わが青春の第2次UWF   古い体質を持つ巨大組織に反発し、勝利!
2022年7月24日 更新

わが青春の第2次UWF 古い体質を持つ巨大組織に反発し、勝利!

第1次UWFは1年半で倒産。新日本プロレスに吸収され、2年半、屈辱の出戻り生活を送るも、数々に事件を引き起こし、最後は解雇され、志高きロクデナシどもは再び立ち上がったのである。

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ターザン山下などは、第1次UWF時代からUWFが真剣勝負でないことを把握していて、その上で意義を感じて「週刊プロレス」で記事を書き、猛烈に援護射撃し、応援し続けてきた。
しかし緊張感も危険な雰囲気もない有明の試合をみて
「UWFは終わった」
と思った。
この後も週刊プロレスの売り上げのために記事を書き続けたが、心は完全に離れ、世間やマスコミ、文化人、有名人がUWFをもてはやすのをみると嫌気感を感じた。
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しかし第2次UWFは、キック、サブミッション、スープレックスを主体とした格闘技色の強いファイトスタイルで熱狂的な支持を受け、社会現象と呼ばれるほどのブームを巻き起こしていった。
中でも前田日明は大ブレイク。
タモリの「笑っていいとも!」やワイドショーなど多数のTV番組に出演。
西武百貨店のポスターは、子供を上半身裸で背負った前田日明。
そして糸井重里の
「うそみたいな、ほんとがほしい。
ほんとって、こわくて、おもたくて、よさそう」
というキャッチコピー。
アニメ映画「AKIRA」のイベントに出席し、薬師丸ひろ子主演の映画「ダウンタウンヒーローズ」のイメージキャラクターとなり、UWFの大ファンという憂歌団のライヴに出演しジョイント。
ビッグコミックで前田日明の自伝的マンガ「格闘王への挑戦」、月刊フレッシュ・ジャンプで「新格闘王伝説・前田日明物語・獅子の時代」が連載開始。

