<現役生活>
1966年~1969年
<成績>
162試合 341打席 59安打 3本塁打 打率.193
<主なタイトル>
なし
<表彰>
なし
プロ1年目の1966年から主に三塁手として起用され、57試合に出場。2年目の1967年には三塁手として50試合に先発出場し。しかしその後は怪我もあって出場機会が減少、1969年オフに実働わずか4年で現役を引退。
1966年~1969年
<成績>
162試合 341打席 59安打 3本塁打 打率.193
<主なタイトル>
なし
<表彰>
なし
プロ1年目の1966年から主に三塁手として起用され、57試合に出場。2年目の1967年には三塁手として50試合に先発出場し。しかしその後は怪我もあって出場機会が減少、1969年オフに実働わずか4年で現役を引退。
引退後
引退後は、長年にわたり浜松市内でシニアリーグを指導し、1982年には全国優勝。1984年からは浜松南リトルシニアの監督を務めていた。
1991年のドラフト会議で、息子の佐野心が中日ドラゴンズから6位指名され、史上初めて親子でドラフト指名された。
1991年のドラフト会議で、息子の佐野心が中日ドラゴンズから6位指名され、史上初めて親子でドラフト指名された。
サンケイスワローズ:河本和昭(投手・広陵高)
1965年の1位指名でをしたのは、森安敏明選手(関西高)だった。森安選手は東映フライヤーズとサンケイスワローズが抽選を行い東映が交渉権を獲得したため、河本選手はいわゆる外れ1位だった。
抽選を外したサンケイは、河本選手を指名したが、入団を拒否されてしまった。河本選手は亜細亜大学に進学したが、プロ入りすることはありませんでした。
抽選を外したサンケイは、河本選手を指名したが、入団を拒否されてしまった。河本選手は亜細亜大学に進学したが、プロ入りすることはありませんでした。
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