松岡修造!!!  反骨の御曹司、リアルエースを狙え、ラケットを握ったサムライ
2018年1月15日 更新

松岡修造!!! 反骨の御曹司、リアルエースを狙え、ラケットを握ったサムライ

独特のキャラクターと熱血ぶりで「太陽神」と恐れ崇められる男。 その現役時代は世界の頂点に挑んだが、決して天才タイプではなく力んでしまう不器用なタイプの選手。 ボールを思い切り打って、ひたすらボールを追いかけるというスタイルは、決してスマートでなくケガも多かった。 しかしその感情を込めたパワーは圧倒的だった。

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庭球物語 松岡修造20歳

1988年、20歳の松岡修造は、サテライトからはい上がり、世界ランキングは270位となり、上位クラスのチャレンジャーやグランプリの大会に出場するようになる。
1月、全豪オープンで予選を勝ち上がりグランドスラム初出場を果たす。
4月、ノーシードで出場したサントリー・ジャパン・オープンでは、1回戦で主催者推薦の土橋登志久を6-2, 6-3のストレートで、2回戦でジョナサン・キャンターを6-2, 6-4のストレートで、3回戦では世界ランキング7位のミロスラフ・メチージュを7-6, 6-3のストレートで破る番狂わせを起こす。
準々決勝ではジョン・マッケンローに敗れたものの、スコアは6-7, 6-7のストレートと善戦した。
これにより世界ランキングは一気に150位に上昇。
8月、ノーシードで本戦から出場した全米オープン1回戦を突破し、グランドスラム初勝利を挙げる。
9月、ソウルオリンピックアジア予選では、アジア強豪たちを次々とストレートで破り、オリンピック初出場を果たす。
(オリンピックはソウル、バルセロナ、アトランタと3大会連続出場。)
10月第1週、クイーンズランドオープンで準決勝まで進出。
10月第2週、スワン・プレミアム・オープンで準々決勝まで進出。
10月第3週、セイコー・スーパー・テニスで準々決勝まで進出。
世界ランキングは82位と大幅に上昇。
1976年に76位でシーズンを終えた九鬼潤以来12年振りの年間トップ100入りを果たした。
日本ランキングも1981年から7年連続トップだった福井烈を抜き1位となった。

1度目の大ケガ 復帰後、King of Qualifire(予選の王)と呼ばれる

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1989年、ニュージーランドのウェリントンで開催されたBPナショナル・チャンピオンシップで準優勝。
自身、初のグランプリトーナメント決勝進出、日本人選手としても九鬼潤以来13年振りの快挙だった。
しかしその直後、両膝が痛み出した。
両膝の半月板が損傷していた。
1989年4月、チューリッヒで手術を受け、その後、3ヵ月間、リハビリに専念した。
7月に試合復帰した。
しかし膝の痛みは消えていなかった。
術後の説明が、言葉の違いによって完全に理解できなかったことへの後悔、手術そのものへの不信感、そして何より膝の不安などネガティブな気持ちに支配され、何試合かしたがすべて1回戦負け。
世界ランキングは60位から120位へ転落。
再度、日本で内視鏡検査を受け、医師に
「痛みは出るだろうが症状はこれ以上悪くならない」
と説明を受けやっと安心できた。
10ヵ月間、1度も勝っていない松岡修造の世界ランキングは445位にまで落ちた。
1990年1月、松岡修造は全豪オープンに出場。
これに負けたら世界ランキングは900位まで落ち、ランキング1000~2000位のサテライトまで一歩手前となってしまう。
松岡修造は膝の痛みとテニスができる喜びを感じながら予選を勝ち抜いた。
その後、ウインブルドン、全米を含む11大会の予選をすべて勝ち抜き、世界ランキングを100位台に戻し「King of Qualifire(予選の王)」と呼ばれた。

