たこ八郎  ボクシング狂時代  少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位  傷だらけの栄光
2021年6月20日 更新

たこ八郎 ボクシング狂時代 少年時代の失明を隠し 捨て身のノーガード戦法で日本チャンピオン、世界ランキング9位 傷だらけの栄光

学校は週休2日。公園から危険遊具撤去。体罰オール禁止。オッサンは子供をみただけで不審者。洗濯機の安全性も高まって、脱水が終わってもフタがなかなか開かないから、手を突っ込んで指が折れそうになることもない。少子高齢化の日本では、過去の中国の1人っ子政策のように、子供は安全に大事にソフトに育っていく。そんな時代だからこそ、たこ八郎のようにクジけずハードに生きていきたいモノです。

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控え室に戻っても斉藤清作の怒りは収まらず壁を蹴った。
ファイティング原田がなだめてイスに座らせ鼻血をタオルで拭った。
その周りを記者が取り囲んだ。
「見せ場はこれからだった」
『チャチャイのパンチはどうでした?』
「俺には効かなかった」
『完敗ですか?』
「7回まではね。
10回やりゃわかんなかったよ」
『チャチャイはKO賞ないのかって余裕しゃくしゃくでしたが』
「KOじゃないよ、TKOだよ。
(殴り倒されて10カウント以内に立てなかったKO(KnockOut)負けと、第3者に試合を止められるTKO(TechnicalKnockOut))負けは、ボクサーにとってまったく違う)
冗談じゃないよ。
クリンチ賞でもやってくれ」
8R 44秒 TKO負け。
4回戦で1度、バッティングによるTKO負け(当時のルールではバッティングで試合続行が不可能と判断された場合、血を流した方が弱者であると負傷したほうがTKO負けとなった)を喫して以来、スリップダウン以外したことがなく、プロ3年で初めてレフリーのカウントを聞いた。
(この埋め合わせは必ずする。
10Rまでやらなきゃ勝負はわからないってことを見せつけないと気がすまない)
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1963年4月14日、チャチャイ・チオノイ戦から2ヵ月後、斎藤清作は、ビリー・ブラウンとノンタイトル戦で判定勝ちして再起を飾った。
この後、前王者の野口恭との初防衛戦が決まり、試合が近づくにつれ、毎晩、自分が敗れる夢をみるようになり、うなされて起きて、ホッとした。
今回は日本チャンピオンのタイトルがかかっていた。
無様に負けたチャチャイ・チオノイ戦に続き、野口恭に負けてタイトルを失えば、やっぱり棚ボタのラッキーチャンピオンだったと笑われてしまう。
不安になればなるほどジムでトレーニングに熱を入れ、練習に打ち込むことで恐れや不安から逃れようとした。
試合前夜、
「野口の拳が治っていなければいいのに」
と願い、その後、自分嫌悪に陥った。
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1963年5月17日、ビリー・ブラウン戦から1ヵ月後、タイトルを賭けて日本フライ級チャンピオン:斎藤清作と前王者、日本フライ級2位:野口恭とのリターンマッチが行われた。
試合前、茂野貞夫トレーナーは斎藤清作に
「野口の左は治っていないようだ。
いったん治っていたのをこないだ、また痛めたらしい」
と耳打ち。
すると斎藤清作の恐れは和らぎ
(片手で勝てると思っているのか)
と怒りがわき出し
(倒す)
と拳を握り締めた。
1R、両者の頭と頭がぶつかり、斉藤清作の額が割れた。
それは右側の髪の毛の生え際あたりで、血が右目に落ちてきた。
1R終了後、笹崎たけし会長に
「深いですか」
と聞くと
「前半で勝負しろ」
と返ってきた。
2R、傷が深いことを悟った斉藤清作は、ドクターストップを避けるために一気に攻めた。
野口恭のパンチで出血が増え、ほとんどみえなくなった。
野口恭も不調で、左右にステップしてサイドから攻撃すればよいのに、相手に容易に接近を許し、足を止めて打ち合い、真っ直ぐ後退してロープやコーナーに詰まった。
4R途中、レフリーが試合を止めて斉藤清作の額をドクターにチェックさせた。
「まだ大丈夫でしょう」
ストップをかけてもよいレベルの負傷だったが、止めると圧倒的に試合を進めているチャンピオンがTKO負けになってしまうので、判断は難しい。
