斉藤仁  エベレストを楽々と踏破しながら、ついに富士山に登ることはできなかった男。 無敵のロス、地獄のソウル、オリンピック2連覇。
2021年11月23日 更新

斉藤仁 エベレストを楽々と踏破しながら、ついに富士山に登ることはできなかった男。 無敵のロス、地獄のソウル、オリンピック2連覇。

まるで北斗の拳だ。天は2人の天才を同時代に送り出し、まるでラオウとトキのように、斉藤仁は山下泰裕を超えることに人生をかけた。

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生まれ育ったのは、JR青森駅から南東5kmくらいの一般住宅地で、両親と兄の4人暮らし。
父親は元ラグビー選手で炭鉱で働いていた肉体派で、なにかあると2人の息子に怒声とゲンコツを飛ばした。
「仁、これ履いていけ。
男は足腰鍛えなきゃイカン」
突然、鉄下駄を買ってこられた斉藤仁は、しばらくの間、2km離れた学校に鉄下駄で通った。
体が大きな斉藤仁は野球は4番、水泳も得意。
スキーもできて、10km離れたスキー場まで車で送ってもらい、楽しんだ後、帰りのバス代をもらっていたが内緒で家まで滑って帰った。
小学校6年生のとき、TVで「柔道一直線」というドラマの中で主人公が大きな相手を投げ飛ばしたり足でピアノを弾いたりするシーンをみて、
「死ぬまで柔道をやるから」
といって柔道着を買ってもらった。
そして家の中でドラマの主人公の必殺技「地獄車」を弟にかけた。
地獄車は、相手に組みついて回転しながら相手の頭部を畳に何度もたたきつける技で、100kg近くある兄につかまれた弟は鞠のように転がった。
その結果、家の壁は穴だらけになり、畳の下の板が割れた。
中学生になると柔道部に入り、町道場にも通い始め、本格的な練習を開始。
中学3年生になると同時に顧問が他校に転任になったため廃部のピンチになったが、斉藤仁は、半分泣き落としで柔道素人の教師に顧問になってもらった。
そして「柔道入門」という本を15人の部員で回し読みしながら、斉藤仁は、黒帯になり、県大会で優勝した。

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「すごい子がいる」
青森県出身の同僚から情報を得た国士舘高校柔道部監督、川野一成は、斉藤仁と面会の約束を取り付けた。
面会の2日前、高校の寮が火事で焼け、そこで住んでいた川野一成も焼け出されてしまった。
翌日、夜行列車に乗り、朝6時、青森に到着。
そのときは12月で、ものすごい吹雪の中、筒井中学校に向かい、校長、父親、斎藤仁と会った。
「先生、寒くねんだか?」
火事で服をすべて焼かれてしまい、近所のスポーツ用品店で借りたジャージと学校の売店にあったペラペラの防寒着だけという姿を驚かれた。
そして川野一成も初めて会った斉藤仁をみて
「ただではない」
と思った。
彼の学生ズボンの股には当て布が縫いつけてあった。
腰や大腿が太く、既製のサイズでは入らないので、股の縫い目をほどいて当て布をつけ、股の部分を広げてあった。
「ドッシリとした足腰もさることながら、そういうズボンをはく純朴さに、私は惹かれました」
斉藤仁には相撲部屋からもスカウトが来ていたが、薄着の川野一成から逆に熱いものを感じた父親は息子の意見を聞かずに
「先生に預けます」
と国士舘高校への進学を決めた。
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斎藤仁が上京したのは入学前の春で柔道部は春合宿中だった。
さっそく柔道着に着替え、練習に参加。
「ストレッチをやってみろ」
といわれ、178cm、100kgの斉藤仁は、開脚し上半身を前に倒し、頭を畳につけて川野一成を驚かせた。
「倒立はできるか?」
「はい」
逆立ちしたまま歩き、まさかできると思っていなかった川野一成をまた驚かせた。
前方宙返りも軽々とこなしたという。
学校が始まると、平日は朝1時間、夕方4時間の練習、そして寮で掃除と洗濯という毎日が始まった。
夏休みに青森に1度帰省したとき、
「俺、もう東京に戻りたくない」
と家族の前で泣きながらいった。
国士舘高校柔道部の稽古は半端ではない上、上下関係の厳しさ、1人暮らしの寂しさなどで精神的に追い詰められていた。
結局、しばらく実家で過ごした後、東京に戻ったが、寮に帰るのが嫌で山手線を何度もグルグル回ったという。
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「お前、強くなりたいか?
山下(泰裕)に勝ちたいか?」
川野一成の問いに斉藤仁は
「勝ちたいです」
即答した斉藤仁に川野一成はいった。
「それなら組手を左に変えろ」
山下泰裕は、このとき東海大の1年生。
中学時代から「怪童」と呼ばれ、高校ではインターハイ優勝、大人も出場し体重無差別で行われる全日本柔道選手権大会で準決勝進出、19歳で全日本選手権を史上最年少優勝を果たした「天才」
山下泰裕は本来右利きだが、中学生から左利きで組むようにした。
柔道は2本の腕を「釣り手」「引き手」として使うが、一般的に引き手のほうが重要だといわれる。
「引く力の方が大事」なのだ。
右打ちのバッターが左打ちになるような感覚で、右利きの人間が左組みになると利き腕を引手にすることで強力に相手を崩すことができる。
また左利きは数が少ないため、右組みの人間は左組みの相手とやる機会が少なく不慣れだが、左組の人間は右組の人間とやることに慣れているというメリットもある。
斎藤仁も本来右利きで、それまで右手は相手の襟を握って釣り手として使っていたが、高校1年生から左手が釣り手、右手は引き手という左組みに変えた。
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また川野一成は斎藤仁に背負い投げを練習させた。
背負い投げは背の低い、体の小さな選手に適した技で、斎藤仁のような体の大きな重量級は、払い腰、内股、大外刈りなどをやるのが一般的。
しかし川野一成は
「斎藤仁の体の柔らかさと身体能力ならできる。
(払い腰、内股、大外刈りに加え)背負い投げもできれば柔道の幅が広がる」
と考え、徹底的に背負い投げを教えた。

