石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした
2019年11月4日 更新

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」

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1988年、正道会館は全日本大会を一新させた。
まず畳の上だった試合場がリングになった。
これによって選手は畳の外に逃げることができず、よりアグレッシブで完全決着が期待される。
また本戦、延長戦、再延長戦を戦い差が出なかった場合、体重差10㎏以内であれば、グローブをつけて顔面パンチありで延長戦を行うことになった。
この大会で角田信朗は、2回戦まで本戦で判定勝ち。
3回戦は左ミドルキックでKO。
準々決勝で、1年前の同大会で背中をみせて屈辱の敗退を喫した今西靖明と対戦。
開始30秒、今西靖明のパンチが角田信朗の顔面をとらえダウンさせてしまうアクシデントがあった。
ドクターは止めようたが角田信朗が続行を懇願し、1試合挟んで改めて試合が行われた。
角田信朗は今西靖明の猛攻を体を捻って打点をズラシして殺し、必殺の左フックを右肩に叩き込んだ。
通称:肩パンチを嫌がって今西靖明が右のガードを開くと、角田信朗はそのガードの内側にパンチを入れた。
左ボディブローで一瞬、今西靖明の体が沈み、後退。
その後も角田信朗は今西靖明の攻撃に対して必ず左の肩パンチを返した。
そして試合はグローブマッチに突入。
角田信朗のパンチに今西靖明はそむけてしまう1年前の真逆の展開。
角田信朗はあらゆる角度からパンチを浴びせラッシュ。
技ありを奪い、そして最後は左フックで肩パンチと同じ反応を起こし右ガードが開いた今西靖明に右アッパーをねじ込み、再び閉じたガードの外から左フックでフィニッシュ。
今西靖明は鼻血を出しながら倒れていった。
昨年からの目標「打倒!今西先輩」を果たした角田信朗は、リングを降りると同時に倒れた。
今度こそドクターがストップしようとしたが、角田信朗は続行を望んだ。
「角田、わかった。
お前の骨は俺が拾ったる」
石井和義はそういって本部席に戻った。
準決勝の相手は佐竹雅昭だった。
心を鬼にした佐竹雅昭の容赦ない攻撃の前に角田信朗はマットに膝をついた。

Kyokushin karate 極真空手 衝撃KO 角田(正道会館)VS井口

正道会館のチャンピオンになった佐竹雅昭は、憧れの大山倍達の極真空手の大会で優勝するつもりだった。
これまで極真を破門された芦原英幸の弟子である石井和義の正道会館と極真会館と交流がなかった。
しかし大山倍達が
「空手界の大同団結」
を呼びかけたことにより、正道会館の選手の出場も認められ、1990年6月2日に行われる極真空手の第7回全日本ウエイト制大会には複数の正道会館の選手が出場申し込みを行った。
佐竹雅昭も重量級に申し込んだが、なぜか彼だけ書類不備となり出場できなった。
同じ重量級への出場が認められた角田信朗の心は燃え上がった。
夢の「地上最強の極真カラテ」に挑戦できるのである。
角田信朗は週3回は自分の道場である神戸支部、残り3日を大阪の総本部で稽古した。
会社のバックアップを得て大阪へ行く日は18時に仕事を終え、大きなバッグを抱えて阪急電車に乗り19時からの代表選手の特訓に参加。
正道会館の空手の試合のルールでは、片手による瞬間的な掴み・引っ掛けが許され、相手を掴んでの攻撃バリエーションが発達している。
しかし極真会館の空手の試合のルールでは「掴み」禁止されているため、このルールでの組手が延々と続いた。
そしてその後は一気に5連打する地獄のキックミット5連打。
最終電車に間に合うギリギリまで稽古は続いた。
通常ならJR環状線の天満駅から1駅乗って大阪駅までいき、神戸線に乗り換える。
角田信朗の家は阪急電車の王子公園駅から徒歩5分。
しかし阪急電車は終わっているので、JRで灘駅まで帰り、そこから家まで40分歩いた。
そして翌朝8時45分に出社した。
神戸支部での稽古を王子公園で陸上トレーニングに替えることもあった。
ウォーミングアップで、腕立て伏せ50回&ジャンピングスクワット50回×10セット。
それが終わるとインターバルダッシュ。
とどめは王子公園の入り口から山へ向かって伸びる500mの坂を地獄ダッシュ。
200mくらいで息ができなくなり、残り300mは無酸素状態。
ゴールするとよだれと鼻水だらけになった。
最初は1本もできなかったが、極真ウエイト制大会までに5本こなせるようになった。
1990年6月2~3日、極真会館が主催する第7回オープントーナメント全日本ウエイト制空手道選手権大会が大阪府立体育館で開催された。
他流試合において、すべての大会で上位を独占し「常勝軍団」といわれた正道会館だったが、極真空手は心技体共にレベルが違った。
軽量級、中量級、重量級の3階級に12名の選手を送り込んだが、2日目の準々決勝に進めたのは重量級にエントリーした柳澤恥行と角田信朗だけだった。
そして柳澤恥行は、この大会で優勝する岩崎達也に判定負け。
残るは角田信朗だけだった。
角田信朗の次の相手、準々決勝の相手は、井口勝利だった。
「ゼッケン210番!
角田伸朗選手!」
試合場に上がり正面を向くと大山倍達と目が合った。
大山倍達はニヤッと笑った。
試合が始まると井口勝利の蹴りに角田信朗はクイックローを返した。
蹴られたら蹴り返すような攻防が何度が続いた後、肩を狙った角田信朗の左のパンチが流れて顎に入り、井口勝利が倒れた。
角田信朗は頭を下げた。
再開後、ポイント勝ちも考え、手数重視となりつつある空手のトーナメントであるが、角田信朗と井口勝利は魂を込めて打ち合った。
井口勝利は100㎏を超える巨体からムチのようにしなった左ハイキックを出した。
角田信朗はそれを捌いて、井口勝利の体を時計回りに回した。
そして右フックをボディに打ちながら右足を外に踏み出した。
左半身に意識を集中させた井口勝利の右側の顔面に角田信朗は腰を残してヘッドを走らせた左ハイキックを叩き込んだ。
井口勝利は丸太のように倒れた。
強靭な精神力ですぐに立ち上がろうとしたが夢遊病者のようによろめいた。
劇的な1本勝ちだった。
角田信朗は試合場の上で泣いた。
この奇跡の一戦で気持ちが切れ抜け殻となってしまった角田信朗は準決勝で敗れた。
しかし他流派の選手が極真空手の全日本大会でベスト4に入ったことは快挙だった。
表彰式で大山倍達と握手を交わした。
「君ねえ、秋の無差別と世界大会にも出てこい!」

