桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース
2019年10月4日 更新

桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース

本来、「すみませんでした」という謝罪は「澄みませんでした」 ということ。そういう意味で桑田真澄はほんとうに澄んだ男なのかもしれない。数字や勝ち負けなどの結果や巨額の年俸がクローズアップされやすいプロ野球において、「結果はクソ」とプロセス主義を貫き、「試練や困難は自分を磨くための砥石」「努力している自分が好き 」と自分を磨くこと「人間力」を上げることを人生の価値とした。そしてライバル清原和博同様、スケールの大きな、そして好対照な野球道を歩んだ。

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急がば回れ

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桑田真澄は、目の前のことを全力で行うが、決してその成果は急がなかった。
意識は、目先のことではなく、何年か先の大きな成果に向いている。
球種も、PL時代はストレートとカーブだけだった。
プロ2年目から増やしはじめて、
最終的には、ストレート、カーブ、スライダー、シュート、フォーク(サンダーボール)と5つの球種を身につけた。
この球種の増やし方もゆっくりだった。
2年に1種ずつ、まずスライダーを覚え、ストレート、カーブ、スライダーで2年やって、体を慣らしてからシュート。
シュートも2年かけて慣らし、それからフォーク(サンダーボール)を投げ始めた。
PL高校で甲子園をストレートとカーブだけで20勝挙げた事実と自信が、こうした独特の球種の増やし方になっているのかもしれない。

「結果はクソ」

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桑田真澄は、たとえ成績が悪くても、自分が努力できたシーズンは
「よくやったな。」
と思え、逆に、たとえ成績が良くても、自分が努力できなかった、成長できなかったシーズンは
「なにやってるんだ。」
と落ち込んでしまう。
一般的に「プロは結果」。
しかし、桑田真澄は、
「結果はクソ!」
といい放ち、徹底的な「結果よりプロセス」主義を貫く。
高い目標に向かっていかに努力するか。
その過程(プロセス)こそ重要。
たとえ結果が出なくても前向きに努力し自分が磨くことができたならそれでOK。
皮肉にも、そういった考え方や姿勢が、数々の記録を打ち立てた。
考えてみれば、結果よりもプロセスを重点を置くことで結果がついてくるというのは、矛盾なようであって必然なのかもしれない。

目の前のことがパーフェクト

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桑田真澄は、常に感謝しながら野球をする。
勝っても感謝、負けても感謝。
すべては将来の自分のプラスになる、自分を磨く砥石。
だから感謝。
「一球入魂」というけれど、大事な場面では、ワンストライクとったらボールに向かって
「ありがとうございます。」
ワンアウトとったら
「ありがとうございます。」
とボールとおしゃべりすることもあった。
同じように、桑田真澄には、「目の前に起こったことはパーフェクト」という考え方がある。
嫌なことがあっても、いいことがあっても、なんでも起こったことは、それがパーフェクト。
サヨナラホームランを打たれても、誤審をされても、
「目の前で起こったことは、すべてパーフェクト」
怒ることも凹むこともない。
エラーをした味方に
「バカ野郎」
と思ってしまったときは、
「自分の気持ちの持ち方のミス」
「自分の人間力の弱さ」
「なんでエラーした選手に今度は頼むぞと大きな気持ちになれなかったのか」
と反省する。

桑田ロード 「努力している自分が好き 」

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1995年6月15日、阪神タイガース戦の3回表、湯舟敏郎の放った三塁線沿いの小フライを捕ろうとして、右肘を強打。
6回途中まで投げた続けたが、後の検査で、右肘側副靭帯断裂の重傷を負っていたことがわかった。
アメリカで、トミー・ジョン手術(自分の左手首から健全な靭帯を移植する手術)を受けた。
術後、ボールが投げられない期間が長く続いた。
桑田真澄は、
「ボールは投げられなくても下半身は鍛えられる。」
と球場のグラウンドをひたすら走った。
走り続けた外野の芝生は、剥げ上がり、「桑田ロード」 と呼ばれるようになった。
桑田真澄は、
「自分を励まし、励まし頑張っている自分自身の姿が最高に好き。」
だという。
そして
「調子が悪い時こそ、自分に言い聞かせ頑張ることが大事だし、幸せなこと」
だという。
いいときも悪いときも、とにかく自分の未来を信じ、とにかく頑張るしかない。
そして努力していれば、自分が好きになれる。


661日ぶりのカムバック、KKコンビ復活

桑田真澄の661日

1997年シーズン、巨人は開幕からヤクルトに2連敗。
4月6日、絶対負けられない3戦目、先発に立ったのは桑田だった。
1995年6月の試合で右肘を負傷して以来、661日ぶりのカムバックだった。
18~29歳まで11年間、西武ライオンズに在籍し、8回のリーグ優勝、6回の日本一を経験し、1996年、FA(フリーエージェント、自由契約選手となり、国内外どの球団とでも契約交渉ができる)を宣言し、今シーズンより巨人に入団した清原はそれをファーストからみていた。
(あいつはマウンドと話してるんや。
いつもそうやった。
ボールと話す奴なんや)
桑田が投げた球を、先頭打者がゴロを打ち、野手が捕球し、清原に送られた。
(これや!)
清原は西武時代に感じた違和感を理解した。
オールスターや日本シリーズで桑田と対戦したが、やはり敵として桑田をバッターボックスからみるのは何か違った。
やはりファーストから桑田をみて、一緒に守ることこそ自分の役目だった。
3回表、2対0から1点返され2対1。
ヤクルトのバントがフライになったのをみると桑田は迷わずダイビングキャッチしにいった。
観客席から悲鳴が上がった。
2年前、同球場で、同じようにフライをダイビングキャッチして桑田は右肘の靱帯を切ったのだ。
しかし桑田は躊躇しなかった。
(昔のままやな。
待ってろ。
オレが一振りで楽にしてやる)
3回裏2アウトで清原に打順が回ってきた。
そして初球を東京ドームのスタンドに叩き込んだ。
清原の移籍第1号を打ち、桑田は6回を1失点に抑えて683日ぶりに勝利投手となった。
2人はヒーローインタビューに立った。
「一生忘れられない日になりました」

お前の球があかんかったらオレがいうたる

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2001年7月18日の阪神戦で桑田は2ヵ月ぶりに先発。
しかし阪神打線にめった打ちにされて6回で降板させられた。
試合後、ホテルに帰るとまったく動けず、ユニフォーム姿のままベッドに座り込みうなだれていた。
1997年4月6日にケガから661日ぶりに復帰し、1998年は、9年ぶりに開幕投手となり、前年度、1試合の投球数に制限が設けられていたものを取り外され、7完投をマークし16勝を挙げた。
しかし1999年は8勝9敗5セーブ、2000年は5勝8敗、そして2001年シーズンも成績は低迷していた。
落ち込む桑田の部屋を清原が訪ねてきた。
(こいつやめる気やな)
そう思った清原はいった。
「とりあえず着替えろよ」
「うん」
しかし桑田はなかなか着替えようとしない。
「お前、まさか変なこと考えてんちゃうか?」
「いやあ・・・」
「お前がやめるときはオレが打席に立つ。
それでお前の球があかんかったらオレがいうたる。
あんな阪神に打たれたくらいで結果を出すな。
そんな格好しとらんで、はよ風呂入れ」
翌2002年、桑田は復活し、12勝6敗と4年ぶりの2桁勝利、防御率2.22、15年ぶりの最優秀防御率のタイトルを獲った。

巨人引退 39歳70日、ヤンキースタジアムのマウンドに立つ

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