獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで
2024年9月30日 更新

獣神サンダーライガー 山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。

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24 out-of-this-world Shooting Star Presses: WWE Fury, February 8, 2015

1987年8月、11ヵ月間の海外遠征を終えて日本に戻ったとき、山田恵一はロン毛になっていた。
「海外で散髪屋でなんてオーダーしていいのかわからなくて・・・
最初は自分で切ってたんですけど、そのうち放っておいたらドンドン伸びて・・・」
1987年8月21、22日、「サマーナイトフィーバー・イン・国技館」が両国国技館で行われ、その中の「IWGPジュニアヘビー級王者決定トーナメント」1回戦が凱旋ファイトとなったが、高田延彦に敗北。
翌日、船木(誠勝)を相棒にしたタッグマッチで、初めてシューティングスタープレスを出した。
それはコーナー上からリングのに寝ている相手に向かって跳び、体を回転させながらのボディープレス。
その名の通り、流れ星のように美しい技に会場はどよめいた。
「あれは初日で出すべきでしたね!」

【長州力 名言集】#蝶野チャンネル テレビ朝日コラボ企画 「蝶野正洋のワールドプロレス俺の激闘ベスト5」放送予告編

1987年10月19日、アントニオ猪木のタッグパートナーという大役がやってきた。
きっかけは4ヵ月前の6月12日、山田恵一がカナダにいたときに起こった事件。
新日本プロレス両国大会のIWGP決勝戦、アントニオ猪木vsマサ斎藤は、14分53秒、バックドロップを切り返して体固めでアントニオ猪木が勝利。
その直後に大事件が発生!
1ヵ月前に新日本プロレスに復帰し、マサ斎藤のセコンドについていた長州力がリングに上がってマイクで
「藤波、オレは自分たちの時代をつくるために3年間、叫んできたんだぞ!
藤波、前田、噛みつかないのか!? 
今しかないぞ、オレたちがやるのは!」
とアピール。
解説者として放送席にいた藤波辰巳、前田日明はリングに上がった。
アントニオ猪木猪木は
「テメーら、いいか。
その気で来るなら、俺は受けてやる。
テメーらの力で勝ち取ってみろ!
コノヤロー」
と応戦。
前田日明は、
「ゴチャゴチャいわんと誰が1番強いか決まるまでやればいいんだよ.
決まるまで!」
藤波辰巳は、
「やるぞ‼!」
と絶叫。
新日本プロレス、UWF、長州力の維新軍の団体間のイデオロギーの戦いに加え、世代交代の闘争が勃発。
この後、アントニオ猪木は右肩剥離骨折を負って欠場。
復帰戦でタッグマッチを希望し、相手に藤波辰巳&長州力を指名。
自らのパートナーは「X」としていて明かさなかった。
そして試合当日、藤波辰巳と長州力がリングインした後、アントニオ猪木が謎のパートナーを従え入場。
若手が壁をつくり、アントニオ猪木の後ろに隠れるように入場したのが山田恵一だった。
山田恵一は、あまりに場違いな人事に藤波辰巳に指を刺されたが、試合が始まると長州力に張り手を見舞うなどイケイケで攻めた。
しかし藤波辰巳が羽交い締めにされながら、長州力のリキラリアートを食らい、73秒でフォール負け。
さらにリングの上に寝ているとアントニオ猪木に足蹴にされ、場外に排除された。
山田恵一は、その後、手応えを感じることができない試合が続き
「俺、何やってるんだろう」
と日々、悩み、周りからも
「海外遠征行く前のほうが良かった」
といわれ、完全にスランプ状態。
これを打開するために「骨法」を習い始めた。
1年前、イギリス遠征に出る前にアントニオ猪木 vs ボクシングの元ヘビー級チャンピオン、レオン・スピンクスの異種格闘技戦が行われ、アントニオ猪木は、その備えのために骨法の道場で練習した。
それに武藤敬司と船木誠勝も同行し、武藤はすぐにやめたが、船木は道場通いを継続していた。
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山田恵一は船木誠勝に
「一緒にやりましょうよ」
と誘われ、
「俺は手足が短いし、関節も硬くて可動域も狭いから向いてないよ」
と断ったが
「いや関係ないですよ。
日本人の体型に合った格闘技なんで」
といわれ、試しにいってみたところ、
「面白い!」
と思った。
世田谷の多摩川沿いにある野毛道場で合同練習とチャンコが終わると、原付バイクでに乗って東中野の骨法道場にいき、2時間練習。
その後、隣のラーメン屋でラーメン&チャーハンを食べ、19~21時まで骨法の道場生と一緒にし、さらに22時まで自主練。
掌底打ちや浴びせ蹴りを習得した。
「プロレスは顔面へのパンチは反則ですけど、掌底だったらOKだし、浴びせ蹴りや竜巻蹴りも脚の長さは関係ないし、プロレスに取り入れられそうだなと。
骨法のセンスは船木の方がありましたけど、僕もかなり通い詰めました。
嫁の実家の福岡に引っ越すまで続けてたんで、5、6年は出稽古いってたかな。
シリーズオフのときは、寮からバイクで40分くらいかけて東中野の骨法の道場にいって、マンツーマン以外にも一般の会員さんに混じって合同練習に参加して」
海外遠征から帰って4ヵ月後、1987年12月、両国国技館で船木誠勝と対戦。
骨法の技術をぶつけ合って、最後はイギリス仕込みの技術で押さえ込んで勝利。
ファンや関係者に
「いい試合だった」
と評価された。

