「夢で逢えたら」とは
「夢で逢えたら」(ゆめであえたら)は、大瀧詠一が作詞作曲、プロデュースした楽曲。
1976年、吉田美奈子、シリア・ポールが最初に歌っているが、一般的には吉田美奈子の代表曲として知られている。元々はアン・ルイスに書いた楽曲であったが、当時の彼女のスタイルに合わずにボツになる(のちにルイスも英語詞で歌うことになる)。
大瀧詠一について
はっぴいえんど時代
岩手県出身の大瀧詠一は、一度は上京して製鉄会社に就職しましたが、在籍期間3か月で退職してしまいます。早稲田大学第二文学部に入学し、友人からの紹介で細野晴臣と出会い、意気投合します。
その後、1969年に細野晴臣、松本隆、鈴木茂、大瀧詠一の4人ではっぴいえんどを結成しました。
遠藤賢司、岡林信康、加川良などのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音に参加しましたが、1971年にソロ活動を開始し、1972年にはアルバム「大瀧詠一」を発表しました。
その後、1969年に細野晴臣、松本隆、鈴木茂、大瀧詠一の4人ではっぴいえんどを結成しました。
遠藤賢司、岡林信康、加川良などのバックバンドとしても、コンサートやスタジオ録音に参加しましたが、1971年にソロ活動を開始し、1972年にはアルバム「大瀧詠一」を発表しました。
はっぴいえんど解散
はっぴいえんどは、活動期間3年、スタジオアルバム3枚、ライブアルバム1枚を発表して、1972年解散します。細野春臣はソロ活動のほか、プロデュース、YMOとしての活動をするようになり、松本隆はムーンライダーズとしての活動のほかに、作詞家、音楽プロデューサーとしても活動後に、作詞家として本格的に活動、「木綿のハンカチーフ」など多くのヒット曲を作っていきます。鈴木茂は、細野晴臣とのキャラメル・ママやティン・パン・アレーとしての活動の後、アレンジャーやセッションミュージシャンとして活動しています。
CMソングの制作
他のメンバーはそれぞれにソロ活動もしていましたが、大瀧詠一は当時異色だった、CMソングの制作と、若手ミュージシャンのプロデュースを始めました。
三ツ矢サイダーや出前一丁、ハウスプリンなど、数多くのCMソングを制作しており、後にナイアガラ・レーベルで、CMソングのアルバム「NIAGARA CM SPECIAL」を発表しています。
三ツ矢サイダーや出前一丁、ハウスプリンなど、数多くのCMソングを制作しており、後にナイアガラ・レーベルで、CMソングのアルバム「NIAGARA CM SPECIAL」を発表しています。
NIAGARA CM SPECIAL
数多くのCMソングを発表している大瀧詠一のNIAGARA CM SPECIALは、再編集され、vol1・vol2・SPECIAL ISSUE・2nd ISSUEなどが発売されています。
via www.ticro.com
ナイアガラ・レーベルの設立
1974年に、プライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約します。ナイアガラ・レーベルは大瀧が作詞・作曲・編曲・エンジニア・原盤制作・原盤管理を全て行うレーベルで、1975年にはっぴいえんど解散後初のソロアルバムの「NIAGARA MOON」を発表しました。ラジオ番組「ゴー・ゴー・ナイアガラ」も始まり、ソロ活動に精力的になったころ、エレックレコードの事業縮小により、契約が解除されてしまいました。ナイアガラ・レーベルの所属第1号アーティストは、山下達郎、大貫妙子などのシュガーベイブでした。
吉田美奈子への楽曲提供
1976年、「夢で逢えたら」は、吉田美奈子のアルバムに収録されます。当初はアン・ルイスに書いた曲でしたが、当時のアン・ルイスのスタイルに合わないということで没になります。デモ用の曲を吉田美奈子の関係者が聞き、是非吉田美奈子に歌わせたいと申し込みます。
大瀧は「アン・ルイスに作った曲だから、合わないのではないか」と伝えましたが、アルバムに収録されることになりました。後にアン・ルイスも英語でこの曲をカバーするようになります。
大瀧は「アン・ルイスに作った曲だから、合わないのではないか」と伝えましたが、アルバムに収録されることになりました。後にアン・ルイスも英語でこの曲をカバーするようになります。
シュガーベイブのメンバーとして活動する以前から、大瀧の活動に参加していた山下達郎の協力もあり、ファンキーな16ビート全盛の70年代に、時代遅れとも言われかねない60年代の音作りで、大瀧自身満足のいく作品となった「夢で逢えたら」は、シングルカットの要望もありましたが、実現せず、一般的に知られるところまではいきませんでした。
シリア・ポールの「夢で逢えたら」
大瀧詠一のよき理解者であるプロデューサーの朝妻一郎が、当時ラジオで活動していたシリア・ポールに「夢で逢えたら」をカバーさせることを提案します。
ラジオDJとしての若者への知名度と、60年代ポップスとの相性から考えられたものでしたが、大瀧自身はこれを機会に、ガールズ・ポップに取り組むことを考え、シリア・ポールをナイアガラ・レーベルに招き、大瀧作品とアメリカン・ポップのカバーを組み合わせたアルバム「夢で逢えたら」が完成しました。
ラジオDJとしての若者への知名度と、60年代ポップスとの相性から考えられたものでしたが、大瀧自身はこれを機会に、ガールズ・ポップに取り組むことを考え、シリア・ポールをナイアガラ・レーベルに招き、大瀧作品とアメリカン・ポップのカバーを組み合わせたアルバム「夢で逢えたら」が完成しました。