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斉藤仁が日本代表監督に就任にすると嫁、三恵子は、次男の出産もあり、実家のある大阪の平野区に移り、斉藤仁は1人暮らしとなった。
このとき長男の一郎は幼稚園。
次男の立(たつる)は、大阪で生まれた。
兄弟にとって斉藤仁は優しい父親だった。
食事のときはうるさいくらいしゃべり続け、
「ハワイに行きたい」
といえば連れて行ってくれるし
「お小遣い頂戴」
といえばお札をくれる。
「遊ぶときは思い切り遊べ」
といってスキーやスケートを教えてくれるし、プールに行くと水の中で100kg以上の巨体を一本背負いで投げさせてくれた。
このとき長男の一郎は幼稚園。
次男の立(たつる)は、大阪で生まれた。
兄弟にとって斉藤仁は優しい父親だった。
食事のときはうるさいくらいしゃべり続け、
「ハワイに行きたい」
といえば連れて行ってくれるし
「お小遣い頂戴」
といえばお札をくれる。
「遊ぶときは思い切り遊べ」
といってスキーやスケートを教えてくれるし、プールに行くと水の中で100kg以上の巨体を一本背負いで投げさせてくれた。
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しかし小学生になって2人が大阪の町道場で柔道を始めると父親はガラッと変わった。
兄弟は
(鬼だ!)
(多重人格者か?)
と思った。
大阪の家の和室に柔道用の畳が敷き詰められた。
東京から斉藤仁が来ると
「ちょっと来い。
教えたるわ」
といって地獄が始まる。
投げ込みは床が抜けるのでできないが、打ち込みを徹底的に反復。
足が踏み込む位置が1cmでもズレたら
「やり直し」
なかなかできないと
「なんでできねんだよ!
もう1回やってみろ!」
とヒートアップし、声だけでなく手も飛んだ。
斉藤仁は町道場の練習にも顔を出し、兄弟に打ち込みをさせ、できないとみんなの前で
「やめちまえ」
と怒鳴った。
(なんて理不尽なんだ)
兄弟は思った。
兄弟は
(鬼だ!)
(多重人格者か?)
と思った。
大阪の家の和室に柔道用の畳が敷き詰められた。
東京から斉藤仁が来ると
「ちょっと来い。
教えたるわ」
といって地獄が始まる。
投げ込みは床が抜けるのでできないが、打ち込みを徹底的に反復。
足が踏み込む位置が1cmでもズレたら
「やり直し」
なかなかできないと
「なんでできねんだよ!
もう1回やってみろ!」
とヒートアップし、声だけでなく手も飛んだ。
斉藤仁は町道場の練習にも顔を出し、兄弟に打ち込みをさせ、できないとみんなの前で
「やめちまえ」
と怒鳴った。
(なんて理不尽なんだ)
兄弟は思った。
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兄弟は、父親がいると家でも気を緩めることができなくなった。
あるとき母親のいうことを聞かない兄弟に斉藤仁が立腹。
「頬っぺたを出せ」
といって手をあげると長男、一郎は目をつむった。
「なに逃げてる!
いわれたら潔く頬を出せ!」
と何度もビンタ。
それをみていた次男、立は、自分の番になると自ら顔を差し出した。
「おっ」
斉藤仁は少し驚き
「それでいいんだ」
と笑った。
長男はセーフになった弟に少し腹が立った。
「次はいつ帰ってくるんだ?」
かつてあんなに楽しみだった父親の帰宅はないほうがよくなった。
父が帰ってくる日は朝から憂鬱で、
「頼むから夜遅くに帰ってきてくれ」
と祈り、学校から帰ってきて玄関に大きな靴があると泣きそうになった。
あるとき母親のいうことを聞かない兄弟に斉藤仁が立腹。
「頬っぺたを出せ」
といって手をあげると長男、一郎は目をつむった。
「なに逃げてる!
いわれたら潔く頬を出せ!」
と何度もビンタ。
それをみていた次男、立は、自分の番になると自ら顔を差し出した。
「おっ」
斉藤仁は少し驚き
「それでいいんだ」
と笑った。
長男はセーフになった弟に少し腹が立った。
「次はいつ帰ってくるんだ?」
かつてあんなに楽しみだった父親の帰宅はないほうがよくなった。
父が帰ってくる日は朝から憂鬱で、
「頼むから夜遅くに帰ってきてくれ」
と祈り、学校から帰ってきて玄関に大きな靴があると泣きそうになった。
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東京の家に遊びに行っても、国士舘の道場に連れて行かれ
「コイツらボコボコにしていいから」
といわれ、大学生に投げられ続けて泣き出すと
「これが柔道だ!」
と鬼の形相でいわれた。
小学生の兄弟は
(普通、東京に遊びにきたらディズニーランドやろ!)
