松坂大輔 平成の怪物! 絶対的エース!! 超大型国際的給料泥棒? 数々のメジャータイトル&記録+カムバック賞
2020年5月25日 更新

松坂大輔 平成の怪物! 絶対的エース!! 超大型国際的給料泥棒? 数々のメジャータイトル&記録+カムバック賞

甲子園春夏優勝、パリーグ優勝、日本シリーズ優勝、ワールドシリーズ優勝、ワールドベースボールクラシックWBC優勝、アテネオリンピックの銅メダル、沢村賞、 新人王、 最多勝、最多奪三振、最優秀防御率、ベストナイン、ゴールデングラブ、 オールスターMVP、 そしてカムバック賞

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ボストン・レッドソックス( Boston Red Sox)の本拠地はマサチューセッツ州ボストンにあるフェンウェイ・パークで、東地区所属。
アメリカン・リーグ創設時から存在する古豪で本拠地を移したことが1度もない。
リーグ優勝14回、ワールドシリーズ制覇9回。
長打力を重視するビッグボール派チーム。
レッドソックスは全米一熱狂的なファンを持つといわれ、同じアメリカン・リーグ東地区のニューヨーク・ヤンキースとは深い因縁がある。
ベーブ・ルースはレッドソックスに入団し、投手として18勝、打者として打率.314、4本塁打という活躍でチームのワールドシリーズ制覇に貢献した。
翌年も23勝、防御率1.75で最優秀防御率を獲得し、チームもワールドシリーズ2連覇。
1918年、打者に専念するようになり11本塁打、翌年は、29本塁打を放った。
しかし1920年1月3日、経営難にあえいでいたレッドソックスは、12万5千ドルと30万ドル以上の負債の肩代わりをすることを条件にベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースにトレード。
その他の有力選手も次々と金銭と引き換えに放出し、主にヤンキースが買い取った。
当時のヤンキースは弱小球団だったが、ベーブ・ルースの移籍後、11回のリーグ優勝、8回のワールドシリーズ優勝に輝いた。
それに反比例するようにレッドソックスは6年連続最下位など、優勝から大きく遠のき、「バンビーノ(ベーブ・ルースの愛称)の呪い」と呼ばれた。
以来、レッドソックスファンはヤンキースに強い敵対心をもつようになったが、呪いは続いた。
ベーブ・ルース移籍後84年間で、ヤンキースはワールドシリーズに39回進出し26回優勝、対するレッドソックスは、4度、アメリカンリーグを制覇するもワールドチャンピオンにはなれなかった。
この間、ファンも呪いを解くために努力した。
エベレストの頂上にレッドソックスの帽子を置き、ヤンキースのキャンプでヤンキースの帽子を焼き、悪魔祓いに雇いホームスタジアム:フェンウェイ・パークを浄化したり、ベーブ・ルースがが所有していたピアノを探し出し、彼の所有する農場の近くの池に落としたりした
2004年、アメリカンリーグチャンピオンシップシリーズでレッドソックスは因縁のライバルであるヤンキースと対戦。
レッドソックスはホームゲームの第3試合で19対8で大負けするなど3連敗し王手をかけられた。
第4試合、4対3で9回裏を迎えたレッドソックスは、ケビン・ミラーのフォアボールで出塁。
代走のデーブ・ロバーツが盗塁。
さらにビル・ミラーがタイムリーヒットを放ち同点に追いついた。
そして延長12回、デビッド・オルティーズがサヨナラツーランホームランを放った。
その後の3試合も勝ち、リーグ優勝を果たした。
ワールドシリーズでもセントルイス・カージナルスに4連勝し86年ぶりのワールドチャンピオンの座に輝いた。
こうして呪いは解かれた。
2006年、レッドソックスは、前半を貯金20で折り返したが、8月にヤンキースに首位を奪われ、本拠地での直接対決5連戦に全敗して脱落し、終盤にはトロント・ブルージェイズにも抜かれて3位。
オフに入るとポスティングシステムを利用して松坂大輔に対して、大投手サイ・ヤングの通算勝利数511に因み、5,111万1,111ドル11セントを提示し、独占交渉権を獲得した。
2007年、レッドソックスは、ポスティングフィーとして西武に約5111万ドルを払い、松坂大輔と5200万ドル、6年間で契約合意。
メジャーで1球も投げていない投手に対し1億ドル以上を費やした。
1億ドルの約半分は西武ライオンズがもらい、6年契約なので1億ドルの半分の、さらに1/6が松坂大輔のl年棒となった。