1988年5月8日 新日本プロレス ’88スーパーファイトシリーズ 有明コロシアム 異種格闘技戦 山田恵一VSドン中矢ニールセン

1987年11月、タッグマッチ中にサソリ固めを決めた長州力の顔面を前田日明が蹴るという事件が起こった。
長州力は眼窩底骨折という重症
1988年2月1日、新日本プロレスは前田日明を解雇。
4月8日、前田日明が第2次UWFので設立記者会見。
山田恵一は、目標だった高田延彦がUWFへ戻っていくと心のポッカリ穴が空いた。
UWFに対して
「道場でやってること」
それに対してプロレスは
「たくさんのお客さんに楽しんでもらうために道場で磨いた技術+アルファのものがあってこそ」
と考えていた。
5月8日、第2次UWF旗揚げ戦の4日前、山田恵一は、有明コロシアでキックボクサーのドン・中矢・ニールセンと異種格闘技戦。、
関節技で勝機を見出そうとしたがキックのラッシュを受けて立ち上がることができずTKO負けした。
「ニールセンは、前田さんがすごい試合をやって勝ってましたし、このときは会社から「やってみるか?」っていわれて「ぜひやりたいです」って。
骨法を含めて自分の腕がどれほど通用するか試したかったのもあるし、なによりUWFにも世間にもバカにされたくないっていう気持ちが大きかったんです。
プロレスが1番スゴイっていうのを信じてやってましたから、絶対に勝たなきゃっていう気持ちでしたけど、厳しい戦いになりました。
タックルで倒すまではいくんんですけど、ロープブレイクありのルールなんで逃げられちゃって。
何度目かのタックルを仕掛けたとき、カウンターで後ろ回し蹴りを食らって、ヤバイって」
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1988年12月、山田恵一は、ドイツでスティーブ・ライトが持つCWAミドルヘビー級のタイトルに挑戦。
忍者のコスチュームでリングに上がり、セコンドにはドイツ遠征中の船木誠勝がついたが、ヨーロピアン・スタイルの洗練されたレスリング技術と、軽業師を思わせるアクロバティックな動きを武器に、初代タイガーマスクらと好試合を展開したスティーブ・ライトに敗北。
一旦、日本に戻って越中四郎が持つIWGPジュニアヘビー級のタイトルに挑戦し、ドラゴンスープレックスで敗北。
1989年1月、再度イギリスへ遠征し、船木誠勝と合流。
住まいは、リバプールにあるクロンダ・ケイツという女子プロレスラーの家。
山田恵一と船木誠勝は、同じ部屋で暮らし、2人でリバプールのゴールドジムと3ヵ月間契約。
朝、プロテインを飲み、ゴールドジムに行ってトレーニング。
その後、食事は自炊もしたが、チャイニーズフードかインディアンフードかケバブかフィッシュ&チップスで腹を満たしたりと、若者らしい自由な生活を送った。
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初めて相部屋となった船木誠勝は、山田恵一が毎夜、寝る前に必ず、
「かわいいね」
「なんでそんなにかわいいの」
「お休み」
などといいながら当時の彼女で現在の奥さんの写真にキスをするのを目撃。
「隣で寝てるにに何でこんなことするのかなって・・・
本当にうっとうしかったですね」