と思っていた。
しかし彼らは斉藤仁の唯一の弱点を知っていた。
それはあるとき大阪の家で練習しているとき、1度ヒートアップすると抑えられない斉藤仁は、嫁に
「もうやめて」
といわれても兄弟に怒り続けていた。
しかしそのとき近くに住んでいる嫁の母親がやって来ると一変、ニコニコ顔になって優しくなった。
「いい人と思われたがってる」
と見抜いた斉藤三恵子は、以後、何かあると実家に
「ちょっと来て」
と電話するようになった。
「コイツらボコボコにしていいから」
といわれ、大学生に投げられ続けて泣き出すと
「これが柔道だ!」
と鬼の形相でいわれた。
小学生の兄弟は
(普通、東京に遊びにきたらディズニーランドやろ!)
と思っていた。
しかし彼らは斉藤仁の唯一の弱点を知っていた。
それはあるとき大阪の家で練習しているとき、1度ヒートアップすると抑えられない斉藤仁は、嫁に
「もうやめて」
といわれても兄弟に怒り続けていた。
しかしそのとき近くに住んでいる嫁の母親がやって来ると一変、ニコニコ顔になって優しくなった。
「いい人と思われたがってる」
と見抜いた斉藤三恵子は、以後、何かあると実家に
「ちょっと来て」
と電話するようになった。
平成15年全日本柔道選手権 井上康生×鈴木桂治 スペシャル解説予告編
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2003年春、全日本体重別選手権100kg級の決勝で鈴木桂治が井上康生を決勝で破って優勝し、2連覇。
直後、全日本選手権(無差別)の決勝で井上康生は鈴木桂治に内股で豪快に1本勝ちし、3連覇。
秋の世界選手権の100kg級の代表に井上康生が選ばれると、納得できない鈴木桂治はメディアの取材に不満を漏らした。
すると斉藤仁から電話がかかってきて
「文句があるなら来年の全日本で勝て!」
と怒られた。
その後、世界選手権で、井上康生が100kgで、棟田康幸が100kg超級で、鈴木桂治が無差別級で優勝。
日本柔道の重量級を牽引する3人が金メダルを獲得。
しかし翌年のオリンピックでは、無差別級がないため、重量級で日本代表になれるのは2人だけだった。
直後、全日本選手権(無差別)の決勝で井上康生は鈴木桂治に内股で豪快に1本勝ちし、3連覇。
秋の世界選手権の100kg級の代表に井上康生が選ばれると、納得できない鈴木桂治はメディアの取材に不満を漏らした。
すると斉藤仁から電話がかかってきて
「文句があるなら来年の全日本で勝て!」
と怒られた。
その後、世界選手権で、井上康生が100kgで、棟田康幸が100kg超級で、鈴木桂治が無差別級で優勝。
日本柔道の重量級を牽引する3人が金メダルを獲得。
しかし翌年のオリンピックでは、無差別級がないため、重量級で日本代表になれるのは2人だけだった。
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2003年、大阪で世界選手権が行われた。
この大会はNHKではなくフジテレビが放送。
メインキャスター、藤原紀香、加藤晴彦。
MC、三宅正治。
コメンテーター、吉田秀彦。
実況、長坂哲夫、佐野瑞樹、森昭一郎、竹下陽平、西岡孝洋。
応援ソングはくずの「全てが僕の力になる」
そして秋山成勲が銀色、矢嵜雄大が赤色に髪を染めて出場し、話題となった。
矢嵜雄大は
「自分が最も力を出せる色。
柔道界の古い体質に一石を投じる意味もある」
とその理由を述べた。
その後、全柔連は日本代表としてふさわしい品位、身だしなみを求めるガイドラインが作成。
「身だしなみ(服装、髪形・髪の色等)を整え、品位を保ち、礼法においても代表の地位を汚さないよう範を示すものでなければならない」
と通達を出した。
この大会はNHKではなくフジテレビが放送。
メインキャスター、藤原紀香、加藤晴彦。
MC、三宅正治。
コメンテーター、吉田秀彦。
実況、長坂哲夫、佐野瑞樹、森昭一郎、竹下陽平、西岡孝洋。
応援ソングはくずの「全てが僕の力になる」
そして秋山成勲が銀色、矢嵜雄大が赤色に髪を染めて出場し、話題となった。
矢嵜雄大は
「自分が最も力を出せる色。
柔道界の古い体質に一石を投じる意味もある」
とその理由を述べた。
その後、全柔連は日本代表としてふさわしい品位、身だしなみを求めるガイドラインが作成。
「身だしなみ(服装、髪形・髪の色等)を整え、品位を保ち、礼法においても代表の地位を汚さないよう範を示すものでなければならない」
と通達を出した。
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「髪の毛の問題は当時、柔道界に限らずサッカーや野球、いろんな競技でも問題になっていて、「柔道界も考え方が柔らかくなって進歩した」といわれる方もおられた。
ただ大阪の世界選手権頃からテレビで大々的に放送され、特別番組なんかも作られるようになって、それ自体は非常にありがたいことだけれども、選手がバラエティ番組なんかに出る機会も増えて、だんだん舞い上がっていったのも確かです。
大阪の世界選手権を大成功させるんだということで、選手・監督・コーチ、みんながひとつになって盛り上げてくれといわれてテレビに出演したりしたんだけれども、やっぱり1番は試合で勝たなきゃダメなんですよ。
世界選手権前の最終合宿が終わったとき、
『常識のある髪の色で、髪の形で来い。
決して自分たちの常識じゃないぞ』
という話を選手にしたんだけども、結局、ああいう奇抜なカラー、ヘアスタイルで大会に臨んだ選手がいた。
あのときは、我々の気持ちが伝わらなかったということと、選手の意識の低さがとても残念でしたね。
結局、坊主頭で挑んだ井上康生、鈴木桂治、棟田康幸が優勝して、批判されるような髪の色、髪型をした選手はみんな負けた。
その結果もあり、多くの人からいろんなクレームが寄せられ、ガイドラインを決めることにしたわけです。
現場の私も選手たちに
『髪の色を染めないと柔道ができないんだったら、もう柔道やめていいよ。
全日本から出ていってくれ』
といいましたが、それからは茶髪にする選手はいなくなりました。
コーチの中でも、個性を潰しちゃいけないんじゃないかとか、自分の意思表示なんだから、という意見もあったけど、ある意味、その当時の社会の風潮を象徴したできごとだったのかもしれないですね。
日の丸を背負うことの意義をちゃんと理解した選手が代表になっていると思いたいけど、髪の毛に関しても、「髪の色で日の丸がどうとかって関係あるんですか」と言ってくる。やっぱり柔道選手に限らず、人というのは成長すればするほど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざじゃないですけど、だんだん頭が下がってくる、謙虚になってくると思うんですね。
だからそういうことをいう選手というのはまだ十分に成長できていないというか、人間として不十分なんだろうなと。
ただそういう選手たちが普段の練習において手を抜いているかというと全然そうじゃない。
それどころかすごく一生懸命頑張っていた。
多分、テレビに出て注目されるようになって、本番に近づくにつれ緊張感も高まり、肩に力が入ってきて、それで髪の色や形に逃げるというか、そんなふうになっちゃったのかなとも思いますね」
(斉藤仁)
ただ大阪の世界選手権頃からテレビで大々的に放送され、特別番組なんかも作られるようになって、それ自体は非常にありがたいことだけれども、選手がバラエティ番組なんかに出る機会も増えて、だんだん舞い上がっていったのも確かです。
大阪の世界選手権を大成功させるんだということで、選手・監督・コーチ、みんながひとつになって盛り上げてくれといわれてテレビに出演したりしたんだけれども、やっぱり1番は試合で勝たなきゃダメなんですよ。
世界選手権前の最終合宿が終わったとき、
『常識のある髪の色で、髪の形で来い。
決して自分たちの常識じゃないぞ』
という話を選手にしたんだけども、結局、ああいう奇抜なカラー、ヘアスタイルで大会に臨んだ選手がいた。
あのときは、我々の気持ちが伝わらなかったということと、選手の意識の低さがとても残念でしたね。
結局、坊主頭で挑んだ井上康生、鈴木桂治、棟田康幸が優勝して、批判されるような髪の色、髪型をした選手はみんな負けた。
その結果もあり、多くの人からいろんなクレームが寄せられ、ガイドラインを決めることにしたわけです。
現場の私も選手たちに
『髪の色を染めないと柔道ができないんだったら、もう柔道やめていいよ。
全日本から出ていってくれ』
といいましたが、それからは茶髪にする選手はいなくなりました。
コーチの中でも、個性を潰しちゃいけないんじゃないかとか、自分の意思表示なんだから、という意見もあったけど、ある意味、その当時の社会の風潮を象徴したできごとだったのかもしれないですね。
日の丸を背負うことの意義をちゃんと理解した選手が代表になっていると思いたいけど、髪の毛に関しても、「髪の色で日の丸がどうとかって関係あるんですか」と言ってくる。やっぱり柔道選手に限らず、人というのは成長すればするほど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざじゃないですけど、だんだん頭が下がってくる、謙虚になってくると思うんですね。
だからそういうことをいう選手というのはまだ十分に成長できていないというか、人間として不十分なんだろうなと。
ただそういう選手たちが普段の練習において手を抜いているかというと全然そうじゃない。
それどころかすごく一生懸命頑張っていた。
多分、テレビに出て注目されるようになって、本番に近づくにつれ緊張感も高まり、肩に力が入ってきて、それで髪の色や形に逃げるというか、そんなふうになっちゃったのかなとも思いますね」
(斉藤仁)
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柔道界のプリンス、絶対的エース、井上康生が放つキラキラな輝きのせいで、完全に影の存在となってしまっている鈴木桂治は燃えていた。
「たくさんの人に応援され、愛され、全てを味方につける井上康生に嫉妬していた。
その味方になってる人も倒したいと思っていた」
井上康生は鈴木桂治より3歳上で、山下泰裕が教える東海大学柔道部出身。
井上康生 vs 鈴木桂治のライバル関係は、山下康裕 vs 斉藤仁の代理戦争ともいわれた。
実際、斉藤仁は強烈なライバル心をむき出しにして鈴木桂治に、
「俺は山下さんに1度も勝てなかったからお前は勝たなきゃイカン」
と励ました。
2004年4月4日、全日本体重別選手権100kg級で鈴木桂治は準決勝敗退。
優勝は井上康生。
2004年4月29日、 全日本選手権(無差別)では、鈴木桂治が優勝。
2位は井上康生。
3位は棟田康幸。
2004年8月、アテネオリンピック100kg超級で鈴木桂治が金メダルを獲得
100kg級の井上康生は、準々決勝で背負い投げで1本負け。
敗者復活戦も3回戦で大内刈りを返され1本負け。
オリンピック2連覇の夢は叶わなかった。
「アテネでは 3つの金を獲ったんだけれども、最も金メダルに近いと言われた井上康生が獲れなかった。
あいつは組み合わせの関係で、決勝戦で優勝するまで白の柔道衣しか着ないということで、青の柔道衣を部屋に置いてきて持ってこなかったんですね。
やっぱり持っていくということは負けて敗者復活を意味するんだと。
勝負師、井上康生にとってそれは許されることじゃなかった。
「絶対に決勝まで上がれるという慢心があったんじゃないか」という人もいたけど、「退路を断って、自分を追い込む」、それが井上康生なんですよ。
その勝負師・井上康生を勝たせることができなかったことは監督として、無念というか非常に悔しかった」
(斉藤仁)
「たくさんの人に応援され、愛され、全てを味方につける井上康生に嫉妬していた。
その味方になってる人も倒したいと思っていた」
井上康生は鈴木桂治より3歳上で、山下泰裕が教える東海大学柔道部出身。
井上康生 vs 鈴木桂治のライバル関係は、山下康裕 vs 斉藤仁の代理戦争ともいわれた。
実際、斉藤仁は強烈なライバル心をむき出しにして鈴木桂治に、
「俺は山下さんに1度も勝てなかったからお前は勝たなきゃイカン」
と励ました。
2004年4月4日、全日本体重別選手権100kg級で鈴木桂治は準決勝敗退。
優勝は井上康生。
2004年4月29日、 全日本選手権(無差別)では、鈴木桂治が優勝。
2位は井上康生。
3位は棟田康幸。
2004年8月、アテネオリンピック100kg超級で鈴木桂治が金メダルを獲得
100kg級の井上康生は、準々決勝で背負い投げで1本負け。
敗者復活戦も3回戦で大内刈りを返され1本負け。
オリンピック2連覇の夢は叶わなかった。
「アテネでは 3つの金を獲ったんだけれども、最も金メダルに近いと言われた井上康生が獲れなかった。
あいつは組み合わせの関係で、決勝戦で優勝するまで白の柔道衣しか着ないということで、青の柔道衣を部屋に置いてきて持ってこなかったんですね。
やっぱり持っていくということは負けて敗者復活を意味するんだと。
勝負師、井上康生にとってそれは許されることじゃなかった。
「絶対に決勝まで上がれるという慢心があったんじゃないか」という人もいたけど、「退路を断って、自分を追い込む」、それが井上康生なんですよ。
その勝負師・井上康生を勝たせることができなかったことは監督として、無念というか非常に悔しかった」
(斉藤仁)
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2005年、石井慧が国士舘大学に進学。
大阪の名門、清風高校にいた石井慧は、高校1年生で大阪の予選を勝ち抜きインターハイに出場。
清風の道場で自分より強い人間がいなくなったことに
「強くなれない」
「人生がダメになる」
と焦り、国士舘高校に転校。
引き換えに1年間、公式試合出場停止となった。
(親の転勤など例外はあるが、転校から1年間は公式戦出場停止となる)
朝は5時に起きてランニングしてから、6時から朝練に参加。
授業で体を休ませ、道場には誰よりも早くいき、20時に全体練習が終わった後、深夜までウエイトトレーニング。
乱取りになると必ず1番強い人とやる石井慧は、国士館大学に出稽古にいけば鈴木桂治に向かってダッシュ。
講道館の強化合宿にいけばキョロキョロ見回して、井上康生を見つけた途端にダッシュ。
そして目の前で
「お願いします」
と頭を下げた。
それは相手が試合前でもおかまいなしだったので
「ケガさせたらどうするんだ」
と周囲に止められることもあった。
そして高3でインターハイ優勝、アジアジュニアと世界ジュニア選手権をオール1本勝ちで優勝。
講道館杯で前年チャンピオン、大学生の穴井降将に豪快な大外刈りで勝利した。
そんな練習マニアの石井慧も国士舘大学に入って斉藤仁の指導を受けると
「本当にキツい」
と恐れた。
大阪の名門、清風高校にいた石井慧は、高校1年生で大阪の予選を勝ち抜きインターハイに出場。
清風の道場で自分より強い人間がいなくなったことに
「強くなれない」
「人生がダメになる」
と焦り、国士舘高校に転校。
引き換えに1年間、公式試合出場停止となった。
(親の転勤など例外はあるが、転校から1年間は公式戦出場停止となる)
朝は5時に起きてランニングしてから、6時から朝練に参加。
授業で体を休ませ、道場には誰よりも早くいき、20時に全体練習が終わった後、深夜までウエイトトレーニング。
乱取りになると必ず1番強い人とやる石井慧は、国士館大学に出稽古にいけば鈴木桂治に向かってダッシュ。
講道館の強化合宿にいけばキョロキョロ見回して、井上康生を見つけた途端にダッシュ。
そして目の前で
「お願いします」
と頭を下げた。
それは相手が試合前でもおかまいなしだったので
「ケガさせたらどうするんだ」
と周囲に止められることもあった。
そして高3でインターハイ優勝、アジアジュニアと世界ジュニア選手権をオール1本勝ちで優勝。
講道館杯で前年チャンピオン、大学生の穴井降将に豪快な大外刈りで勝利した。
そんな練習マニアの石井慧も国士舘大学に入って斉藤仁の指導を受けると
「本当にキツい」
と恐れた。
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大学に入ると石井慧は、朝練2時間、16~19時までの合同練習、2時間のウエイトトレーニングが日課。
時間があれば警視庁や明治大学、片道2時間ほどかかる小川直也の小川道場へ出稽古。
そして日曜日は必ず休んだ。
「負けると思ったら負ける。
ダメだと思ったらダメになる。
勝てると思っている中に無理かもしれないという気持ちがあれば、絶対に無理になる。
すばしっこくて強い者だけが勝つのではない。
自分はできると信念を持っている人が勝つ。
世の中をみろ」
という国士舘大学の道場に張ってあったナポレオン・ヒル(アメリカの作家、成功哲学の第1人者)の言葉が書かれた紙をみて
「これは自分の言葉にするしかない」
と石井慧は自分の部屋に持っていったため、その後、道場で騒ぎが起こった。
時間があれば警視庁や明治大学、片道2時間ほどかかる小川直也の小川道場へ出稽古。
そして日曜日は必ず休んだ。
「負けると思ったら負ける。
ダメだと思ったらダメになる。
勝てると思っている中に無理かもしれないという気持ちがあれば、絶対に無理になる。
すばしっこくて強い者だけが勝つのではない。
自分はできると信念を持っている人が勝つ。
世の中をみろ」
という国士舘大学の道場に張ってあったナポレオン・ヒル(アメリカの作家、成功哲学の第1人者)の言葉が書かれた紙をみて
「これは自分の言葉にするしかない」
と石井慧は自分の部屋に持っていったため、その後、道場で騒ぎが起こった。