堀越高校に入学、南田洋子のプロダクション所属に
-試練となった中学生活を経て、高校は芸能人が多いことで知られる堀越に進学しました。
芸能活動を開始したものの…
堀越に入学して芸能科に進みました。名前の通りで、周りは芸能人ばかり(笑
仕事で学校を休むことが許されている学校だったんです。
私もお昼の連ドラに出させていただいたりしましたが、当時「叔母の七光り」的な視線が辛かったんですよね。例えば叔母と同じ楽屋だったりとか…。
歌も演技も一通りの勉強はしましたよ。歌のレッスンは長く続けましたし、演技などは南田洋子宅の地下に部屋があって、きちんと台詞を覚えるまではそこから出してもらえなかったんですよ(笑
けれども自分で「これでいこう」と思えるようにはならず、次第に学校もサボって渋谷で遊ぶようになってしまいましたね。
渋谷のチーマーに一目置かれる存在に
当時は渋谷、新宿あたりではわりと顔が利いてましたね。街を闊歩するチーマーたちが挨拶してくるような感じ。
ケンカもしましたけど私の場合は弱いものイジメは絶対なし、年下もなし。歯向かうのは偉そうに威張っている人か年上だけってルールで。
とくに意識して体を鍛えていたわけではないという山田さん。その強さは天性のモノだったのかもしれません。
ただしご本人曰く、当時から「とにかく負けん気が強かった!」そうです。
ただしご本人曰く、当時から「とにかく負けん気が強かった!」そうです。
20歳、ついに訪れたアームレスリングとの出会い!
ー渋谷、新宿でよく遊んだ10代を経て20歳の時にアームレスリングと出会いました。
20歳の頃、飲み屋で働いていたんですね。
あるとき、タンクトップで見るからにマッチョな「いい体」した男性が飲みに来まして、話しかけたらアームレスリングの世界チャンピオンになったお祝いで飲んでるんだって言ったんです。
そこで思わず「女子の部もあるの?」って尋ねたのがアームレスリングとの出会いです(笑。
ナント半年後には世界2位に!
そこからが凄いのです。
ナント2か月後に東京都大会に初出場して女子の部2位。
その2か月後、今度は全日本の大会に出場して女子の部2位。
さらにその2か月後には世界大会に出場して女子の部2位。
アームレスリングを知ってから半年後には、世界の2位になってしまいました!
ナント2か月後に東京都大会に初出場して女子の部2位。
その2か月後、今度は全日本の大会に出場して女子の部2位。
さらにその2か月後には世界大会に出場して女子の部2位。
アームレスリングを知ってから半年後には、世界の2位になってしまいました!
はい、正直こんなもんかって思っちゃいました。
でも1年後、練習せずに臨んだ全日本大会では4位になってしまったんです。
そしてそこからは練習し始めましたね。すると翌年は全日本1位、そこからは13連覇しました。
ー13連覇!2005年には世界王者にも君臨!!堀越へ進んだ芸能界への道から、いつしかアームレスリング界のトップに立たれることとなりました。
※アームレスリングのルール(Wikipediaより)※
左右の腕ともに、重量別のクラスに分けて試合を行う。
審判は主審、副審の2名。
競技台の前に立ち、互いに一礼し、試合を行わない方の手でグリップバーを握る。
競技開始前は自分の胸が相手に対し正面を向くように構える。
競技開始前は手首を曲げず、手の甲から前腕が水平状態になるように組む。
相手と組んだ状態で、親指の第一関節が隠れてはいけない。
お互いに、組んだ手から、拳一つ分顔から離す
上記のセットアップが長時間が決まらない場合、審判主導のもとセットアップが行われる。
お互いの組手が公平と判断された場合、審判員が「ストップ」の声をかける。ストップの声が掛かった時点で競技者は組手を動かす事が出来ない。
競技は審判の「ゴー」で開始し、「ストップ」「ウィナー」の声で終了する。
相手方の手の甲を競技台のタッチパッドにつける、もしくはタッチパッドより下げた方を勝者とする。時間に制限はない。
競技中に、組手がスリップして外れた場合、審判主導のもとストラップという帯でお互いの手を組んだ状態で固定し、再び試合を行う。
競技にはファールを設け、ファールを2回受けた競技者は負けとみなす。
格闘家、プロレスラーとしての活躍
ーかつて近くにあった芸能界ですが、アームレスラーとしての道を歩み始めた後に接点はありましたか?
洋子おばちゃんとも話して私はこの道で行くと。
芸能界での見せ方も女子アームレスラーとして、例えば2005年の世界チャンプ戴冠後にはTBSの女性版サスケ「KUNOICHI」に出場したりといった関わり方ですね。
同期にはTOKIO松岡、一学年下には松たか子、もう一学年下には浜崎あゆみなど、ホントに芸能を志す人がたくさんいる環境だったそうです。