いきなりワールドシリーズ勝利

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こうして華々しく移籍した松坂大輔は、2007年4月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初先発。
7回を6安打1失点10奪三振の好投でメジャーデビューを勝利で飾った。
数日後のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対戦。
4打数無安打に抑えた。
直後のニューヨーク・ヤンキース戦でも松井秀喜との初対戦し、2打数無安打に抑えた。
5月には、トロント・ブルージェイズ戦では大家友和と投げ合い、7回を5安打1失点8奪三振の好投で4勝目を上げ、デトロイト・タイガース戦では9回6安打1失点で初完投勝利。
8月4日には日米通算1500奪三振を達成。
シーズン最後の登板となった9月28日のミネソタ・ツインズ戦で、日本人選手史上初、メジャー史上5人目となるメジャー1年目での15勝と200奪三振。
チームも12年ぶりの地区優勝を決めた。
クリーブランド・インディアンスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し4回2/3を4失点で敗戦投手となったが、第7戦では5回2失点で日本人初のポストシーズン勝利投手となった。
コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズ第3戦で、日本人初のワールドシリーズ先発を果たし、5回1/3を2失点、またメジャー移籍後初安打となる2点適時安打で日本人初のワールドシリーズ勝利投手。
チームは翌日の第4戦も勝利してワールドシリーズ優勝を果たした。

2007 World Series 松坂 ワールドシリーズ先発勝利投手

2007年シーズン、レッドソックスは、松坂大輔の加入に加え、移籍2年目のジョシュ・ベケットが20勝。
この2人にベテランのティム・ウェイクフィールドとカート・シリングを合わせ、4人だけで61勝。
チームも96勝でヤンキースの地区10連覇を阻止しワールドシリーズでもロッキーズをスウィープして3年ぶりの世界一に輝いた。
松坂大輔は、シーズン通算、15勝(リーグ10位)、201奪三振(リーグ6位)を記録した反面、12敗、防御率4.40、与四球率はリーグワースト6位、1試合の平均球数はメジャー最多の108.8球だった。
15勝、200奪三振、200イニングと大台はクリアしていたが、いつ崩れるかわからない安定感のなさにボストンのファンはシーズンを通して気をもみ続けた。
松坂大輔本人は、アメリカの環境や考え方の違いに苦しんでいだ。
まずボールが違った。
アメリカのボールは日本のボールより窪みが少なくつかみにくく滑りやすかった。
そのため得意のスライダーが抜けてしまって変化しないことが多かった。
またマウンドの硬さにも苦しんだ。
日本のマウンドは土の目が細かくかたまりにくく、投手が前方に踏み込んだ足がすべるように崩れるため、脚にかかる体重を逃がすことができる。
しかしアメリカのマウンドは固まりやすい粘土質の土でできていて、前方に下ろした足がほとんど動かず、体重をモロに受け止めることになる。
そのため股関節が痛み、投球のフォームや身体バランスが崩れた。
またアメリカではピッチングコーチがカウンターを持ち、投球数を厳しく管理するため、日本では数を投げることでフォームを固めてきた松坂大輔だったが、それが許されなかった。
「1年目はなんでもかんでもコーチのいわれたとおりにやっていたんですけど、いつも違和感を覚えながら、なんか違うなあと思ってやってました」
「シーズンを通して満足できる球が投げられなくて、それが1番キツかったですね。
ストレートも使い物にならない。
スライダーもそうですね」
「屈辱の1年だったと思いますね。
成績もそうですし自分のやりたいことが全然できないまま1年が終わってしまった」