ドクターの手当てを受けて視界がよくなった斉藤清作は、渾身のパンチを浴びせた。
5R、これ以上傷が開いて出血が増えるとTKO負けになってしまうと判断した斉藤清作は、最終ラウンドのつもりで打って出た。
野口恭も勝負を賭けてきたが、左のパンチを出すたびにうめき声が出てマウスピースがむき出しになった。
斉藤清作はグローブで血を拭いながら相手を追い、もはや体に触れて戦うしかないとばかりにコーナーに押し込んで、歯を食いしばって連打した。
ゴングが鳴って、引き返す斉藤清作をレフリーが引き止めてドクターのところへ連れていった。
「大丈夫ですよ」
斉藤清作は主張したが、レフリーはドクターに状態を聞いた。
ドクターが答えを出しかねていると
「これからだぞ」
「まだまだイケるぞ」
「やらせろ」
と熱狂した観客の野次が飛んだ。
そのとき野口恭のセコンドがレフリーに歩み寄っていった。
「棄権します」
斉藤清作は、5R TKO勝ちで初防衛に成功した。
試合後、野口恭の拳は全治2、3年という報道が出た。
事実上の引退だった。
それを知って
「しょうがないよ」
とつぶやく斉藤清作の額の傷も、長さ3.5cm、深さ3mmで骨まで達していて、少なくとも1ヵ月の休養が必要とされた。
以後、チャンピオンとして招待が増えたこともあり、毎晩、飲み歩いた。
1晩に2、3件重なることもあったが、どうせ誘いがなくても飲んでいると開き直って飲み、フラフラになって部屋に帰った。
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野口戦から2ヵ月後、15連勝中の新人で、日本フライ級7位の高山勝義戦と対戦。
「タオルは投げないで」
7R終了後、何もできず打たれ続けた斉藤清作は笹崎たけし会長に懇願した。
これまで打たせたのは作戦で、若く勢いのある相手を徹底的に疲れさすのに7Rかかった。
期せずチャチャイ・チオノイ戦と同じ展開で、斉藤清作は、あのときの悔しさと決意を思い出した。
(あのときも10Rまでやってたら勝負はわからなかったってことを証明してやる)
8R、高山勝義の手数が減り、足もスピードと動きを失っていた。
クリンチに逃れる高山勝義の耳元で
「お前のパンチは効いてないぞ」
とささやき、マウスピースを吐き捨ててニヤリと笑った。
高山勝義の顔が引きつり、怒りをこめたパンチを繰り出した。
斉藤清作は平然とそれを受け、一気に反撃。
足を失った高山勝義はかんたんに接近戦を許してしまい、コーナーに押し込まれ、クリンチ。
そしてホールドを強引に振りほどかれ膝から倒されてしまった。
斉藤清作の反撃開始に待ってましたとばかりに観客は熱狂した。
久しぶりの拍手と声援を浴びた斉藤清作は内からエネルギーが湧き出てきた。
「この瞬間のためにボクシングをやってきた」
9R、高山勝義はますます失速し、斉藤清作の攻撃が炸裂。
フックでマウスピースをフッ飛ばされた。
しかしラウンド終了間際、頭と頭がぶつかり、斉藤清作は額から出血。
右目に血が入ってきた。
「古傷ですか?」
ゴングが鳴りコーナーに戻り尋ねたが、笹崎たけし会長は無言で処置をした後、
「あと1回だ」
といった。
「倒さないと負けるぞ」
茂野貞夫トレーナーの声に斉藤清作はうなずいた。
(倒せる)
試合は最終ラウンドまでもつれ込んだ。
斉藤清作は、右でロープまでフッ飛ばして反動を利用してアッパーを突き上げた。
高山勝義は腰を落としかけながらクリンチ。
レフリーが割って入る。
グロッキーの高山勝義にとどめの1発を叩き込もうとした瞬間、不意に視界がボヤけた。
ラウンド前半、止まっていた血が右目を覆っていた。
高山勝義を追ってパンチを繰り出すがことごとく空を切った。
終了のゴングが鳴って、逆転KOを逃した斉藤清作は判定で負けた。
早々とリングを下りた。
頭は自然と垂れて足は定まらずフラフラだった。
「ノンタイトルだ。
気にするな」
茂野貞夫トレーナーは斉藤清作の耳元でいった。
「あのバッティングさえなければ倒せていたかもしれない」
という悔いが残った。
出血したのは野口恭とのリターンマッチで受けた古傷で全治2週間とされた。
こうして斉藤清作の体は、新たな爆弾を抱えることになった。
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高山勝義戦から1ヵ月後、斉藤清作はタイのフライ級チャンピオン:パンチップ・ケオスリヤと対戦。