新生UWF特番・・・地球発19時

1988年秋、TBSのドキュメンタリー番組「地球発19時」は、「激戦!新生プロレス軍団UWF」 と題し、神新二社長を主人公に、1988年8月の有明コロシアム大会をハイライトにして報じ、
テレビ放映がないと放映料がもらえないが、
「興行数を月1回程度にすることでプレミアム感を増す神新二社長のビジネス展開は非常に革新的」
と賞賛した。
アントニオ猪木のファンだった神新二は、1983年2月、タイガーマスク人気で絶頂にあった新日本プロレスに入社。
配属先は企画宣伝部で、与えられた仕事は営業本部長だった新間寿の運転手兼カバン持ち。
新日本プロレスを追われた新間がUWFを立ち上げると自然とそちらに移り、夜中、警官の目を避けながら大量のポスターを貼ったり、宣伝カーの乗ったり、販売店にチケットを配ったり、ときにはリングアナウンサーもやった。
1985年11月25日、スタッフから退陣を迫られた浦田昇社長は、借金だけを引き取って辞めるとUWFはたちまち経営難に陥り、スタッフは離散。
残ったのは神新二と神に誘われてUWFに入った大学の同級生、鈴木浩充の2人だけだった。
新日本プロレスに参戦したUWF勢のファイトマネーはUWFの口座に振り込まれ、神と鈴木はそれをそのままレスラーに渡し、自分たちの給料と世田谷に借りている事務所(高田延彦ファンクラブ会長、鈴木健が経営する文具屋の事務所を半分、間借り)の経費は、UWFのグッズを売って稼いだ。
神は、税金対策のために1987年2月にUWFを正式に株式会社として登記。
神が社長、鈴木は専務となった。
新日本プロレスと合併後、活躍の場がないUWFの若手、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄に
「UWFを再旗揚げしてください」
と何度も頼まれ、ずっと断っていたが、
「もう1度やろうか」
と思い始めた。
長州蹴撃事件後、新日本プロレスを解雇された前田日明を擁護する意見も多数あり、その声にも押され、最後は
「やるしかない」
と覚悟を決め、親や親せきに借金した上、UWF長野後援会長である高橋蔦衛、自社の倉庫をUWF道場として提供してくれている寺島幸男にも資本金を出してもらった。
(2人は役員になった)
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第2次UWFは社会現象的ブームとなり、TV中継がないUWFを会社を休んで遠方まで観にいくことを
「密航」
と呼んで流行り言葉になった、
1988年11月末、翌年(1989年1月10日)の武道館大会の前売りチケットが発売開始なる前夜からプレイガイドの前にファンが並び始めた。
渋谷のプロレスショップ「レッスル」の社長から
「こんなに寒いのにもう並んでるよ。
寝袋とか持ってるよ!」
と連絡を受けた鈴木浩充専務は
「差し入れを持って各プレイガイドを回ろう」
と即決。
「社員だけで回っても仕方がない。
前高山(前田日明、高田延彦、山崎一夫)も連れていこう」
ということになった。
前田と山崎は自宅にいたが、高田は行方不明。
スタッフは
「飲んでいるに違いない」
と心当たりの店に電話していき、何軒目かでベロベロの高田をつかまえた。
川﨑 有楽町のニッポン放送チケットセンター、後楽園ホール、レッスル渋谷店、レッスル池袋店・・・、都内のプレイガイドを「前田&山崎班」と「高田班」の2組にわかれて回ることになり、前田&山崎班は、前田のポルシェで出て、コンビニで熱い缶コーヒーを大量に買って、並んでいる人の渡していった。
深夜25時、26時に現れた前田と山崎をみてファンは
「うわー」
「すげー」
と大興奮。
高田班は、高田延彦とスタッフだったが、高田は酔っていたため、ハイテンションで、いく先々でファンと抱き合ったりして大騒ぎした。
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圧倒的多数の若者が強烈に第2次UWF、前田日明を強く支持。
そして一般的なファンだけでなく、UWFに入ることを希望する若者もいた。
第1次UWF時代、道場を仕切ったのは藤原喜明だったが、第2次UWFとなると前田日明が、それに代わった。
しかし人気者になった後はハードスケジュールのために不在にすることも多く、完全ではなかった。
それでもUWF第1回新人入門テストで唯一の合格者となった田村潔司、第2回新人入門テストに合格した海老名保、堀口和郎らは、ボロボロになりながら練習をしていた。
彼らは
「いつかメインで戦おう」
と励まし合ってツラい練習を耐えていた。
UWFはリアルファイト(真剣勝負)ではなかったかもしれないが、彼らは本気で最強を目指し、その
「強くなりたい」
という気持ちはホンモノだった。
UWFが強さを追い求める集団であったことも事実で、これが後に来る日本の総合格闘技ブームの下地にもなった。
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一方、神新二社長以下、UWFスタッフたちも超多忙だった。
東京の事務所では通常から朝10時から24時25分の終電まで働き、女子社員も22時半は当たり前で、夕食は出前で食べた。
さらに試合が近くなると27時、28時は当たり前になり、電話に対応するために誰かが泊まった。
現地にも試合が行われるかなり前から入って、会場で、演出、音響、照明などの打ち合わせを行った。
「UWF、 Fighting Network
・・・・大会は、来たる・・月・・日、午後・・時・・分
衝撃のゴング
メインイベントは・・・・・対・・・・・
うなるキック、軋む関節、高角度のスープレックス
本物はUWF!
本物はUWF!
