第1回プロ野球ドラフト会議(1965年)で1位指名を受けた選手のその後【セ・リーグ】
2020年5月12日 更新

第1回プロ野球ドラフト会議(1965年)で1位指名を受けた選手のその後【セ・リーグ】

日本のプロ野球において新人を獲得する制度としてドラフト会議が1965年から開始されました。ドラフト以降で1位指名を受けた選手はセパ両リーグ合わせて毎年12名。野球のスーパーエリートでもあるこのドラフト1位指名の選手がどうだったかを追ってみました。

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1965年度新人選手選択会議(ドラフト会議)

球団は連盟に獲得希望選手名簿を提出。名簿内では希望順に1番から12番も記載(プロ野球ドラフト会議#ドラフト制度の変遷も参照)。
1位指名選手限定で、希望順1番が他球団と重複でなければ指名交渉権確定。重複した場合は抽選。
抽選で外れた場合は希望順2番、駄目なら3番と進行・・・以下、再度の重複があればその度に抽選。
2位以下の指名選手はウェーバー方式と逆ウェーバー方式を採用。
ウェーバー方式による指名順は近鉄 - サンケイ - 東京 - 広島 - 阪急 - 大洋 - 西鉄 - 阪神 - 東映 - 中日 - 南海 - 巨人
指名選手数は1球団30名まで。

読売ジャイアンツ1位:堀内恒夫(投手・甲府商業高)

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オレはちゃんとした試合でなければ力が出ないんだ―最大のピンチに最高のボールを投げた男。打たれても、暴投しても、マウンドに立つと俄然試合を面白くした男。“悪太郎”“甲府の小天狗”といわれながらも、堀内恒夫は、素質と運と度胸に裏打ちされた強烈なプロ根性で立ち向った。巨人V9の大黒柱への限りない愛情をこめて、現役引退までの軌跡を克明に追った書き下ろし作品。

プロ入りまで

甲府市立甲府商業高等学校では1年生次から中堅手、控え投手として活躍。
1964年夏はエースとして西関東大会決勝に進出するが、熊谷商工に0-1で惜敗。
1965年夏も西関東大会準決勝で熊谷商工に敗れ、甲子園出場はならなかった。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1983年

<成績>
203勝139敗6セーブ

<主なタイトル>
最多勝利:1回 (1972年)
最優秀防御率:1回 (1966年)
最高勝率:3回 (1966年、1967年、1972年)

<表彰>
沢村栄治賞:2回 (1966年、1972年)
最優秀選手:1回 (1972年)
新人王 (1966年)
ベストナイン:2回 (1972年、1974年)
ダイヤモンドグラブ賞:7回 (1972年 - 1978年)※7年連続受賞は投手最長タイ記録(他は西本聖)
日本シリーズMVP:2回 (1972年、1973年)
日本シリーズ最優秀投手賞:4回 (1970年、1971年、1972年、1973年)
最優秀投手:2回 (1972年、1974年)
野球殿堂競技者表彰(2008年)
日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (1972年)[54]

引退後

引退した翌年の1984年から巨人の一軍投手コーチに就任。
1986年~1992年までは日本テレビなどの解説者として外から野球に関わる。
1993年~1998年までは長嶋茂雄監督の下で巨人の一軍投手コーチ、一軍ヘッドコーチを歴任。
1999年から2003年まで、日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。
2003年のオフに巨人の監督に就任。2005年に監督を辞任。
2006年~2016年までは日本テレビ野球解説者、スポーツ報知野球評論家に復帰。

2010年の参議院選挙に出馬し落選。2013年に繰り上げ当選となり、参議院議員となる。
2016年の参議院選挙に出馬するが落選。

現在は、週刊ベースボールなどに寄稿しており、解説者として活躍中。

中日ドラゴンズ1位:豊永隆盛(投手・八代第一高)

豊永隆盛 (コーチ)

豊永隆盛 (コーチ)

プロ入りまで

八代第一高校では、エースとして活躍。
1965年夏の甲子園県予選も準決勝で八代東高に敗れ、甲子園には出場できなかった。
卒業後は熊谷組への入社を希望していた。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1973年

<成績>
1登板

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

引退後

引退後は中日で打撃投手・スコアラーを務め、2008年に退団した。
現在は中日で同僚だった渡部司が主宰する「渡部野球塾」にてコーチを務める。
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