あの偉大なスポーツ選手達が引退した時って何歳だったんだろう?もう”あの頃”の彼らの年齢を超えてしまった
2017年12月31日 更新

あの偉大なスポーツ選手達が引退した時って何歳だったんだろう?もう”あの頃”の彼らの年齢を超えてしまった

ボクシングや相撲、野球、サッカー、テニスなど、数多くのスポーツや格闘技で輝いた選手達。絶頂期で引退を決めた選手、怪我と戦いながら40歳を超えても第一線で活躍した選手。”あの頃”憧れた選手たちの引退年齢と成績をまとめた。

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1995 原辰徳 引退試合 引退セレモニー

生涯成績は通算1675安打、382本塁打、打率.279。
主なタイトルは打点王(1983年)。主な表彰はMVP(1983年)。

ベストナインには5回 (三塁手部門:1983年、1987年、1988年 外野手部門:1990年、1991年)、ゴールデングラブ賞にも2回 (三塁手部門:1987年、1988年)選出されている。

伊達公子 1996年9月24日【25歳】

1970年9月28日生まれ。京都府京都市上京区出身。

6歳からテニスを始め、高校卒業後の1989年にプロ転向。1990年の全豪オープンで4回戦進出、1991年には全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を飾った。

その後もWTAアワードの「最も上達した選手賞」を受賞するなど、飛躍を遂げ、1994年にはついに日本人の女子テニス選手として、史上初の世界トップ10入りを果たした。
伊達公子

伊達公子

※書籍:晴れのちテニス―伊達公子のプロツアー転戦記
1995年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成。この時の準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映されている。
この試合は敗れたものの、11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。

1996年は、ウィンブルドンで日本人初の決勝進出をかけ、準決勝で何度も対戦してきた女王シュテフィ・グラフとの一戦に臨んだ。試合は日没順延となり、翌日に持ち越されるもグラフに競り負け た。

伊達はその年の9月24日に現役引退を発表。世界ランキング8位での引退であった。

その後、2008年4月に12年ぶりに現役に復帰。伊達は37歳にして復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語った。

伊達公子引退会見

生涯成績は、634勝410敗(シングルス 450勝268敗、ダブルス 184勝142敗)。
ツアー14勝(シングルス 8勝、ダブルス 6勝)。

アントニオ猪木 1998年4月4日【55歳】

1943年2月20日生まれ。神奈川県横浜市鶴見区出身。

実家の石炭問屋の倒産後、ブラジルへと渡りサンパウロ市でコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働をこなした。そして、ブラジルへ遠征していた力道山にスカウトされ、帰国し日本プロレスに入団した。

1966年には自身をエースとする東京プロレスの設立(数か月で破産)や新日本プロレス設立するなど、プロレスの発展に尽力する。
また、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜し、ボクシングのヘビー級王者モハメド・アリとの世紀の一戦を行うなど、枠にとらわれないレスラーとなる。
アントニオ猪木

アントニオ猪木

※書籍:真実 (DVD付き)
1994年5月、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。

1998年4月4日、東京ドームでの引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、ドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。

引退のスピーチでは数万人のファンの前で「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。あまりにも有名な「迷わず行けよ、行けばわかるさ」「ありがとー!」の後、10カウントゴングを聞き、リングを降りた。

猪木引退 ~道~‐ニコニコ動画ββ

通算成績はシングル戦 - 612勝41敗50分、タッグ戦 - 1466勝104敗130分。

主な獲得タイトルは東京プロレスでUSヘビー級王座を1回、日本プロレスでUNヘビー級王座を1回、新日本プロレスで世界ヘビー級王座を1回。他多数。

岩崎恭子 1998年9月【20歳】

1978年7月21日生まれ。静岡県沼津市出身。

1992年のバルセロナオリンピック、競泳女子200m平泳ぎで、金メダルを獲得し一躍時の人となった岩崎恭子。
当時は前年の世界水泳選手権やパンパシフィック水泳選手権でメダルを獲得していた千葉すずが、日本の期待を一身に集めており、岩崎は全くの無名の選手であった。

競泳では史上最年少(14歳6日)の金メダル獲得(2011年8月現在も競泳最年少記録)で、日本選手としての五輪メダル獲得の最年少記録でもあった。レース直後のインタビューで「今まで生きてきた中で、一番幸せです。」と語った事もインパクトを持って伝えられた。
岩崎恭子(右)

岩崎恭子(右)

書籍:母と娘が見つけたほんとうの金メダル
その後、メディアの取材攻勢やストーカー、嫌がらせの電話が続き、練習に集中出来ないばかりか「金メダルなんか取らなければ良かった」と後悔するようになったという岩崎。
記録も伸びず、スランプに陥ってしまったが、それでも持ち直し、1996年のアトランタオリンピックにも出場した。

結果は200m平泳ぎは10位、100m平泳ぎは予選落ちに終わり五輪2大会連続でのメダル獲得はならなかった。

高校卒業後は、日本大学心理学部に入学した。1998年に伝染性膿痂疹を発症した影響から、同年9月の日本学生選手権で現役を引退した。

岩崎恭子14才「バルセロナの奇跡」

バルセロナオリンピックの200m平泳ぎ、タイムは2分26秒65だった。これは当時の五輪新記録であり、岩崎の生涯ベスト記録となった。
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