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1年生の5月、沖縄の興南高校との練習試合に清原和博は代打で出場。
ピッチャーは、後に阪神タイガースに入る仲田幸司だった。
1打席目はデッドボール。
カーブが全然みえず足に当たった。
2打席目は、とにかくストレートを狙い、2塁打を放った。
6月に入ると夏の甲子園に向けて、練習は量も質も上がっていった。
練習中は一滴も水を飲むことは禁じられた。
レギュラー陣の練習が苛烈になり、その他の者はそのサポートに徹した。
7月中旬、夏の甲子園の大阪地区予選が開始。
1回戦から入学約3ヵ月、1年生の清原はレギュラー、しかも4番に大抜擢された。
桑田も4回戦で吹田高校を2安打に抑え完投。
それまでは控え投手だったが、この試合以後、事実上のエースとなった。
7月31日、決勝戦が行われ、PL学園は大阪予選を制した。
翌日、8月1日にはPLの花火大会が行われた。
夏の甲子園大会が始まると、PL学園は、1回戦で所沢商業、2回戦で中津工業、3回戦で東海大一高、準々決勝で高知商業を下し、ベスト4に進出。
準決勝の相手は、夏春2連覇中の池田高校だった。
清原は、水野雄仁(後に巨人)に4打席4三振だったが、桑田は、ホームランを打った上(この大会で桑田は2ホーマー)、池田高校に1点も与えず、PL学園は7対0で圧勝した。
1983年の夏の甲子園の決勝戦は、PL学園 vs 横浜商業となった。
清原は1打席目でホームランを打った。
甲子園第1号だった。
そしてチームも3対0で勝ち優勝した。
清原と桑田は、「KKコンビ」と呼ばれ、練習グラウンドには、たくさんのマスコミと観客、女性ファンが来るようになった。
しかし清原も桑田もレギュラーになったからといって特別扱いはなく、1年生として寮での雑用や仕事をこなし、試合に出るということを繰り返した。
決勝戦の前日も夜の洗濯をしていた。
ピッチャーは、後に阪神タイガースに入る仲田幸司だった。
1打席目はデッドボール。
カーブが全然みえず足に当たった。
2打席目は、とにかくストレートを狙い、2塁打を放った。
6月に入ると夏の甲子園に向けて、練習は量も質も上がっていった。
練習中は一滴も水を飲むことは禁じられた。
レギュラー陣の練習が苛烈になり、その他の者はそのサポートに徹した。
7月中旬、夏の甲子園の大阪地区予選が開始。
1回戦から入学約3ヵ月、1年生の清原はレギュラー、しかも4番に大抜擢された。
桑田も4回戦で吹田高校を2安打に抑え完投。
それまでは控え投手だったが、この試合以後、事実上のエースとなった。
7月31日、決勝戦が行われ、PL学園は大阪予選を制した。
翌日、8月1日にはPLの花火大会が行われた。
夏の甲子園大会が始まると、PL学園は、1回戦で所沢商業、2回戦で中津工業、3回戦で東海大一高、準々決勝で高知商業を下し、ベスト4に進出。
準決勝の相手は、夏春2連覇中の池田高校だった。
清原は、水野雄仁(後に巨人)に4打席4三振だったが、桑田は、ホームランを打った上(この大会で桑田は2ホーマー)、池田高校に1点も与えず、PL学園は7対0で圧勝した。
1983年の夏の甲子園の決勝戦は、PL学園 vs 横浜商業となった。
清原は1打席目でホームランを打った。
甲子園第1号だった。
そしてチームも3対0で勝ち優勝した。
清原と桑田は、「KKコンビ」と呼ばれ、練習グラウンドには、たくさんのマスコミと観客、女性ファンが来るようになった。
しかし清原も桑田もレギュラーになったからといって特別扱いはなく、1年生として寮での雑用や仕事をこなし、試合に出るということを繰り返した。
決勝戦の前日も夜の洗濯をしていた。
熱闘甲子園
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夏の甲子園が終わると9月上旬の春のセンバツの予選に向けて練習が始まった。
大阪大会の3位以内に入り近畿大会に進み、大阪、兵庫、奈良、京都、和歌山、滋賀から選ばれた16校の中から7校が甲子園行きの切符を手にする。
11月にすべての大会が終わり2月1日にセンバツ出場校発表。
3月下旬から、春のセンバツが始まる。
こうして地獄のような1年が過ぎ、2年生のなると新入部員が入ってきて仕事から解放される。
洗濯もスパイク磨きも食事の用意も、全部後輩がしてくれる。
「3年神様、2年平民、1年奴隷」
といわれ耐えて続けていれば部屋でお菓子を食べたり、ウォークマンを聴いたりできるようになっていく。
ただしレギュラー争いは激化し、焦りと不安は増大していく。
清原と桑田は、1年生の夏の甲子園から3年間、春夏すべての甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回というすごい戦績を残した。
しかし1983年、1年生の夏に優勝した後は
1984年春 - 決勝敗退