アメリカでみせた日本男児っぷり

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2008年2月、ボストン・レッドソックスはキャンプ地:フロリダ州フォートマイヤーズで始動した。
大リーグ2年目の松坂大輔はフォームを一からつくりはじめた。
左足を上げたところで1度止める-という基本的な練習を繰り返した。
全体練習が終わった後も一人で走った。
下半身は強化され太くなった。
硬いマウンドにも慣れ、投球時、ボールをリリースする瞬間の腰の位置が前年に比べ低くなっていた。
左足は大きく踏み込まれ、膝は大きく曲がり、股関節は大きく拡がっていた。
投球のパワーの80~90%は下半身にあるといわれる。
脚によって重心が上から下へ落下する力、重心を後ろから前へ水平移動させる力がつくられるが、それをいかに大きく、いかにロスなくスムースに使えるかどうかがカギとなる。
そしてこうして下半身でつくられたパワーが上半身に伝わり、さらに肩-腕-手-指と伝達しボールが放たれる。
2月下旬、オープン戦が始まりキャンプで取り組んだフォームを実戦で試した。
そして登坂を終えるとすぐにブルペンに入って投げ込んだ。
試合中はブルペンにピッチングコーチがいないため、投球数制限を気にせず投げることができた。
「今年は違う姿をみせなければいけないと思っていましたし、もうしっかり自分を突き通そうと思っていました」
3月25日、東京ドームで行われたオークランド・アスレチックスとの開幕戦に登板し、5回2安打2失点6奪三振5四球。
4月1日、アメリカでの開幕戦となったのアスレチックス戦で初勝利。
その後、5月まで8連勝した。
松坂大輔の投球は安定し、ストレートは勢いがありスライダーはキレた。
「僕自身の基本的な組み立てというのは、ストレートとスライダー。
スライダーでいろいろできれば本来の自分のピッチングができるんじゃないかと・・・」
5月、フォアボールが増え始める。
制球が不安定になった原因はボールだった。
ただでさえ滑りやすいボールは、気候や気温によって握る感触が変わった。
日本とアメリカのボールのわずかな違いが、指先のデリケートな感覚が勝負となるピッチャーにとってはキャリアを左右するほど大きな差となる。
「感覚を自分のものにしたい」
と松坂大輔はボールを離さなかった。
ランニングもボールを持って走り、暇があれば壁にぶつけ、部屋でも寝たまま天井に投げたりした。
こうして松坂大輔は苦しみながら1つ1つ克服し結果を出していった。
「自分自身の思っている本来の姿にはまだもうちょっと届いていないなっていう感じですかね。
やはり自分が求めている形っていうものがありますし、そこに行き着くまでは常に試行錯誤を繰り返しながらやっていくんだと思います」
5月27日、マリナーズ戦。
イチローとの対決は第1打席、ストレートをたたかれ三塁線にヒット。
第2打席もセンター前ヒット。
そして3度目の勝負を前に松坂大輔は降板した。
5回裏開始直前、松坂大輔は投球練習を、イチローは打席に入る準備をしていた。
松坂大輔は3球目を投げた後、首を振り
「少し右肩が張っている」
と自ら交代を申し出た。
実際に違和感があったのは肩ではなく腰だった。
それは深刻なものではなかったが、後々のことを考えての建設的な判断だった。
3回裏、ヒットで出たイチローが盗塁を決め、1アウト2塁となり、松坂大輔はバッターにファーストゴロを打たせた。
レッドソックスのファーストはマイナーから上がってきたばかりの選手で、ゴロをさばいてベースカバーに入った松坂大輔に投げた。
しかしボールがそれ、松坂大輔は真横に跳んでキャッチし、そのまま腰から落下した。
衝撃で腰に違和感を感じたが続投した。
腰に違和感があるというとマイナーから上がってきたばかりのファーストが責められてしまうかもしれない。
そう思って、つい「肩が」といった。
松坂大輔にはそうい侠気があった。
他人をかばって損をしても、何事もなかったように笑う。
個人主義、自分第一主義のアメリカで、自分のことを後にする松坂大輔の行動は、東洋の神秘であり理解困難なものだった。
こうした考え方の相違は様々な場面で松坂大輔にとってみえない壁となった。
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「大丈夫だから」
懸命に説明する松坂大輔をレッドソックスはチームから離脱させ、わざわざ飛行機でボストンに送り返しMRI検査を受けさせた。
そして『軽い疲労、異常なし』の診断が下った。
松坂大輔は
(登坂を1回飛ばす程度で大丈夫だろう)
と思っていたが、球団は彼を故障者リストに入れた。
期間は15日間で、1週間は投球禁止にした。
「ちょっと待ってよと思いました。
しかも1週間ノースローといわれて、そんなことしたら、また肩をつくるのに時間がかかっちゃうよと思いました」
アメリカではピッチャーの肩を砂時計に例え、投げる度に砂が少なくなっていくと考える。
そして砂を元に戻すのは無理だから、できるだけ減るのを防ごうとする。
しかしピッチャーは長い時間かけて投げ込んで肩をつくりあげ、投げ続けなければ維持できない。
許されたのはグラウンドを走ることだけだった。
よいピッチングのきっかけをつかみかけていた松坂大輔はその感覚を失うことが強かった。
「投げられないですから・・・
ピッチャーじゃないですよね。
ちょっとでも自分の状態がいいことをアピールして早くボールを投げる許可を出してもらいたいと思っていました。
自分では投げられると思っているので、家の地下の駐車場で投げようかとも思いましたね」
初めて経験するボールを投げられない日々に、松坂大輔は人体やトレーニングに関する本を買い込み読み始めた。
6月21日、25日後復帰し登板したが、初回から連打を浴び、7点を失い2回途中で交代した。