ノーガード戦法で前進し玉砕した。
インファイトに持ち込もうと大きなモーションで踏み込み、まったくディフェンスがないためカウンターパンチをもらった。
これはいつものことだが、この試合は後半になっても打たれっぱなしで完璧な敗戦を喫した。
返り血でパンチップ・ケオスリヤも真っ赤になり、斉藤清作の見せ場は、8Rに口から血を吐きながら決めた右のロングフックを3発だけだった。
何度も自分に
「これからだ」
といい聞かせたが、最後まで体がいうことを聞かなかった。
高山勝義戦は負けたものの、最後まで相手を追い続け、あわや逆転と期待させたが、今回の試合はいいところをみせられなかった。
(追い込みがきかなくなってきたな)
(自分はもう終わっているのではないか)
(俺は今度こそダメになる)
試合後、自分の部屋に帰って酒を飲むと次々にネガティブな考えが浮かんできて頭がいっぱいになった。
1人、布団に入りこらえていると、やがて睡魔がそれを追いやって安らかになり
(このまま目が覚めないかもしれない)
と考えながら眠りに落ちていった。
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次の日の15時、電話で起こされ、出てみると笹崎たけし会長で、ジムに呼び出された。
夕方、ジムにいき、1週間後に試合を控え、汗をかいているファイティング原田を横目に事務室に入った。
「そこに座れ」
(笹崎たけし会長)
「体の具合はどうだ。
どこも悪くなうようだが」
(茂野貞夫トレーナー)
「はい、別に・・」
(斉藤清作)
「悪くないようにみえてわるいこともある。
どういう意味かわかるな」
「さあ」
「君に精密検査を受けてもらいたいんだ」
「えっ検査?
なんですか、それ」
「脳の状態を調べてもらうんだ。
最近はコミッションのほうでもうるさくなってきたもんでね。
ボクサーの健康管理が何より優先するという考え方さ」
「僕がどうして検査を」
「どうして?
それはお前が1番よく知っているだろう」
「大丈夫ですよ、僕は」
斉藤清作は動揺を必死に抑え答えた。
「あれだけ打たれて平気なやつはいないよ。
それに君の場合、これまでの蓄積がある。
何れ検査をしなければと思っていた。
別に恥ずかしいことじゃないだろう。
ひどいノックアウトを喰った場合は、誰でもやってるんだ」
「僕はノックアウトされていません」
「だから余計にいけないんだよ」
「手遅れにならないうちに、ここらで検査しておいたほうがいい」
「検査は受けません」
「お前・・・」
「とにかく受けてもらう」
「嫌です。
検査なんか受けるとよけいにおかしくなりそうですから」
「バカ者!
君にはなにをいっても通じないのか!」
「チャンピオンになってから勝てなくなった原因は何だと思う?」
「・・・・・」
「6回戦の頃のお前なら世界チャンピオンとやっても勝てたかもしれない。
俺は本気でそう思ってる。
4回戦の頃は原田より強かった。
それも確かだ。
しかし誰もが将来性は原田にあるとみた。
理由はお前のボクシングの短命を予想できたからだ」
「わかってます」
「わかっているなら検査を受けろよ」
「・・・・・」
「心配してるのは俺たちだけじゃない。
他のジムの連中もコミッション関係者もあんなボクシングしかできないんならやめさせたほうがいいとまでいってきている。
これまでお前のファンだった客の中にもみちゃいられないという人もいるんだよ」
「お願いです。
検査だけは勘弁してください。
お願いします」
「こわいのか」
「いえ・・・」
「そうだろう、お前。
もう自分でわかってるんじゃないのか」
「本当になんでもないんです
次の試合は必ずちゃんと勝ってみせますから」
「そこまでいうなら仕方ない。
今回だけは見送ろう。
ただし次の試合であんなボクシングをやったら、そのときは覚悟しろ」
梅津文雄が東洋太平洋ミドル級王座から、斉藤登が日本ミドル級王座から、そしてファイティング原田が世界フライ級王座から陥落し、斉藤清作は笹崎ジムで唯一のチャンピオンだった。
ジムを出ると外は夜になっていた。
「もうすぐ終わる。
俺のボクシングは終わる」
斉藤清作はつぶやいた。
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1963年11月14日、 堤五郎に判定勝ちし2度目の防衛に成功。
日本フライ級タイトルマッチで、チャンピオンの斉藤清作は、アマからプロに転向した新鋭、堤五郎と対戦。
