松岡修造!!!  反骨の御曹司、リアルエースを狙え、ラケットを握ったサムライ
2018年1月15日 更新

松岡修造!!! 反骨の御曹司、リアルエースを狙え、ラケットを握ったサムライ

独特のキャラクターと熱血ぶりで「太陽神」と恐れ崇められる男。 その現役時代は世界の頂点に挑んだが、決して天才タイプではなく力んでしまう不器用なタイプの選手。 ボールを思い切り打って、ひたすらボールを追いかけるというスタイルは、決してスマートでなくケガも多かった。 しかしその感情を込めたパワーは圧倒的だった。

12,063 view
 (1964638)

勝利を決めた後、松岡修造は我を忘れて喜びを爆発させガッツポーズでコートの中を走った。
しかし相手への礼を忘れていたことに気づき、すぐに走っていってマイケル・ジョイスに非礼を詫び握手した。
そしてその後、コートに大の字に倒れこんだ。
 (1932929)

刀がラケットにかわっただけ 松岡修造はサムライ

95ウインブルドン【サンンプラスVS松岡修造】(1)

準決勝の相手は世界ランキング1位、この大会を2年連続優勝中のピート・サンプラスだった。
松岡修造は、次々とサービスエースを決め第1セットを取ったが、第2、3、4セットを取られ負けた。
松岡修造はコートに礼をしてウィンブルドンを去った。
 (1932884)

シュウゾウ・マツオカルール

 (1932912)

シューゾールールはここから生まれた

ウインブルドンの翌週にはアメリカで試合が始まった。
松岡修造は、全米オープンの前哨戦、ニューヨークでのチャレンジャーの大会で優勝。
ロングアイランドのハムレット杯でベスト8。
そして1995年のグランドスラム第4弾である全米オープンに向け調子を整えた。
1回戦は全豪オープンの優勝者のコルダ。
第1セットは取られたが、第2セットを逆転で奪い返し、第3セットも攻め続け勝った。
期待された第4セットだったが、第12ゲーム、松岡修造は両脚が痙攣し倒れた。
大腿から足首までがつった状態だった。
ルールでは、痙攣はケガとは認められず3分間のMTO(メディカルタイムアウト)の対象外。
誰も手を貸せないまま苦痛に苦しむ松岡修造はコートに放置された。
それどころか
「ウォーニング・マツオカ!」
と25秒ごとに延行為に対して警告が出され続け
「ポイントペナルティ、マツオカ!」
と最後には2分以内に試合を再開しなかったとして失格を宣告された。
主審がゲーム終了を告げ、トレーナーが松岡修造を抱き起した。
対戦相手のコルダも松岡修造の脚をアイシングするために氷を運んだ。
この模様は世界各国で放映され、翌日、松岡修造の痙攣による敗戦は全米でトップニュースとなった。
「痛がって倒れている選手に一方的にペナルティを課すなんて、こんな悲惨なことがあっていいのか?」
世論が起こり、その後、ルールが改正され、通称「シュウゾウ・マツオカルール」として試合中の痙攣治療にも認められるようになった。
しかしルール改訂後、これを悪用し試合中の大事な局面において痙攣を主張し戦略的にメディカルタイムアウトを取得する選手が現れたため、2010年シーズンからは「シュウゾウ・マツオカルール」は廃止され、新ルールでは痙攣を理由としたゲーム中のMTOは試合中に2回だけゲームチェンジかセット終了になるまでのゲームポイントを没収した上で治療を認めるという規則となった。

憧れのウィンブルドンのセンターコート

96ウィンブルドン【シュティッヒVS松岡修造】(5)

1996年、憧れだったウインブルドンのセンターコートがミヒャエル・シュティヒ戦で実現した。

96ウィンブルドン【シュティッヒVS松岡修造】インタビュー

卒業、そしてチャレンジ!

