バントの名手、平野謙の軌跡を辿る
2020年5月16日 更新

バントの名手、平野謙の軌跡を辿る

生涯犠打数451という記録を持つ名手平野謙。その輝かしい成績とは裏腹に波乱万丈な幼少期を過ごしていたことをご存じですか?

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平野謙

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ひらの けん、1955年6月20日 - )は、愛知県名古屋市出身の元プロ野球選手(外野手、右投両打)、指導者、評論家。妻は元タレントの秋本理央、息子は俳優の平野潤也[2]、姉はエッセイストの内藤洋子。

プロ入り前

子供時代

金物店を営む両親と6歳年上の姉との4人家族でした。

4歳でキャッチボールを始め、小学4年生で野球チームに入ると5年生で選抜チームの遊撃手を務めるようになり、高い評価を受けたといいます。

しかし6歳の頃肝硬変で父親を、12歳頃に胃がんで母親を亡くします。
そのためお姉さんが高校を1年休学して金物店の経営を始めます。
平野さんも手伝っていましたが経営が苦しくなり1970年冬、廃業。
土地建物を売却し犬山市に移り住みます。
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平野謙の姉はエッセイストの内藤洋子さん。
姉弟で経営した金物店の話は書籍化されています。

高校時代

犬山高校に進学。
強豪校ではなかったものの投手として野球部を盛り立て、2年時の1972年夏の甲子園地区予選では準々決勝で強豪享栄高校を破るも準決勝で東邦高校に大敗を喫します。

大学時代

高校時代の活躍が認められ、名古屋商科大学に特待生として進学します。
愛知大学野球リーグでは在学中に2度優勝を経験しました。

1977年のドラフト会議で中日ドラゴンズが指名した選手の半数が入団を拒否したためドラフト外での獲得を進め、平野さんの入団も決まったそうです。

しかしこのとき既に就職先の内定が決まっていたため大学側との間で問題となり免除されていた学費も一括納入したということです。
野球部のOB会も除名されたそうです。

野球での活躍で特待生として迎えた生徒が就職が内定していたとはいえプロ野球選手になるというのに特待生の権利を剥奪されてしまったようでなんだか切ないですね。

プロ野球選手時代

中日ドラゴンズ

中日ドラゴンズ入団後3年はウェスタンリーグに出場。
大学時代に痛めた肘の痛みなどもあり外野手転向をコーチに勧められ、自信を持って投げた球を簡単に打たれたこともあり2年目に外野手へ転向、35試合に出場するも3年目に打撃不振に陥りその年のオフに戦力外候補になります。

しかし、監督に就任した近藤貞雄の進言で残留。
野手分業制により守備や走塁のスペシャリストを発掘しようとする近藤監督の考えのもと開幕一軍入りを果たし、主に守備固めで出場。
2番打者として定着していき犠打の数も量産していきます。

1982年には初のゴールデングラブ賞も受賞します。
1985年からは田尾に代わりトップバッターを務め、二度目のゴールデングラブ賞に輝き、1986年には最多盗塁のタイトルも獲得します。

しかし怪我などで一軍を離れている間に新たな選手の台頭もあり復帰後はポジションが移動になったり、監督に就任した星野仙一と野球観などをめぐり確執が生まれてしまいます。
1987年秋のキャンプで西武との交換トレードを言い渡されます。

このときは星野が自分を嫌ってトレードに出された、と思っていたそうですが後に西武の森祇昌監督が積極的に欲しがっていたことがわかりました。
さすがに好き嫌いだけで選手をトレードなんてありえないと思いたいですね。
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西武ライオンズ

西武へ移籍後数か月でチームカラーになじんだ平野は移籍した年の1988年に自己最高の打率とリーグ最多の犠打を成功させています。
この年は活躍の一方体力を消耗し、やつれながらも古巣中日との日本シリーズ全5試合に出場。

以後、2番打者、右翼種で定着し6年連続9回目のゴールデングラブ賞を獲得するも年齢的にも衰えがみられ、年俸も高額になっていたことから1993年戦力外通告を受けチームを去りました。
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千葉ロッテマリーンズ

子供たちにプロ野球選手としての姿を見せたいと現役続行を望み、チームのまとめ役として誘われ1994年に千葉ロッテマリーンズに入団します。
1995年にコーチ兼任、1996年に選手選任に戻るなどしたがけがのため一軍登録抹消となり同年現役を引退しました。
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