肩の筋肉が緩み、軽くなりすぎておさえがきかなくなっていた。
翌日
「肩の状態を戻したい」
と登坂翌日としては異例の40分間の遠投を行った。
これまで以上に自分の体を管理し始めた。
電気治療も取り入れマッサージの回数も増やした。
「自分の体は自分で守らないと。
周りは助けてくれないし自分で上げていくしかない」
「自分の感覚は大事にしています。
肩や肘に手を当てて大丈夫か?って話しかけています。
話しかけて自分の感覚で「大丈夫」とか「少し回復かな」とか」
6日後の復帰2戦目では5回2安打に抑え、36日ぶりの白星を上げた。
やがて夏になると疲労との戦いも始まった。
昨年は、シーズン前半は18試合に先発し10勝6敗、防御率3.84で折り返したものの、後半は14試合に先発し5勝6敗、防御率5.19と負け越した。
疲れが原因と考えられた。
大リーグは年間162試合で、試合後、深夜に長距離移動を行うこともあった。
そんな中で松坂大輔は、基本的に1回投げて4日休むというローテーションを続けた。
試合で投げた次の日は完全に休み、2日目からブルパンに入るが、ここで昨年は100球以上投げることもあった。
しかしこの年から数十球にまとめ、1球、1級、バッターをイメージして投げ、数から質重視に切り替えた。
「納得するまで投げないと不安な部分があったんですけど、コースが甘くても勢いがあるボールだったら、まあファウルはとれているだろうな、球に勢いがなくても、あのコースに決まっていれば打ちとれているだろうなと思って投げ込みを終えるようになりました」
7月22日、マリナーズを無得点に抑えていたが、8回にイチローに2塁打を打たれて完封を逃した。
9月15日、タンパベイ・レイズ戦で、松坂大輔は5回101球1失点。
野茂英雄の持つ大リーグでの日本人投手最多勝利数を更新した。
「数字上で超えただけで野茂さんを超えたことにはなりません。
ほんとの意味でいつか野茂さんを超えられるようにがんばっていきたいと思います」
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10月10日、レッドソックスはタンパベイ・レイズとのリーグ優勝決定戦に進んだ。
4勝したほうがワールドシリーズに進出する。
松坂大輔は第1戦を任された。
6回までランナーを許したのはフォアボール1つだけだった。
しかし1点リードで迎えた7回、先頭打者から連続ヒットを打たれノーアウト1、3塁のピンチ。
ここで味方はダブルプレー狙いの中間守備体勢をとった。
3塁ランナーが返って同点にされても確実にアウトカウントを増やしたいという判断だった。
これをみて松坂大輔の心に火がついた。
「1点はあげるという守備位置だったんですけど、絶対に点をやりたくないと思っていました」
1球目、左打席に入ったバッターが思わず腰を引くほど厳しいストレートを内角に突いた。
2球目、スライダーで空振り。
3球目、浅い外野フライ。
2人目のバッターは低めの変化球で空振り三振。
3人目はショートゴロ。
「バンッ!!」
松坂大輔は右手でグローブを叩いてからベンチに向かって歩き出した。
こうして8回途中まで投げ、無失点に抑えて交代。
レッドソックスは2対0で勝利した。
10月16日、リーグ優勝決定戦第5戦。
レッドソックスは初戦では勝ったが、その後3連敗。
期待がかかる松坂大輔の右肩は、今シーズン32試合目。
これまで投げてきた球は3100球を超えていた。
肉体は疲れているはずだったが、気持ちが入ったボールに球威やキレに衰えはなかった。
この試合、松坂大輔は5回で降板したが、レッドソックスは逆転勝ちで優勝に望みをつないだ。
10月19日、リーグ優勝決定戦第7戦。
5回を終えてタンパベイ・レイズが1点リードしていた。
レッドソックスの守護神:ジョナサン・パペルボンは疲労が激しく、ファレルコーチは抑え投手を誰にするか迷っていた。
そして3日前に投げたばかりの松坂大輔に準備を命じた。
9回表、松坂大輔は出番を待っていたが、レッドソックスは3対1で敗れてしまった。
こうして松坂大輔の大リーグ2年目は終わった。
18勝(リーグ4位)3敗
勝率.857(リーグ2位)
防御率2.90(リーグ3位)、
被打率.211(リーグ1位)
与四球94(リーグワースト)
15度の満塁のピンチでは押し出しと犠牲フライはあったが、すべて無安打で抑えた。
制球に苦しみランナーを出すが点は与えない。
そしてチームに勝利をもたらす。
そんなピッチングだった。
しかし地元紙は厳しかった。
「Daisuke Matsuzaka delivered the most aggravating 18-3 season one could imagine, averaging just over five innings per start in a masterful managerial performance by Francona.
(松坂大輔は想像できる限り最も腹立たしい18勝3敗のシーズンを送った。
1先発平均5イニング強で18勝を達成できたのはフランコ―ナ監督の素晴らしい手腕によるものだ)」
29試合に先発し、167.2イニングしか投げておらず、1試合あたりの投球回は5.79と6イニング以下。
QS(クオリティスタート、先発投手が6イニング以上投げ、かつ3自責点以内に抑えたときに記録される)率は48%。
1イニングあたりの投球数はリーグワースト2位。
「救援陣に負担をかけすぎる」
「野手やリリーフのおかげ」
という声ももっともだった。
シーズン終了後にMLB公式ホームページで行われた最優秀先発投手賞のファン投票では4位。
評価は二分した。
「いいボールを投げられるようにしたい。
いいボールが投げられなくても勝てるピッチャーでいなければならない」
(松坂大輔)