 (1932924)

松岡修造が笑顔で引退表明

1997年、29歳の松岡修造は記者会見を開き、プロテニス界からの卒業を発表。
引退ならぬ卒業としたのは、一生テニスで生きていきたいという気持ちから。
また同時に「修造チャレンジ」プランを発表した。
それはテニスを子供から大人、高齢者まで家族みんなで楽しむことのできるレジャースポーツとして全国に普及していき、家族のより良いコミュニケーションの場を提供するとともに、テニスの普及・活性化を通じて全国的なスポーツ文化の定着に寄与していく活動である。
また「修造チャレンジ」の活動の1つとして「トップジュニアキャンプ」がある。
日本のテニス人口は約1500万人。
これはアメリカに次いで世界2位。
しかし世界で活躍できる日本人選手は少ない。
12~14歳のジュニアの大会では日本人選手は世界と互角に戦えているが、それ以上の年齢になると世界と差が出てくる。
だから10歳以下の子供から選手育成を始め、12~14歳のジュニア選手の強化を進め、そのための指導者やトレーナーを育成し、設備が充実した施設をつくられた。
そして2001年には錦織圭もこれに参加した。
 (1932926)

101 件

思い出を語ろう

     
  • 記事コメント
  • Facebookでコメント
  • コメントはまだありません

    コメントを書く
    ※投稿の受け付けから公開までお時間を頂く場合があります。

あなたにおすすめ

関連する記事こんな記事も人気です♪

【テニス】同じ“ベスト8”でも錦織圭と松岡修造では賞金額に5倍の開き!?≪ウィンブルドン2015≫

【テニス】同じ“ベスト8”でも錦織圭と松岡修造では賞金額に5倍の開き!?≪ウィンブルドン2015≫

1995年のウィンブルドンで松岡修造がベスト8となったのは有名な話。もし今年のウィンブルドンで錦織圭がベスト8となった場合の驚きの賞金額は…?
ヤマダゴロー | 8,091 view
破産&収監?!テニス界の貴公子ボリス・ベッカーの名声と転落

破産&収監?!テニス界の貴公子ボリス・ベッカーの名声と転落

80年から90年代に一世を風靡した男子プロテニス選手のボリス・ベッカー。ウィンブルドン選手権で史上最年少の17歳で初優勝…あれから約40年。引退、破産、収監、それでも憎めないベッカー氏の名声と転落、女性遍歴などを動画javascript:void(0)を見ながら振り返ってみた。
テニス全米オープン決勝で“大坂なおみ”に破れた『セリーナ・ウィリアムズ』の半端ない凄さ!!

テニス全米オープン決勝で“大坂なおみ”に破れた『セリーナ・ウィリアムズ』の半端ない凄さ!!

9月8日(日本時間9日早朝)テニス・全米オープンの女子シングルス決勝戦で大坂なおみと対戦し惜しくも敗れてしまった、あえての『セリーナ・ウィリアムズ』選手に注目してみました。色々と調べてみると物凄い選手というのが分かりました。
ギャング | 6,150 view
「男子テニスライバル物語」往年の名勝負!男子テニス、トップ同士のライバル物語を振り返る。

「男子テニスライバル物語」往年の名勝負!男子テニス、トップ同士のライバル物語を振り返る。

かつての男子テニスライバル物語を憶えていますか?いつの時代にもトッププロのライバル物語が存在します。いまや堂々たる世界的テニスプレイヤーとなった錦織圭も、フェデラーVSナダルのような物語を紡ぐライバルが現れることでしょうね。
青春の握り拳 | 10,616 view
【男子テニス】1980年代のウィンブルドン決勝の組み合わせと優勝者を振り返る

【男子テニス】1980年代のウィンブルドン決勝の組み合わせと優勝者を振り返る

ウィンブルドンの決勝戦は特別です。タイトルを取った選手は最高の栄誉として認められるのです。今回は80年代の決勝を振り返り、その栄誉を手にした選手をまとめてみました。
bohemianrhapso1 | 25,084 view

この記事のキーワード

カテゴリ一覧・年代別に探す

あの頃ナウ あなたの「あの頃」を簡単検索!!「生まれた年」「検索したい年齢」を選択するだけ!
リクエスト