアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれないモンスターイベントとなっていく。

大山倍達 死去

 (2148937)

1994年4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で大山倍達は死去した。
70歳だった。
大山倍達は遺言書で松井章圭を後継者に指名。
松井章圭は極真会館の館長となった。
大山倍達はあまりに偉大な存在だった。
極真のほとんどの支部長は大山倍達に憧れ、この道に身を投じた。
その絶対的存在、精神的支柱を失った極真は、この後、分裂を繰り返していく。
1994年6月、大山倍達の遺族が記者会見を行い
「遺言に疑問があるので法的手段にでる」
と発表。
彼女たちは大山倍達の本葬時にも抗議活動を行った。
そして5名の支部長がこれを支持し、松井章圭の下を離れ、大山智弥子未亡人を館長とする新組織を結成した。
これが「遺族派」、松井章圭を長とする組織は「松井派」と呼ばれた。
1995年4月、35人の支部長が「支部長協議会派」を結成。
松井派は一時、12名までに減った。
世界各地でも分裂が生じ、支部の取り合い選手の引き抜きが行われた。
8月、支部長協議会派と遺族派が合流。
「大山派(現:新極真会)」と呼ばれた。
極真空手の各種大会が、松井派と大山派(現:新極真会)によって開催されるようになる。
松井館派と大山派は、互いに正当性を主張し合った。

佐竹雅昭 脳ダメージで離脱

 (2148936)

同時期、正道会館所属の植田修選手がキックボクシングの試合で受けたパンチが原因で亡くなった。
彼は1月にも空手の試合でダウンし、タンカで運ばれていた。
佐竹雅昭は、後輩の死に改めて頭部への打撃の怖さを思い知り、そして覚悟を決めた。
「K-1 GP94」では決勝でピーター・アーツと接戦した末に2位となった。
そして1995年3月3日、拳獣:サム・グレコにKO負け。
このときダウンしてからの記憶を失い気がつけば車の中にいた。
本人は
「大丈夫、大丈夫」
といっていたがその様子は全然大丈夫ではなかった。
深夜、病院に行き検査を受け、いったん東京に戻り、日大病院で再び検査を受けると脳の海馬がダメージを受けて血管が細くなっていることがわかった。
医者はいった。
「佐竹さん、このままでは、その若さでアルツハイマーになりますよ」
石井和義に報告したが、
「人にいうなよ」
とかん口令が出ただけで試合はドンドン組まれていった。
しかし肉体的にはタフで打たれ強い佐竹雅昭が頭を打たれるとすぐに倒れ始めた。
佐竹雅昭は試合は決まると、大阪の正道会館の宿泊施設に寝泊まりし、自分で洗濯などをしながら、朝は淀川沿いを走り、午後からはジムワーク、夜はウエイトトレーニングとマッサージという生活を続けた。
そして試合前には、頭のこともあるので何があってもいいように自分の部屋や仕事場を掃除し身辺を清めた。
1995年、K-1GP開幕戦で、総合格闘家:キモと対戦。
試合前、相手の呪いのパフォーマンスに十字を切って対抗。
そして2R 2:27、左ミドルキックでTKOした。
ただ佐竹はこの試合のことも覚えていない。
キモの投げ(反則)で頭を打ったショックで前後の記憶を失った。
1995年5月4日、K-1GP準決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。
3R、左フックでKOされた。
この後、佐竹雅昭は少しの間、リングから消えた。
(復帰は1996年10月18日、K-1 STAR WARSで約1年半ぶりに試合復帰。
アンディ・フグとフルラウンド戦ったものの、消極的な試合姿勢で判定負け)

芦原英幸 死去

 (2148935)


1995年1月15日、芦原英幸は息子であり2代目館長候補である芦原英典の技を2日に渡りチェックした。
それは目線から顔の位置の数㎜のズレを指摘する厳しいものだった。
そして同年4月24日、2年半の闘病の末、亡くなった。
50歳だった。
石井和義は、芦原英幸の葬儀にかけつけたが遺族に焼香は断られた。
生前、芦原英幸は
「石井を許すことはできない」
といっていたという。