山田恵一にとって2度目のイギリス。
「フライング・フジ・ヤマダ」の復帰に会場のファンは喜んだ。
「でも棒は日本でもイギリスでも子供とお年寄りのファンばっかりで、船木のほうが断然モテました」
ある夜、山田恵とは船木誠勝はタッグを組んだ。
相手の体の大きなレスラーは、体の小さいな山田恵一とまともに勝負せず、技をちゃんと受けようとしない。
ナメた態度にキレた山田恵一は、関節技で締め上げ、ギブアップを奪った上、髪の毛を引っ張って控室につれていき、暴力と罵詈雑言を浴びせて威嚇。
「技を受けてナンボだろうが‼
「殺すぞ‼」
通訳するようにいわれた船木誠勝は、
「英語なんですけど、生まれた初めて人に対して殺すぞっていいました」
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ゴールドジムにはブルース・リーの写真とボディビルダーの写真が飾ってあり、船木誠勝は
「自分はこういう実戦的な体になりたいです」
といってブルース・リーを指し、山田恵一は
「エッ、俺はこっちの方がいい」
とボディビルダーをチョイス。
仲の良い2人だが、理想には違いがあった。
イギリス遠征中、船木誠勝はUEF移籍を決意。
山田恵一は
「UWFに移籍しようと思ってるんです」
といわれ、
「そうか。
頑張ってな」
と返した。
船木誠勝がUWFに行くことについて、
「そこはお互いプロのレスラーとしてリングで何を追求し、表現していくかという話ですから、別に僕がどうこういうことでもないし、ケンカ別れしたわけでもないし、そもそも選手の退団にも慣れっこなんで」
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山田恵一に告白した後、船木誠勝はプロレス誌の取材を受け、
「イギリスから日本に帰ったら新日本プロレスに戻らずにUWFに行きます」
と明言。
それはすぐにプロレス誌の表紙となって伝えられた。
新日本プロレスは、すぐに船木誠勝に電話をして叱責。
しかし船木誠勝の意志は固く、イギリスに新日本プロレスの幹部、坂口泰司を派遣。
船木誠勝を説得し、東京ドームで船木誠勝が大好きなジャッキー・チェンと対戦させるというプランを提示した。
「なんで映画俳優と戦わないといけないんですか」
と腹を立てながら船木誠勝に、山田恵一は
「たしかにすごいけど、俳優だもんな」
と話を合わせつつ、心の中では
(面白いやん)
と思っていた。
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一方、新日本プロレスは、船木誠勝か武藤敬司に「獣神ライガー」というマスクマンとしてデビューさせるつもりだった。
しかし船木誠勝は会社を辞めてUWFにいってしまったので、イギリスにいる山田恵一に
「今度、東京ドームで獣神ライガーっていうマスクマンをデビューさせるんだけど、やるつもりあるか?」
と打診。
子供の頃からミル・マスカラスやドス・カラスに憧れ、アスクを収集していた山田恵一は、二つ返事で引き受けた。
こうして山田恵一と船木誠勝は、イギリスを境に別の道を歩き始めた。
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