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現在、高校柔道においては、全国高校柔道選手権(3月) 、金鷲旗高校柔道大会(7月、団体戦のみ)、インターハイ(8月)が3大メジャー大会。
斉藤仁の時代は全国高校柔道選手権(3月)はまだ行われていなかったので、その他の2つの大会が最大の目標だった。
1977年、国士舘高校は金鷲旗大会は3位だったが、インターハイで団体戦初優勝。
このとき唯一の2年生レギュラーだった斎藤仁は、決勝戦で代表戦に出て勝利。
高校3年生のとき、金鷲旗を準優勝に終わると川野一成は
「インターハイでは絶対に取り返す。
俺は命をかける。
お前らもかけろ」
といって以後、10日間、40度近い道場で連日、
「史上最高」
というキツい稽古を慣行。
そしてインターハイが開催される福島県会津若松に乗り込み、予選リーグを戦っている試合会場で川野一成は倒れた。
部員に集め、
「今までやってきたことをすべて出し切れ」
と言い残し意識を失った。
気がつくと病院で、看護師に
「先生、優勝しましたよ」
といわれた。
斎藤仁をはじめ部員にしてみれば
「先生が倒れたから絶対に負けるわけにはいかなかった」
という。
こうして国士舘高校柔道部は本当に命がけになりながらインターハイ2連覇。
斎藤仁は個人戦でも準優勝した。
「あの頃は、柔軟性を活かして、相手を跳ね上げて、根こそぎ持って1本をとりにいく。
そんな柔道でした」
(斎藤仁)
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国士舘大学体育学部へ進学した斉藤仁は、その年の10月、全日本学生選手権を勝ち進み、決勝戦で東海大学4年生の山下泰裕と初対戦。
6分半に及ぶ激闘の末、崩上四方固に抑え込まれ1本負け。
しかし大内刈りを返してグラつかせたり、寝技でも腕ひしぎ十字固めを外すなど健闘をみせたので、翌日、新聞に、
「山下ヒヤリ」
「山下康裕のライバル出現」
などと書かれ、注目された。
「山下先輩と初めて対戦したのは、俺が大学1年生のときで、山下先輩4年生のとき。
俺がたまたま決勝戦までいったんだよね。
で、山下先輩の技をたまたま返したんだよ。
ポイントにはならなかったけど。
そしたら次の日の新聞で負けた俺が1面よ。
『山下二世現る』とか、『ポスト山下、斎藤!』ときたわけ。
それからだよ、「俺は山下先輩の二世なんだ」「ポスト山下なんだ」と思うようになったの。
ということは、山下さん以外には負けられないと。
そこからのスタートだったんだよね。
それから頑張るしかない、やるしかないって。
心地よかったんだよ『ポスト山下』って。
ところが実力がついてきて、他の選手に負けなくなってきたときに、なんで俺はいつまでも『ポスト山下』とか『山下二世』なんだって。
「俺は国士舘の斎藤だ」という気持ちが出てきた。
だいたいよく考えたら、山下さん以外に負けられないと思っているうちは、山下先輩に勝てるはずがないんだよね。
それで、これじゃいかんという気持ちになった」
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1980年2月、19歳の斉藤仁は初の国際試合、ハワイで行われた環太平洋柔道選手権に出場。