佐竹雅昭 vs ドン・中矢・ニールセン

全日本キック 佐竹雅昭vsD・N・ニールセン 1990年6月30日/東京・日本武道館

1990年、佐竹雅昭に、前田日明と異種格闘技戦を行ったキックボクサー:ドン・中矢・ニールセンと試合をしないかと全日本キックボクシング連盟からオファーがきた。
これまで顔面パンチなしのフルコンタクト空手の試合をやってきた。
空手選手ならそれでいいだろうが、空手家を目指す佐竹雅昭にとっては、相手がキックボクサーでも戦い倒さなくてはならなかった。
だからこの試合を受け、ボクシングジムやキックボクシングジム、シュートボクシングジムに通い顔を腫らせた。
1990年6月30日、全日本キックボクシング連盟「INSPIRING WARS HEAT」で行われた。
ルールはキックボクシングルール。
佐竹雅昭は契約体重まで体重も落として前歯も4本抜いた。
試合はケンカとなった。
リング上でニールセンはヘラヘラ笑い佐竹をなめた態度をとった。
そして膝蹴りで佐竹の金的を狙った。
佐竹はこのケンカを買い、頭突きから右ストレートを叩き込んでニールセンを倒した。

佐竹雅昭 vs クマ殺し:ウィリー・ウィリアムス

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1991年6月4日、 「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ~LAST CHANCE」が代々木競技場第二体育館で行われた。
石井和義は、試合開催まで、毎週、大阪で夜の稽古が終わった後、東京までまで4時間半かけて車で走った。
夜中にカプセルホテルに入り4時間ほど寝て朝風呂に入り、演出、音響、会場設営、チケット販売の業者と打ち合わせや挨拶回りなどを行い、深夜、大阪まで車で帰った。
試合当日もルールやレフリー、選手のチェックを行った。
チケットは立見席まで完売し、2万円のリングサイドS席は2万円はダフ屋に20万円で販売された。
リングアナは、新日本プロレスの田中秀和。
USA大山空手の大山茂・泰彦の兄弟師範による真剣白刃取りの演武。
中堅戦で角田信朗はギャリー・クルグビッツを跳び膝蹴りでギャリー・クルグビッツはひっくり返し、大将戦では佐竹雅昭はクマ殺しのウィリー・ウィリアムスと対戦し判定勝ちした。
試合後、両チームは互いの空手着を交換し、ファンは拍手を送った。
東京での初めての大会を石井和義は成功させた。

RINGS(リングス)

