小野和幸
(おの かずゆき、1962年8月19日 - )は、秋田県秋田市[1]出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。
右投げ、右打ち。
ポジションは投手。
ポジションは投手。
経歴
小学生の頃野球を始め、秋田県立金足農業高等学校へ進学。
金足農はプロ野球選手を多く輩出している強豪校であり、近年では2018年夏の高校野球第100回大会における金農旋風が記憶に新しい。
小野は1年秋からエースを務めました。
金足農はプロ野球選手を多く輩出している強豪校であり、近年では2018年夏の高校野球第100回大会における金農旋風が記憶に新しい。
小野は1年秋からエースを務めました。
プロ入り
1980年、ドラフト外で西武ライオンズに入団します。
1981年、1983年と二軍で最多勝を獲得します。
1984年に最優秀防御率、1986年にはオールスターに選出されるなど大いに期待されましたが一軍では思うような成績をあげることがせきませんでした。
1987年のオフに平野謙との交換トレードにより中日ドラゴンズへ移籍します。
1981年、1983年と二軍で最多勝を獲得します。
1984年に最優秀防御率、1986年にはオールスターに選出されるなど大いに期待されましたが一軍では思うような成績をあげることがせきませんでした。
1987年のオフに平野謙との交換トレードにより中日ドラゴンズへ移籍します。
トレードマークのひげはこのときから。
「見た目を変えて移籍をした選手は成功した。お前も生やせ。」と移籍が決まったときになじみの床屋で言われたのがきっかけだったといいます。
「見た目を変えて移籍をした選手は成功した。お前も生やせ。」と移籍が決まったときになじみの床屋で言われたのがきっかけだったといいます。
中日ドラゴンズ
移籍した中日は星野仙一が監督に就任して2年目にして初優勝をかざったシーズンでした。
MVPこそ当時のクローザー郭源治が受賞しましたが、先発として優勝に貢献したのは移籍1年目の右腕、小野和幸でした。
18勝4敗で最多勝、勝率.818はリーグトップでした。
日本シリーズでは第1戦、第5戦で先発に起用されましたがいずれも敗戦、日本一は逃します。
MVPこそ当時のクローザー郭源治が受賞しましたが、先発として優勝に貢献したのは移籍1年目の右腕、小野和幸でした。
18勝4敗で最多勝、勝率.818はリーグトップでした。
日本シリーズでは第1戦、第5戦で先発に起用されましたがいずれも敗戦、日本一は逃します。
翌1989年には開幕投手に起用されますが敗戦投手となり、以降は故障などもあり活躍できず、1993年オフに自由契約となりました。
千葉ロッテマリーンズ
1994年のシーズンからは千葉ロッテマリーンズでプレーします。
(同じ年、西武時代に交換トレードの相手であった平野謙もロッテに移籍しています。)
この年は4勝をあげますが翌1995年は未勝利に終わり、この年限りで現役を引退しました。
(同じ年、西武時代に交換トレードの相手であった平野謙もロッテに移籍しています。)
この年は4勝をあげますが翌1995年は未勝利に終わり、この年限りで現役を引退しました。
現役引退後
現役引退後はそのまま千葉ロッテマリーンズに残り、二軍投手コーチ、一軍投手コーチなどを2003年まで務めました。
2004年には台湾プロ野球、統一ライオンズで投手コーチを務め、2005年、2006年は四国アイランドリーグ・徳島インディゴソックスで監督を務めました。
2004年には台湾プロ野球、統一ライオンズで投手コーチを務め、2005年、2006年は四国アイランドリーグ・徳島インディゴソックスで監督を務めました。
現在
2011年より、埼玉県所沢市にある小中学生むけの野球教室「HEROSベースボールアカデミー」で投手コーチを務めています。
こちらのコーチ陣はいずれも元プロ野球選手で元西武ライオンズの石毛宏典が校長を務めています。
こちらのコーチ陣はいずれも元プロ野球選手で元西武ライオンズの石毛宏典が校長を務めています。