2度目のWBC、2大会連続MVP

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2009年3月7日、大リーグの開幕前に第2回WBCの日本代表に選出され、第1ラウンドA組第2戦の韓国戦に先発。
初回に2点本塁打を浴びたものの、以降は立ち直り4回2失点
打線の援護もあって勝利投手となった。
3月15日、第2ラウンド1組第1戦のキューバ戦で6回無失点。
3月22日、準決勝のアメリカ戦を4回2失点。
3月23日、日本代表は韓国を破って優勝。
松坂大輔は2大会連続で最優秀選手に選ばれた。

日本の期待にもレッドソックスの期待にも応えよう

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大リーグ3年目はシーズン開幕後2試合連続で打ち込まれた。
4月15日、右肩の疲労で故障者リスト入り。
6月2日に復帰。
デトロイト・タイガース戦で初勝利。
6月19日、アトランタ・ブレーブス戦で川上憲伸と投げ合い、4回8安打6失点で黒星。
6月21日、再び故障者リスト入り。
9月に復帰以降、3勝1敗、防御率2.22と復調したが、最終的に12先発で4勝6敗、防御率5.76と低迷。
日本の期待にもレッドソックスの期待にも応えようと頑張った結果だったが、シーズン終了後の記者会見で、WBCの前から股関節を痛めていたことを告白し謝罪した。
他の先発投手はそこそこの成績を残したので、松坂大輔がフルシーズン投げられていればチームは違った結果になったかもしれない。
同じく防御率5.61と低迷したブラッド・ペニー、8.33のジョン・スモルツ、7.46の田沢純一、9.82のマイケル・ボウデンらと共に戦犯として名前をあげられ
「おそらくレッドソックスは昔懐かしい4人ローテを組むべきだったのだろう」
「過去10年間で最も忘れたいプレーオフチーム」
と非難された。
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