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佐竹雅昭は、お金がないことは大して気にならなかった。
しかし空手が世間から認知されないことには大きなフラストレーションを抱えていた。
同じ格闘技でも華やかな脚光を浴びているUWF、そしてそのエース格である前田日明がうらやましかった。
意を決した佐竹雅昭は、単身、東京の代々木第2体育館に行き、サンボの試合会場に来ていた前田日明に直接会いに行った。
当然、アポなしである。
会場につくと普通にチケットを買い入場。
まずサンボの試合をみて、トイレに立った前田日明に廊下で挨拶をした。
「あのー、前田さん、僕と戦ってほしいんですけど」
「そんなんいきなり無理や。
段取り踏んで来い」
そう冷静に返され、「プロになってから来い」ってことだろうと佐竹雅昭は解釈した。
そんなときにドン中矢ニールセン戦のオファーがあり、ケンカファイトの末にKOした。
そして「段取り踏んで来い」といわれてから2年後、佐竹雅昭は、UWF崩壊後、前田日明が立ち上げた総合格闘技「RINGS(リングス)」への参戦を決めた。
そのキャッチコピーは
「世界最強はリングスが決める」
最初、佐竹雅昭は、正道会館を離れ1人でリングスのリングに上がるつもりだったが、石井和義に
「お前だけやないやろ」
といわれ、リングス参戦直前には
「お前、アムステルダムに道場破りに行ってくれ」
と海外修行に出された。

正道会館 第10回全日本空手道選手権大会 佐竹vsG・ゴルドー 1991年10月10日/大阪府立体育会館

1991年秋のカラテワールドカップ91(正道会館の第10回全日本大会、改名された)は、オランダのジェラルド・ゴルドーやピーター・スミット、ソ連のアマチュアボクシングスーパーヘビー級チャンピオン:スラブ・ヤコブレフなども参戦した。
佐竹雅昭は、ジェラルド・ゴルドーに試し割り判定で負け。
角田信朗は、大会直前、左膝の内側の靱帯を断裂し、右のローキックでスラブ・ヤコブレフを沈めた後、棄権した。
試合後、呼ばれていくと石井和義と前田日明がいた。
石井和義が唐突にいった。
「角田さぁ、12月にリングスさんの大会が有明コロシアムであるんやけど、出てみない?」
「押忍?」
「佐竹と一緒に。
いいよねえ。
返事しとくよ?」
こうして1991年12月7日、「RINGS(リングス) ASTRAL STEP FINAL BLAZE UP 炎上」(有明コロシアム)で佐竹雅昭と角田信朗が初参戦。
この後、柳沢聡行、アダム・ワット、後川恥之、玉城厚志なども参戦した。
石井和義はリング上で宣言した。
「極真空手の大山館長が少年マガジンの誌上で戦った世界中の強者と私たちは実戦で戦います」
佐竹雅昭は、リングスデビュー戦でハンス・ナイマンと正道会館空手ルールで2分5Rを戦い引き分け。
1992年1月12日、体重無差別、グローブによる顔面パンチあり、肘打ちあり、掴みありの空手大会「第1回トーワ杯争奪 カラテ・ジャパン・オープン」で優勝。
(翌1993年の第2回大会も制しV2)
1992年1月25日、リングスでジェラルド・ゴルドーと再戦し反則勝ち。
1992年3月5日、フレッド・オーストロンにKO勝ち。
1992年4月3日、ヘルマン・レンティングにKO勝ち。
1992年5月16日、バート・コップスJrにKO勝ち。
1992年6月25日、ウィリー・ピータースに時間切れ引き分け。
1992年7月16日、ピーター・ウラにKO勝ち。
1992年8月21日、ロブ・カーマンと時間切れ引き分け。
そして1992年10月29日、長井満也をKOしたが、長井満也が「拳で殴った(反則)」とアピール。
スロービデオでは佐竹の掌底が長井のテンプルを完全にとらえダウンを奪っている。
しかしよくみると、その前に1発だけ拳による打撃が当たっていた。
結局、佐竹雅昭は、この試合を最後にリングスを去った。
正道会館勢は突然、RINGS(リングス)から撤退した。
あまりに突然で、佐竹雅昭の最後の試合がモメたことが原因ではないかともいわれたが、本当の理由は「K-1」だった。
佐竹雅昭は、前田日明のことは好きだったし、RINGS(リングス)に参戦し続けいつか対戦もしたかったが、すでに石井和義から、
「フジテレビと組んで凄いことをやる」
とK-1の構想を聞いていた。
それ自体にすごい魅力を感じたし、石井和義がいろんな我慢や苦労をしているのを知っていたから
「館長を男にしたい」
という思いが強くリングスを離れた。
佐竹雅昭にとって石井和義は師だった。
その指導は理論的で、空手家としても芦原英幸から継承したサバキの技術は非常に高く、
「何人か乗るなら新幹線を使うより車のほうが安上がりや」
と東京大阪間を車で何往復もする館長が好きだった。