チケットは市内プレイガイドにて絶賛発売中!」
と自分たちでテープに吹き込み、それを流しながら、8~20時まで宣伝カーで走る。
それが終わると深夜までポスター貼り。
その他、バイトの手配、プレイガイドにチケットを配ったり、売り上げをチェック。
試合当日も、券売り場や入り口係などいろいろな仕事を与えられ、試合翌日は1日かけてポスターはがし。
それが終わるとやっと帰京となった。
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1988年11月、神新二社長と前田日明は、数ヵ月前からヨーロッパに武者修行に出ている新日本プロレスのレスラー、船木誠勝をスカウトするため、ドイツのブレーメンに飛んだ。
このときスタッフが運転する車で成田空港に向かったが、高速道路上でオーバーヒート。
「飛行機の時刻に合わなかったら船木に会えない!」
と前田と神は一緒に車を押した。
結局、押しがけしても車は動かなかったが、たまたま通りがかったタクシーを拾い、間一髪、間に合った。
19歳の船木誠勝は、第1次UWF崩壊後、新日本プロレスに戻った前田日明がアンドレ・ザ・ジャイアンにセメントマッチを仕掛けられ、返り討ちにしたのをみて以来、UWFに興味を持っていた。
「アンドレとあそこまでやったのは世界中で前田さんだけで、しかも倒しちゃった。
自分は大きさ・強さ世界一のアンドレを倒した前田さんは「プロレス」を食っちゃった」と思いました。
その後のドン・中矢・ニールセン戦と合わせて完全に「UWFは正しい!」となりましたね」
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1988年12月、UWF道場で事故が発生。
目の焦点が合わなかったり、眩暈を起こしながらも練習を続けていた海老名保が、後頭部を強打し、痙攣を起こした。
ムエタイトレーナー、シンサック・ソーシリパンが応急処置をした後、救急車で病院に搬送されたが、脳挫傷と診断され、開頭手術が行われることになった。
幼い頃、特撮ヒーローにハマって、タイガーマスクに憧れ、高校卒業後、上京してUWFに入った海老名は、
「改造人間になってきます」
といって手術室に入っていった。
海老名の両親は秋田県から上京し、川崎市にいた娘の家に泊まりながら、毎日、病院に通い、社長の神新二を含め、UWFスタッフは、その送り迎えをした。
手術は成功したものの海老名は入門3ヵ月でデビューを果たせないまま道を断念することを余儀なくされた。
(海老名は、その後、一時、郷里に戻ったが
「やりたいことをやらずに1度きりの人生を終えたくない。
リングの上でなくても、ヒーローになる方法はあるはずだ」
とジムインストラクターをしながらアクション俳優、スタントマンを志した。
1997年、記憶が飛ぶなどの後遺症も現れると、再び故郷に帰ってフィットネスジムを経営。
2003年、ヒーロー好きが高じ、マスクを見よう見まねでつくっていた海老名は、秋田発・地産地消型ヒーロー「超神ネイガー」を企画・制作し、大ブレイク。
超神ネイガーはローカルヒーローの先駆けとなった)
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1988年12月21日夜、事故の対応に追われた神新二が、試合がある大阪に向かおうとしたとき、会社の前に車を停めていたらタイヤがパンクしていることに気づいた。
以前からこうしたことアンチファンによるものと思われるイタズラは起きていて、急いで業者を呼び、タイヤを交換し、高速を飛ばし、翌朝8時に無事に大阪に到着。
「OSAKA SUPER BOUT-HEART BEAT UWF」は、大阪府立体育館は7000人の超満員にして、前田日明はノーマン・スマイリーに8分42秒、片羽締めで勝ったものの、体型をみれば練習不足は明らかだった。
前田は、道場にあまり顔を出さなくなり、たとえ練習してもキツいことは避けるようになっていた。
年が明け、1989年1月19日、日本武道館で前田日明 vs 高田延彦が対戦。
毎日新聞は
「遊技ゼロ、場外乱闘なし、新興プロレス「UWF」真剣勝負で人気沸騰」
と報道。
「スポーツグラフィック ナンバー」や「アサヒグラフ」もUWFを大きく取り上げた。
UWFはプロレスではなくスポーツとして捉えられ、かつ旧体制に反発し勝利した物語として伝えられた。
ファンは、リアルファイト、真剣勝負と信じ、幻想を増幅させた。
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1989年3月10日、船木誠勝が、イギリスのリヴァプールで
「この1年間、いつもずっとUWFのことを考えていたので、この気持ちは本物だと思う。
特にこの1週間は、深刻に思い悩んだため下痢が止まらなかった。
人生でこんなに思い悩んだのは、母の反対を押し切ってプロレスに入る前だけだった。
UWFの魅力は、遠慮なくガンガンいけるところ。
結局、人生は1回しかないので自分の思ったようにしてみたい。
3日後の3月13日で20歳になるし、15歳から20歳まで新日本プロレスにいて、今は第2の人生を選択する時だと思う。
新日本プロレスを去ると、いろいろな人に迷惑をかけると思うが、自分の人生の後悔だけはしたくない。
自分は覚悟している。
新日本プロレスが嫌いでイヤになったのではなく、自分の方向性と違っている会社にいるよりも自分の理想の方を選びたい。
わがままかもしれないけど、自分はそうします」
とUWF 移籍を表明。
この後、新日本プロレスと話し合い、円満移籍となった。
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