高校時代のサウスポースタイルにスイッチするなど、これまでにないこともしながら乱打戦を制して2度目の防衛に成功。
故郷の人々に薦められ、苦竹駅から実家まで約2kmを徒歩でパレードを行い錦を飾った。
1964年4月2日、
3度目の防衛戦で、飯田健一に10回判定で敗れ、タイトルを失った。
飯田健一と壮絶な打撃戦の末、判定負けし王座陥落。
1964年4月3日、飯田健一戦の翌日、引退を表明。
24歳。
41戦32勝10KO8敗1分。
KO負けは1度もなかった。
引退届を出したときは
「負けて嬉しい」
という心境だった。

(1985年)たこ八郎 師匠の由利徹を楽屋見舞い

1964年4月4日、引退した翌日、由利徹の家を訪ね、再び土下座すると意外なほどあっさり認められた。
由利徹の家で住み込みの内弟子となり、付き人をしながら、由利徹の舞台で脇役として出演し演技を仕込まれていった。
由利徹は、行きつけの飲み屋「たこ九」から、
「多古八郎」
という芸名をつけようとしたが、斎藤清作が、
「先生、タコって漢字、僕、書けねえ」
って訴えたため
「たこ八郎」
となった。
公演後の打ち上げで由利徹が、女優を口説いて断られ
「カックン」
とやっているのをみて、酔ったたこ八郎は静かに笑った。
「由利徹ってのは、やっぱ日本一だね。
喜劇役者ったら由利徹しかいないね。
あんなにできる人、いない。
古典を知ってるから。
新しいもんだけじゃなく古いもんも知ってて、それが全部できていて、それを崩したりできるの。
動けるんだもん。
忠臣蔵の山崎街道でも、赤城の山の所作でもちゃんとやれるの。
赤城なんて、島田正吾、辰巳柳太郎をちゃんと使い分けるからね。
両方できんの」
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内弟子になって半年後、体に異変が起き始めた。
夜、寝ていると寝小便をするようになった。
排便コントロールを失って小便に大便が加わることもあった。
車に乗ると揺られてすぐに眠ってしまい、気がつくと失禁していて、車のシートがビショビショになっていた。
師匠と一緒にタクシーに乗っているときに後部座席で漏らしてしまい、シートに溜まった小便があふれて由利徹の靴に入ったこともあった。
あまりに寝小便の布団を干してばかりなので、由利の息子は
「自分がやったと思われるから止めてくれ」
と懇願した。
記憶障害と言語障害も出てきて、まったくセリフも覚えられず、なんとか覚えても満足にしゃべれなかった。
3年間、ノーガードで戦い、パンチを浴び続けた結果、脳と硬膜の間に血種ができて脳を圧迫することで起こったパンチドランカー症状の可能性が高かった。
「ボチボチ起きて掃除でもしてんのかなと思ったら、とんでもない、まだグーグー寝てんだ。
(部屋のドアを)開けたらよぉ、オシッコの臭いがプンプンすんだよ。
寝ションベンが大人のションベンだから、もうスゲエんだよ」
(由利徹)
「KO負けした選手は3ヵ月間から半年、試合ができないとか、いまは健康管理がキッチリしてますが、昔はないんですよ。
たこさんの時代は、1週間に2回試合したり、傷だらけのまま次の試合に出たりしてドンドン体をダメにしていっちゃう」
(渡嘉敷勝男)
 (2284153)

「師匠にこれ以上迷惑はかけられない」
26歳の斉藤清作は入門1年で由利徹の家を出た。
「いつでも戻ってこいよ」
由利徹はそういって送り出した。
直後、一郎あんちゃんが列車事故で死亡し、心の拠り所を失った。
たこ八郎は、由利徹の家を出た後、10年以上、友人の家を転々としながら、浅草のストリップやキャバレーでコントを演じた。
夜になると飲み歩き、居候している家に戻って寝ると寝小便。
友人達は決して邪険にせず
「たこちゃん、大丈夫か」
と面倒をみた。
売れていないのに毎晩、新宿ゴールデン街に飲み歩けたのも、多くの人にオゴッてもらえたから。
とても元プロボクサー、元日本チャンピオンにみえない容姿から、数人のチンピラにケンカを売られ、次々に眠らせ、留置場に入れられ
「過剰防衛だから気をつけるように」
と諭され釈放されたこともあった。
以後、腹が立つとズボンのポケットに手を突っ込むようにした。
パンチドランカーで住所不定、すごく困った人であるにも関わらず、なぜか多くの人に愛された。
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