鉄人:アンディ・フグ

アンディ・フグ正道会館移籍初戦 アンディ・フグvs柳沢聡之

アンディ・フグは、第4回極真空手世界大会大会(1987年)で2位(外国人で史上初)となった。
第5回極真空手世界大会(1991年)で27歳のアンディ・フグは優勝候補だった。
そして「アンディ包囲網」と呼ばれた超大型選手に囲まれたトーナメントを90kg前後の体で勝ち上がっていった。
しかし4回戦に事件は起こった。
20歳のフランシスコ・フィリョが故意ではないが審判が試合を止めた後に繰り出した蹴りによって倒されてしまったのである。
フランシスコ・フィリョの反則負けかとも思われたが、審判委員長であり、アンディ・フグが世界で一番尊敬していた大山倍達は、
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
としたことによりアンディ・フグの負けとなった。
試合後、人生で初めて失神KO負けしたアンディ・フグは控室にこもり、恋人のイロナ・フグは
「アンビリーバブル」
と泣き叫んだ。
世界大会終了後、28歳になったアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロファイターの道を模索した。
アンディ・フグが極真を離れプロになりたがっているのをインタビューを受けていたフリーライターから聞いた石井和義は、ドイツ語が得意な後輩にスイスのアンディ・フグとコンタクトを取らせた。
そしてアンディ・フグは来日したが、飛行機が1時間も早く着いてしまい、真面目なアンディフグは1時間、ロビーで立ったまま出迎えを待った。
そして1992年7月30日、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦。
踵落としで圧倒し、プロデビュー戦を勝利で飾った。
通常、フルコンタクト空手の試合は派手さが足りないため有料チケットを売ることは難しい。
しかしアンディ・フグは違った。
踵落としをはじめとする華麗で強烈な足技と鍛え上げられた肉体が発するパワーは観ているものを驚愕させた。
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アンディ・フグの正道会館への移籍に大山倍達は怒り、極真会館は正道会館と絶縁した。
(大山倍達没後、解消)
絶縁して約1年後、石井和義から角田信朗に電話が入った。
「お前、スーツ持ってるか?」
「押忍」
「じゃあスーツに着替えて東京行きの新幹線に今からすぐ乗って、乗ったら電話してこい」
「お、押忍?」
(プーップーップーッ)
角田信朗は、わけもわからず着替えて新幹線に乗ってからかけ直した。
「押忍。
いま新幹線に乗りました。」
「あーそお、ご苦労さん」
「自分はどうさせていただいたらいいのでしょうか?」
「ホテルニューオータニでね、梶原一騎先生の7回忌の記念式典やってるんだけど、角田、俺の代わりに出席してきてよ」
「オッ、押忍!!!???」
「極真の人たちもみんな来てるらしいよ」
「押忍!!
館長!そんな大事な席に自分のような者では館長の代わりはつとまりません!!」
「なにいってんの。
みんなお前が来るの待っとるで」
「押忍!!
しかし館長!!
極真会館さんからは絶縁状が届いている状態なのに、そんなところへ自分が行って大丈夫なんでしょうか!?」
(プーップーップーッ)
悲惨だった。
東京駅からタクシーでホテルニューオータニへ。
遅れて会場に着いた角田信朗は恐る恐る会場のドアを少しだけ開けて中を覗いてみた。
すぐ目の前に極真会館の黄色のブレザーを着た50名ほどの屈強な男たちがビッシリと出席していた。
しかも正面で大山倍達が挨拶をしている最中だった。
(ヤバい)
角田信朗は静かにドアを閉めた。
(こんな敵陣に、絶縁状を回されている組織の幹部がノコノコ入っていったらどうなるのだろう?)
思案に暮れ、もう1度覗こうとしたとき、中からドアが押されて開き梶原一騎の弟:真樹日佐夫が出てきた。
「いやあ、角田君来てくれたのか」
その声に会場の中の全員が角田信朗をみた。
「ちょうどいい、大山総裁に紹介するよ」
「押忍。
いえでも・・・」
真樹日佐夫に押され角田信朗はズズッズズッと大山倍達の前まで来た。
「いやあ総裁。
紹介します。
正道会館の角田君」
「オ、押忍。
せ、正道会館の、か、角田であります。
ごぶたさ、いやご無沙汰しております」
大山倍達は右手で握手しながら左手で角田信朗の頬をパチパチ叩いた。
「いやあ!
もう1度会おう!」
(もう1度会おうか。
今会ってるのに)
角田信朗は心の中でツッコんだ。
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