2度目の大ケガ さあ、またこれで強くなれるぜ

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1990年10月、セイコースーパーテニス1回戦で左足足首靱帯断裂。
しかも3本ある靱帯がすべて切れていた。
すぐに手術を行った。
「さあ、またこれで強くなれるぜ、修造!」
22歳の松岡修造は、前回の大きなケガの経験からより強く、より前向きな人間になっていた。
手術の翌日からベッドの上で上半身のウエイトトレーニングを開始した。
1991年2月、左足首塵埃断裂から4ヵ月後に復帰し、2ヵ月で世界ランキングを100位以内に上げた。
7月のカナディアンオープンでは強豪のサンプラスを破ってベスト8進出。
1992年4月、韓国オープンで日本人初、もちろん自身も初のグランプリ大会優勝。
その後、6月のクイーンズクラブ大会準決勝で世界ランキング2位、ウインブルドンで2回優勝しているエドバーグと対戦し、魂を込めたボールを打ち、粘りに粘って最後はとうとう逆転勝利した。
ウェイン・フェレイラとの決勝戦ではフェレイラに敗れたが、世界ランキングは46位に上がった。
(これは2011年10月17日に錦織圭が更新するまで日本の男子選手が記録したシングルス最高位だった。)
2度の大きなケガから立ち直った松岡修造は一回りも二回りも大きくなっていた。

エドバーグに逆転勝利

3度目の悲劇

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1992年11月、フロリダのキャンプへ移動中、機内で寒気を感じた。
風邪くらいでは休めないので気にせずキャンプインしたが、しばらくすると喉が腫れ、口内炎ができ、発熱し、悪寒で震えが止まらなかった。
医師の診断は伝染性単核球症。
機内で空気感染したと思われるウイルス性の奇病だった。
あと少しで世界のトップに近づけるという矢先、松岡修造は東京に戻り入院した。
治療方法は安静しかなかった。
医者はいった
「完全復活は7か月後です。
安静にしていれば治るけど、ここで完全に治しておかないと、いつぶり返すかわかりません」
過去の膝や足首のケガは、手術翌日から患部以外のトレーニングができた。
だが今回はトレーニングできないので、退院後、もう1度体をつくり直さなければならない。
2ヵ月間、入院し、ランキングは200位近くまで落ちた。
筋力が落ちてしまうことを恐れた松岡修造は、医者の「7か月間、安静」という忠告を無視し3ヵ月後からトレーニングを再開した。
体を動かすと発熱したが、松岡修造という男は、必ず自分で決めたことをやり通そうとする。
マイナスの言葉を口にすることを禁止した。
猛暑の日も「暑い」とはいわず「暑いけどがんばろう」、体が痛い時も「痛いけど痛さを忘れることが自分を強くするんだ」と自分にいい聞かせた。
やがて体は順調に回復し本来の明るさも戻ってきた。
結局、闘病中、闘争心はまったく衰えなかった。
松岡修造は再々度、立ち上がった。