極真との絶縁解消 

 (2148934)

1996年7月、松井章圭、石井和義、フジテレビで会合が持たれた。
極真会館は、アンディ・フグの引き抜きに怒った大山倍達が絶縁して以来、正道会館との接触はなかった.
松井章圭は
「極真会館は、過去に行われた除名、破門、絶縁処分を解除する」
と宣言。
そして石井和義のオファーを受けて、フランシスコ・フィリョがK-1に参戦。
デビュー戦で、再びアンディ・フグを失神させた。
その後も連続KO劇を起こし「一撃」ブームを巻き起こした。

石井和義と佐竹雅昭 ケンカ別れ

 (2148933)

109 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

アンディ・フグ【K-1時代~最期の戦い】 We Will Rock You 夢はあきらめるな

アンディ・フグ【K-1時代~最期の戦い】 We Will Rock You 夢はあきらめるな

キックボクサーが有利なK-1で、唯一、王者になった空手家。 30歳を過ぎてK-1のリングに飛び込み、3戦目にチャンピオンだったブランコ・シカティックを撃破! K-1グランプリ 2年連続1回戦KO負けした後、空手家として初の優勝!! 白血病との最期の戦いも、ドクターストップによって終わったが、青い目のサムライはギブアップしなかった。
RAOH | 11,816 view
角田信朗  冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

角田信朗 冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

K-1や空手のトーナメントでの優勝経験ナシ。 なのに正道会館の最高師範代であり、メディアへの露出度も多い。 特筆すべきは彼の試合は、その人間性や感情があふれ出てしまうこと。 これは選手としても、レフリーとしてもそうで、インテリとむき出しの感情を併せ持つ愛と涙と感動の浪花男なのである。 最近、ダウンタウンの松本人志との騒動が話題になり、角田信朗の人間性を批判する人もいるが、私はその批判している人の人間性を疑っています。
RAOH | 21,334 view
佐竹雅昭  生涯一空手家 永遠の空手バカ

佐竹雅昭 生涯一空手家 永遠の空手バカ

あくまで最強の男を目指し、「闘志天翔」というテーマと、「1位.夢、2位.健康、3位.お金」という人生価値観を実践し続ける男。 空手を武器に総合格闘技のリングにも立った空手バカ一代男は、90年代の格闘技ブームの立役者となった。 批判されることもあるけど、ほんとうに強いし、ほんとうにナイスガイ。 間違いなく格闘技ヒーローである。
RAOH | 44,522 view
松井章圭 極真の継承者

松井章圭 極真の継承者

世界大会でアンディ・フグに勝って優勝した後、選手を引退。 やがて大山倍達とケンカ別れして極真を飛び出した。 ‘‘イトマン事件‘‘を起こした許永中、``政界最後のフィクサー``と呼ばれた福本邦雄のもとで働き、3年後、復帰。 大山倍達の死後、極真会館の2代目館長に指名されるも、先輩や後輩である支部長たちと内紛が起こり、極真は分裂した。 一見、クールだが1番ガンコな松井章圭館長は、自らの信じる方向に進み、道を拓いていった。
RAOH | 52,017 view
芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男

芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男

その強さは、猛者ぞろいだった初期の極真空手の中でも飛び出た存在。 真正面から打ち合うのではなく、一歩後ろ、一歩サイド、相手の技が届かないところから、いかに自分の技を届かせるかという空手。 そして決して負けることを許さない強烈な闘争本能。 道場の外でもヤクザ相手のストリートファイトや道場破りで名を売り恐れられた。 陰湿なこと、卑怯なことを嫌い、そのために多くの戦いを挑んだが、その中には師:大山倍達さえいた。
RAOH | 134,956 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト