石井慧! オリンピック金メダル獲得後、石井節炸裂!!「屁のツッパリにもなりません」「ウツでも金」福田康夫首相は「すごい純粋さが伝わってきました。そして腹黒くないからこそ政治家として人気が出ない」
2024年7月21日 更新

石井慧! オリンピック金メダル獲得後、石井節炸裂!!「屁のツッパリにもなりません」「ウツでも金」福田康夫首相は「すごい純粋さが伝わってきました。そして腹黒くないからこそ政治家として人気が出ない」

山下泰裕が持っていた全日本選手権最年少優勝記録を破り、井上康生、鈴木桂治、棟田康幸とのライバルに競り勝って北京オリンピックに出場し、金メダル獲得。「屁のツッパリにもなりません」「すごい純粋さが伝わってきました。そして腹黒くないからこそ、政治家として人気が出ない」

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清風中学時代、石井慧は1年365日、1日も練習を休まなかった。
休んでいないことが自信となった。
年末年始は東京の国士舘高校や奈良の天理高校にいって出稽古を行った。
出稽古で気をつけていたのは
「1番強い人とやる」
ということ。
乱取りが始まったらすぐに1番強い人に向かってダッシュ。
前にいって
「お願いします」
と頭を下げた。
もし断られたり、その人とできなければ次に強い人へ。
とにかく強い人、上の人とやるようにした。
その結果、中学3年生のときに団体で全国優勝、個人戦でも3位となった。
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2002年、石井慧は清風高校へ進学。
清風高校柔道部にはOBである秋山成勲が練習に来ることがあった。
秋山成勲は、大阪府大阪市生野区生まれの在日韓国人4世。
3歳より柔道を始め、清風高校から近畿大学へ。
大学卒業後、韓国の市役所に勤務しながらオリンピック出場を目指したが、キョポ(自国外に住む同胞)への激しい差別を経験し、日本に戻って日本国籍を取得。
平成管財へ入社し、81kg級でオリンピック出場を目指していた。
(翌2003年に全日本体重別優勝、世界選手権で5位。
しかし2004年、全日本体重別準決勝で敗退してオリンピック代表を逃した後、総合格闘家へ転向)
石井慧は秋山成勲との乱取りで過呼吸になったが、
「過呼吸で死んだヤツはおらん」
といわれ続行。
「秋山先輩には技を教えていただいたことはないのですが、柔道に対する気持ち、心構えなどを教わりました。
とにかくどんな練習でも全力を注げ。
10本練習するとしたら10本全部できるようなペース配分ではなく、4本でバテてもいいから1本に100%の力を出せと」
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高校1年生の夏、石井慧は競争が激しい大阪の予選を勝ち抜き、インターハイに出場。
清風高校柔道部は強かったが、石井慧ほどマニアックに練習する人間はおらず、道場で自分より強い人間がいなくなった石井慧は、
「強くなれない」
「人生がダメになる」
と焦った。
周囲には中高一貫の清風を出てから強い大学へいけばという意見もあったが、石井慧は
「今いかないと意味がない」
とすぐに強い相手がいる環境を求めた。
父、義彦が転校先を探すと国士舘高校でスポーツ推薦で入学した生徒が退学し、欠員が出たことがわかった。
2003年1月1日、石井慧は国士舘高校へ転校。
初めて大阪の実家を離れ、東京都世田谷区にある国士舘高校の寮に引っ越し。
自分の部屋に小さな神棚を設置し、清風中学時代、大きな試合に勝ったときにもらった曼荼羅と校長室に飾ってあった仏像を飾った。
しかし
「神様を頼ってはいけない。
敬わないと意味がない」
といい、周りに理由を聞かれると
「敬うというのは神様をご供養するという気持ち。
お疲れ様という気持ち」
と説明した。

国士舘高校柔道部には強い先輩がいた上、ロサンゼルスとソウルオリンピックの金メダリスト、斉藤仁が指導する国士舘大学で練習する機会も多かった。
国士舘高校柔道部の練習は、基本的に6時から朝練と16~20時までの夜練。
石井慧は、国士舘高校の授業では寝て、夕方前にスイッチON。
誰よりも早く道場にいき、すさまじい気迫で練習し、指導者の話に熱心に耳を傾けた。
20時頃、練習が終わると寮に戻って食事をし、21時以降は外出禁止となるが、石井慧は
「21時から練習させてください」
と直訴。
国士舘高校柔道部監督、岩淵公一が
「休まなくては強くなれない。
食って寝て体ができるんだ」
といって休むように指示すると
「はい。
わかりました」
と返事しながら、次にコーチのところにいき
「21時から練習させてください」
こうして21時から道場横のトレーニングルームで行うウエイトトレーニングも日課となり。
「下半身を鍛える」
といって23時や24時にグラウンドを走ることもあった。
そして朝は5時に起きてランニングしてから、6時から朝練に参加。
授業で体を休ませ、道場には誰よりも早くいき、20時に全体練習が終わった後、21時から深夜までウエイトトレーニング。
こうして平日は誰よりも早く、誰よりも遅くまで練習し、日曜日は必ず休んだ。
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「国士舘高校は、そのとき事実上高校で1番強い学校だったので、練習に行ったときは周りに有名な選手がいることが凄いと思いました。
そこで練習するのが本当に楽しくて、柔道に夢中になっていました」
という石井慧だが、その引き換えに転校後1年間は試合に出ることができなかった。
(親の転勤など例外はあるが、転校から1年間は公式戦に出場停止。
理由は、学業優先。
勉強よりスポーツを優先することを善しとしないというのが表向きの理由だが、実際は強豪校による引き抜き対策といわれている)
試合に出られないことで精神的に不安定になり、頻繁に実家に電話。
ツラそうなそうな息子に母、美智子親が、
「帰っておいで」
というと
「そんなんできるわけないやろ」
と怒った。
あるとき国士舘高校の先輩、棚橋正典が、泣きながら携帯電話で親と話す石井慧を目撃。
奇妙だったのはもう片方の手にも携帯が握られ、2台の携帯を持って話していたこと。
後で
「なんで2台持っていたの」
と聞くと、
「1台は電話しながら投げるためです」
すぐにモノに当たってしまう石井慧は20台くらいの携帯を破壊してしまい、父、義彦、義彦に
「携帯に罪はないやろ」
と諭された。
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癒しを求める石井慧は、
「犬を飼いたい」
とミニチュアダックスフンドを購入。
マラソン選手のアベベ選手から
「べべちゃん」
と名づけ、ペット禁止の寮で飼い始めたが、すぐにバレて、大阪の実家にドナドナされた。
試合前、レギュラー選手はコンディショニングのため練習を流して行ったり、乱取りの相手はわざと投げられたりすることもあり、指導者もそれを黙認していた。
しかし石井慧はまったく手を抜かず、ケンカ腰で乱取り。
場外に出て壁にぶつかってもやめようとしなかった。
国士館大学に出稽古にいけば鈴木桂治に向かってダッシュ。
講道館の強化合宿にいけばキョロキョロ見回して、井上康生を見つけた途端にダッシュ。
そして目の前で
「お願いします」
と頭を下げた。
それは相手が試合前でもおかまいなしだったので
「ケガさせたらどうするんだ」
と周囲に止められることもあった。
国士舘高校の試合は、観覧席で制服を着て応援。
全国大会で優勝する部員もいて、不安で不安で仕方なく、かつそういった強い同級生や先輩に勝ちたくて仕方なかった。
「試合に出れず、置いてけぼりになったような気持ちになってチワワのようにビビッていました。
表向きは土佐犬のようにしてましたけど・・・」
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高校2年生の1月、公式試合出場停止処分が解けた石井慧は全国高校柔道選手権に出場。
試合10日前、ハムストリングスの靭帯が切れかかっていることが判明したが、
「ケガは病気じゃない」
と練習を継続。
それは
「病気のまま練習を続けると弱くなるがケガはそうではない」
という意味だったが、試合当日、個人戦を寝技を多用しながら勝ち進むも、世田谷学園高校の選手に負け、
「もうダメです。
自分はダメだ」
といって大泣き。
試合後、寮に帰っても泣き続けた。
翌日、団体戦の決勝戦で世田谷学園高校と対戦。
国士舘は先方から中堅まで抜かれたが、副将の石井慧は、4人を抜いて、大将戦を引き分け。
代表戦となって、国士舘は石井慧が出て優勢勝ちし、優勝。
春の選手権では、鬼気迫るような練習とトレーニングを繰り返し、試合3日前、
「俺は世界で1番強い」
といってはばからなかったが、2日前になると
「アカン、俺、負ける」
と弱気になり、試合前日、棚橋正典に
「先輩、寂しい。
一緒に寝て。
この部屋にいて励ましてください」
と頼んだ。
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試合出場停止中は情緒不安定で、たとえ夜中であろうと頻繁に実家に電話をかけていた石井慧。
電話がない日、両親は
「よかった」
と胸をなでおろしていたが、試合に出られるようになった途端、なしのつぶてとなり、逆に心配になってきた。
たまにしか行けない東京で母、美智子は、寮の部屋を掃除しようとしたが、きれい好きの石井慧によって整理整頓されていてあまりやることがない。
冷蔵庫に食べ物を入れていると、冷凍庫で自分が送った手紙の束を発見。
「なんでこんなとこ入れてるの?」
と聞くと
「大事なモンは冷凍庫やろ」
といわれた。
また母、美智子はベッドの下からノートを発見。
表紙に「苦しいとき」と書いてあり、中には
「試合に出れない悔しさを思い出せ」
など悔しかった出来事、格言、思ったなどがズラズラ書かれてあった。
石井慧のノートへの書き込みはずっと続き、まだ強化選手になれず自費で全日本の合宿に参加したとき、選ばれた選手しか飲み物が配られなかったときは、
「ポカリスエットをもらえなかった悔しさを忘れるな」
そんなセコい恨みツラみと共に、後に「石井節」といわれる自由奔放な発言も書かれてあり、石井慧にとって初心を忘れず、自分を奮起させる原動力になる大事なネタ帳だった。
また父、義彦は、
「お父、義彦さん、やろう」
と高校2年生の息子にいわれ、久しぶりの乱取りをして投げられまくった。
初めて負けて、
「昨日ビール飲み過ぎた」
といったが、これが最後の乱取りとなった。
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高校3年生になった石井慧は、インターハイ優勝、アジアジュニアと世界ジュニア選手権をオール1本勝ちで優勝。
そして講道館杯で前年チャンピオン、2歳上、天理大学の穴井降将と対戦した。
穴井降将は、天理高校1年生から団体戦のレギュラーとして活躍し、2年生時にインターハイ個人戦100kg級で優勝と成績で石井慧を上回っていた。
試合開始から181㎝の石井慧は自分の柔道をさせてもらえず、187cmの穴井降将に反則や技によってポイントを奪われた。
しかし終盤、豪快な大外刈りが炸裂させて逆転勝利。
同大会3人目の高校生チャンピオンとなった。
(翌年も連覇)
その後、全柔連の強化選手に選ばれた石井慧は、穴井降将と再会。
「こんにちは。
調子どうですか?」
と話しかけ
「お前に負けてから調子悪いわ」
といわれた。
以後、穴井降将は、空気を読まないが憎めない石井慧を食事に連れていったり、いろいろなアドバイスするなど面倒をみた。

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この後、石井慧は、国士舘大学に進学するのだが、そこには柔道の鬼、斉藤仁がいた。
ここで少し時を遡り、当時の状況を確認すると、斉藤仁は1984年のロスオリンピックを無敵の強さで優勝するも、そこから4年間、相手の反則技で肘を、練習で膝を大ケガするなど地獄を経験。
豪快さはなくなったが、相手をよく観察し、寝技に持ち込むなどして1988年のソウルオリンピックで金メダルを獲得し、2連覇。
柔道家として幅を広げた斉藤仁は、現役引退後、母、美智子校の国士舘大学で指導者となった。
体育学部の授業では
「筋肉は使わないと弱くなりますが、使いすぎるても弱くなります」
と合理的、科学的な体育を優しく教えるが、柔道部では一切の妥協を許さない稽古を実践。
あまりの怖さと厳しさに音を上げる柔道部員も多かった。
1992年、全日本代表の重量級コーチに就任。
国際大会で豪快な投げで1本勝ちした後、喜びのあまり、寝転んだままなかなか起き上がらない日本人選手に
「何やってるんだ」
と激怒。
『見事な1本勝ちなのに、なぜ怒るの?』
と理解できない外国人に対して
「寝転んでいたら相手に失礼です」
と説明。
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