ホテルで29歳の上村春樹(旭化成、1973、75年全日本優勝、1976年、モントリオールオリンピック無差別級で金)と同部屋となった。
上村春樹は斉藤仁のイビキで眠れなった。
試合の結果は、斉藤仁が3位。
上村春樹は1位だったが、この大会を最後に現役引退。
翌年、明治大学柔道部の監督、そして日本代表重量級コーチにもなった。
日本代表の合宿や明治大学の道場に斉藤仁が来ると熱心に指導した。
「彼は体が柔らかくパワーもあり柔道は豪快だったが、大雑把。
必殺技といえる得意技もなかった。
そのため高校時代に負けることもあったし、無敵というわけではなかった。
しかも国際大会に出て外国人と戦うようになるとパワーに頼るだけでは勝てません。
それで体落としや大内刈りなど自分より大きな相手を投げられる技をできるだけ多く身につけさせることにしました」
上村春樹は技の正確さを重視して指導。
畳の上にチョークで印をつけ
「まずここに足を置け」
「次はここ」
という風に、足の位置、足の運び方、重心移動をうるさいほど細かく指導し、踏み込む足が少しでもズレたら
「やり直し!」
上村春樹は、
「これを1ヵ月くらい練習すればスピーディーに技に入れるようになるだろうから、そのときまた来なさい」
といって送り帰したが、内心、
(才能がある選手は得てしてこういう地味な基本の反復は不得意だから、斎藤仁も続くかどうか・・・・)
と思っていた。
しかし斉藤仁は最初の技、体落としを1週間でマスターしてしまった。
何度も繰り返し、繰り返し、かなりの数をしかも正確に反復しなければできないはずで、斉藤仁の粘り強さに驚いた。
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こうして斉藤仁は、足の位置、足の運び方、重心移動、身体の動き、使い方を、mm単位で突き詰めるようになった。
下半身や腰だけでなく、腕や上半身の使い方も熱心に研究し工夫を重ねた。
「身体をいかに、よりうまく動かすか」
それを意識しながら練習し、桁違いの量をこなすようになった。
その後、山下康裕がいなくなった後、大学では敵なし。
シニアでも全日本選抜体重別選手権優勝、全日本選手権に2度出場した。
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国士舘大学を卒業し、同大学の体育学部助手となった直後の4月、全日本体重別選手権に3度目の出場。
準決勝で天理大学の巨漢学生、正木嘉美を大外刈、大内刈、体落し、背負投と攻め続け判定勝ち。
そして初対戦から4年後、ついにチャンスが訪れた。
決勝戦では山下泰裕と2度目の対決。
斎藤仁は投技で1本を狙っていたが、攻め込めない。
やがて組手争いで有利に立った山下泰裕が、試合場の隅に追い込んでからの大外刈りを連発。
試合終了間際、斎藤仁は大外刈りを小外刈りで返され、場外ながら尻もちをつき、自分の柔道ができないまま判定負けし2位。
しかし山下泰裕は驚いていた
「自分で『いった』と・・・
絶妙のタイミングで思い通りに大外刈りをかけたと・・・
それが効かなかったですね。
『いった』と思っていかなかったのは彼が初めてですね」
数ヵ月後、モスクワ世界選手権では山下康裕が95kg級で無差別級で斉藤仁が優勝した。

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