1995年のウィンブルドン 日本人の心理的な壁を壊した

松岡修造 ウィンブルドン 1995年 Wimbledon 1995 Shuzo Matsuoka

1995年6月30日、全英オープン5日目、プロ9年目、27歳、世界ランキング108位の松岡修造はウインブルドンの13番コートに立っていた。
6度目のウインブルドンは予選からの挑戦予定だったが、ケガで棄権した選手が出たため本戦からの出場となった。
過去5度のウインブルドンの成績は2回戦止まり。
しかし今回は1回戦で世界ランキング28位、チェコのノバチェク、2回戦ではバハマのノールズに勝ち、日本人として22年ぶりの3回戦進出を果たしていた。
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3回戦の相手は世界ランキング34位のアルゼンチンのハビエル・フラナだった。
「修造、大丈夫だ」
2回戦で切れた腹筋にテーピングを施し松岡修造は自分に言い聞かせ右拳を握りしめた。
1週間前、フラナはノッティンガムの大会で優勝していた。
同じ大会で松岡修造は3回戦で敗れていた。
格下だった。
松岡修造は最初から全力で攻め、第1セットは取った。
しかしその後、第2セット、第3セットをフラナに取られた。
もし第4セットを取られたら負けである。
第4セット、松岡修造は粘り第6ゲームを終えて3-3。
第7ゲームはフラナのサービスゲーム。
テニスはいかに自分のサービスゲームをとり、そしていかに相手のサービスゲームをリターンし破るかというゲームで、基本的にサービス側が有利である。
しかし松岡修造はなんとか耐えて30-30に持ち込んだ。
しかしその後、一気に2本サービスを抜かれてしまい、セットカウントは3-4にされた。
松岡修造はあきらめてしまいそうな自分の心を奮い立たせた。
「ここからだ!」
そのとき観客席から日本語で応援の声が聞こえた。
「松岡ぁー!」
松岡修造は大きく拳を上げてほほ笑んだ。
そして第8ゲームを取ってセットカウント4-4。
第9ゲームは松岡修造のサービスゲームだったが、フラナはすさまじいリターンをみせ松岡修造も必死に返した。
「ウッ」
と打ち返すたびに声が出た。
松岡修造の打ったボールがフラナの横を鋭く抜いて5-5となったときフラナが主審に抗議。
「ラリーの間、スタンドの皆さんは静かにしてください」
とアナウンスされた。
それほど松岡修造への声援が大きかった。
11ゲームはサービス権を持つフラナが取り5-6。
12ゲームも松岡修造のサーブをフラナが強烈にリターンし15-30とリード。
そして松岡修造はファーストサーブを外した。
「大丈夫、大丈夫」
ボールにむかっていい、セカンドサーブも安全を捨てて攻めた。
そのサーブをフラナはとどめを刺すようなリターンを返した。
「ウッ」
松岡修造はそれを打ち返した。
この後、ボールが松岡修造のラケットーに吸い込まれるように面白いようにボレーが決まり、6-6。
松岡修造は苛立つフラナを強気で攻め勝負をファイナルセットに持ち込んだ。
ファイナルセットの4ゲーム目、松岡修造のリターンがフラナを抜き、この試合で初めてフラナのサービスゲームを破った。
ノリノリの松岡修造は1球1球に魂を込め思い切り打った。
ボールに触れることができないフラナは両手を上げた。
ファイナルセット、5-3で迎えた第9ゲーム。
松岡修造のマッチポイント。
打ち込んだサーブはフラナに打ち返されたがアウトとなり、3時間を超えたフルセットの試合を松岡修造はモノにした。

この1球は絶対無二の1球なり

松岡修造 1995年ウィンブルドン4回戦最終ゲーム

4回戦の相手はマイケル・ジョイスだった。
ランキングは100位前後で松岡修造と同クラスの選手。
そしてお互い勝てばウインブルドンのベスト8である。
松岡修造は攻撃的テニスを続けた。
全力のファーストサーブが外れても、セカンドサーブも安全には打たない。
当然、ダブルフォルトが増えるが、エースも増える。
松岡修造が世界を相手に戦うとき武器になったのが、この攻撃的サーブだった。
ジョイスは吠える松岡修造の闘志に押されミスを連発した。
「この一球は絶対無二の一球なり。
されば、身心をあげて、一打するべし。
この一球一打に、技を磨き、力を鍛え、精神力を養うべし。
この一打に、いまの自己を発揮すべし。
これを庭球する心という。」
第1回全日本テニス選手権の男子シングルスで優勝しウィンブルドンやオリンピックにも出場した福田雅之介の言葉である。
プロテニスプレーヤーは1球1球に、さまざまな気持ちや願いを込めて打ち込むという。
どちらかというと力むタイプの松岡修造はまさに渾身の力と気持ちを込めて打った。
「この1球は絶対無二の1球なり!」
松岡修造は、この言葉を叫んでサービスを放ち、ウインブルドン、ベスト8進出を決めた。
1933年の佐藤次郎以来62年ぶりの快挙だった。
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