阪神タイガース史上、最強の一番打者と言われる【真弓明信】の全て!!
2018年1月12日 更新

阪神タイガース史上、最強の一番打者と言われる【真弓明信】の全て!!

1980年代から1990年代の猛虎打線の核弾頭として、驚異のバッティングを見せつけた真弓明信。先頭打者として塁にも出、クリーンナップのような長距離を放つ、この一番打者はどんな選手だったのでか。 真弓明信の現役時代から今までをご紹介いたします。

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驚異の打撃能力で猛虎打線を盛り上げた一人!真弓明信

真弓明信(まゆみ あきのぶ)

真弓明信(まゆみ あきのぶ)

1953年7月12日生まれ
身長 174㎝、体重75kg
右投げ、右打ち
ポジション:外野手、遊撃手、二塁手

阪神タイガース84年優勝の時も、猛虎打線の核弾頭として大活躍したスター選手。
通算先頭打者本塁打の記録も歴代2位でして、初回の先頭打者本塁打も38本とセ・リーグ記録を持っている。
男前のルックスも実力に加えて、オールスターにも80年代はほぼ毎年出場している人気ぶりです。

真弓明信の獲得タイトルや主な表彰と記録

首位打者:1回 (1983年)


ベストナイン:3回 (1978年、1983年、1985年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1985年)
月間MVP:1回 (1985年9月)

通算初回先頭打者本塁打:41本(表24本、裏17本)※歴代2位[25]
セ・リーグ通算初回先頭打者本塁打:38本(表21本、裏17本)※セ・リーグ記録[13]
5試合連続本塁打:2回(1980年6月25日 - 7月6日、1986年7月1日 - 7月6日)
代打3打席連続本塁打 ※史上2人目(過去の達成者は1984年マーシャル・ブラント、後に1996年藤立次郎・2011年ジョシュ・ホワイトセルが記録)

真弓明信のプレースタイルとは。

積極的な一番打者

積極的な一番打者

積極的に初球から打ちに行き、本塁打や長打になることが多く、真弓と同じく史上最強の一番打者といわれた「福本豊」に次ぐ歴代2位の記録41本を残している。
足も速く、守備もうまいことから内外野とほぼすべての守備が出来るユーティリティプレイヤーとして活躍するスタイルであった。
走攻守のオールプレイヤーというだけではなく、プロ入り当初は守備固めの選手で、中軸打者、代打の切り札と、チームにおけるポジションもそつなくこなしてしまう選手はなかなかいないでしょう。

ちなみに守備も遊撃手、二塁手、外野手でベストナインを獲っている選手もなかなかおりません。

真弓明信のプロに入るまでの活躍

熊本県玉名郡生まれで、小学3年生の時に福岡県大牟田市に引っ越し。その大牟田で見た原貢監督の三池工業高校の甲子園優勝パレードを見て、野球選手を志すようになったという。

中学時代に野球を始めるが、三段跳びで11m99㎝を記録するほど身体能力の高さがきわだち、いろんな運動部を掛け持ちしていました。

柳川商業高校に進学し、1年からベンチ入りし、2年にはレギュラーを獲得。あの元大洋ホーエルズの若菜嘉晴と同期で活躍し、九州一の強豪校と称されていたが、甲子園に行くことはなかった。
卒業後、若菜は西鉄ライオンズに入団し、真弓は社会人野球への道へと進み、都市対抗野球で大活躍を見せるのである。そんな活躍もあって、1972年のドラフト会議で西鉄ライオンズに3位指名を受け、プロの世界へと足を踏み入れるのである。

プロに入った太平洋クラウン時代の真弓明信

1973年5月5日の対日拓ホームフライヤーズ戦(平和台野球場)で、9回裏に遊撃手の守備固めとしてプロ初出場。守備機会はなかった。5月15日の対阪急ブレーブス戦でも9回裏から遊撃手の守備固めとして出場するも、2つのエラー(記録上は、1つは内野安打)を喫し、翌日二軍落ちする[10]。同年7月よりおよそ3か月間、アメリカの1A・ローダイ・ライオンズに留学する。このアメリカ留学で、当時日本ではそれほど行われていなかったウエイトトレーニングを練習に加えるようになった
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1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初本塁打・初打点を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。

1977年に、福本豊の使うタイプのバットを使用するようになり[11]、116試合に出場する。

1978年に遊撃手のレギュラーとなり、初の規定打席に到達。同年は、オールスターゲームに初選出され、遊撃手のベストナインにも選ばれた

世紀のトレードの結果・・・。阪神タイガースへ移籍

1978年オフに田淵幸一、古沢憲司との「世紀のトレード」で若菜、竹之内雅史、竹田和史とともに阪神に移籍することになる。本人は、球団が売却(→西武ライオンズ)され、チームが埼玉県所沢市に移ることから引っ越しの準備中だった。トレードは、テレビのインタビューで初めて知り、「セ・リーグだったら名前も売れるだろうな」と思ったという[11]。移籍後の背番号は7となった。
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移籍一年目の1979年から、一番・遊撃手として定着。長打力のある一番打者として活躍し、同年5月20日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)ではサイクル安打を達成する。この試合では、自身2本目の初回先頭打者本塁打を放っている。同年は125試合に出場し、自身初の二桁本塁打となる13本塁打を放った[12]。

1980年は、一番打者ながらセ・リーグ5位タイの29本塁打を放った。10月12日には、対中日戦ダブルヘッダー(ナゴヤ)で、ダブルヘッダー2試合連続初回先頭打者本塁打を達成する[12]。

1981年は、故障の影響もあり前年よりは成績が落ちたものの、翌1982年には全130試合に出場。同年は打率.293で、初の打撃ベストテン入り(10位)を果たした[12]。
1985年には再び二塁手に戻った岡田と入れ替わる形で外野手(主に右翼手)に転向。しかし同年6月9日の対横浜大洋ホエールズ戦でセカンドランナーだった真弓はかつてのチームメイト若菜と本塁で交錯し、左肋骨不全骨折で1か月弱戦線を離脱するものの、一番打者として、打率.322, 34本塁打、84打点の好成績でチームのリーグ優勝・日本一に貢献し、外野手のベストナインにも選出された。この受賞で、クラウン時代と合わせて、3つのポジションでベストナインを受賞した。3ポジションでのベストナイン受賞は落合博満に続き史上2人目であった。日本シリーズでは、打率.360, 2本塁打で優秀選手に選ばれた[5]。

真弓明信 33号 同点ソロホームラン - YouTube

1985年
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