1984年夏 - 決勝敗退
1985年春 - 準決勝敗退
と2年生の春から3年生の春までは頂点に立つことはできなかった。
1年生は抑圧され、必死に耐え、気づかないうちに優勝していたが、2年生になり解放されると逆に甲子園で勝つことが難しくなった。
大阪大会の3位以内に入り近畿大会に進み、大阪、兵庫、奈良、京都、和歌山、滋賀から選ばれた16校の中から7校が甲子園行きの切符を手にする。
11月にすべての大会が終わり2月1日にセンバツ出場校発表。
3月下旬から、春のセンバツが始まる。
こうして地獄のような1年が過ぎ、2年生のなると新入部員が入ってきて仕事から解放される。
洗濯もスパイク磨きも食事の用意も、全部後輩がしてくれる。
「3年神様、2年平民、1年奴隷」
といわれ耐えて続けていれば部屋でお菓子を食べたり、ウォークマンを聴いたりできるようになっていく。
ただしレギュラー争いは激化し、焦りと不安は増大していく。
清原と桑田は、1年生の夏の甲子園から3年間、春夏すべての甲子園に出場し、優勝2回、準優勝2回というすごい戦績を残した。
しかし1983年、1年生の夏に優勝した後は
1984年春 - 決勝敗退
1984年夏 - 決勝敗退
1985年春 - 準決勝敗退
と2年生の春から3年生の春までは頂点に立つことはできなかった。
1年生は抑圧され、必死に耐え、気づかないうちに優勝していたが、2年生になり解放されると逆に甲子園で勝つことが難しくなった。
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桑田真澄は、、高校3年間で5回しかチャンスがない甲子園に5回出場、優勝2回、準優勝2回、ベスト4を1回という経験をしたが、春の甲子園は50日前から、夏は100日前からお参りを行った。
通常は6時30分起床だが、この期間は5時30分に起床し、まずトイレ掃除をし、グラウンドの草ぬきをしてからお参りに行った。
このトイレ掃除が楽しく、すごく気持ちよかった。
だからその後も桑田真澄は、機会があればトイレ掃除をした。
プロになっても、負けたら便器を磨いた。
便器を磨いて、練習して、便器を磨いて、練習して・・・
そんな自分が好きだった。
通常は6時30分起床だが、この期間は5時30分に起床し、まずトイレ掃除をし、グラウンドの草ぬきをしてからお参りに行った。
このトイレ掃除が楽しく、すごく気持ちよかった。
だからその後も桑田真澄は、機会があればトイレ掃除をした。
プロになっても、負けたら便器を磨いた。
便器を磨いて、練習して、便器を磨いて、練習して・・・
そんな自分が好きだった。
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1985年の夏の甲子園は、最後のチャンスだった。
すさまじい執念をもって乗り込んだ甲子園でPL学園は爆発した。
1回戦はシードで不戦勝。
2回戦、東海大山形、29対7。
3回戦、津久見高校、3対0。
準々決勝、高知商業、6対3。
準決勝、甲西高校、15対2。
そして決勝戦は、宇部商業高校だった。
春の選抜大会の2回戦で対決し6対2で勝っているチームだった。
宇部商業の先発は、エースの田上昌徳ではなく、「背番号11」の古谷友宏。
初回、古谷は1死2塁のピンチで迎えた清原をセンターフライで抑えると、2回表、宇部商業が1点を先制。
4回裏、清原は第2打席でレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点弾。
6回表、宇部商業が3対2と逆転。
直後の6回裏、清原が第3打席でバックスクリーン左横に飛び込む、この試合2本目の同点ホームラン。
試合を実況していた植草貞夫は叫んだ。
「甲子園は清原のためにあるのか」
3対3のままで試合は進み、9回裏Pl学園の攻撃も既に2アウト。
このまま延長戦突入かと思われたとき、2番の安本選手がセカンドとセンターの間に落ちるポテンヒットで出塁。
打席に3番、キャプテンの松山選手が入ると、ランナーは盗塁で2塁に進塁。
カウントは2-3。
古谷投手は投げる前に振り返って後方の味方に声を出した。
「2アウト―」
ネクストバッターズサークルには清原がいる。
この日ノーヒットの松山を歩かせるわけにはいかない。
そんな意識が働いたのか、古谷投手の投げた速球は真ん中寄りに入った。
松山が打った打球は右中間を抜けていった。
こうしてPL学園は、サヨナラ勝ちした。
すさまじい執念をもって乗り込んだ甲子園でPL学園は爆発した。
1回戦はシードで不戦勝。
2回戦、東海大山形、29対7。
3回戦、津久見高校、3対0。
準々決勝、高知商業、6対3。
準決勝、甲西高校、15対2。
そして決勝戦は、宇部商業高校だった。
春の選抜大会の2回戦で対決し6対2で勝っているチームだった。
宇部商業の先発は、エースの田上昌徳ではなく、「背番号11」の古谷友宏。
初回、古谷は1死2塁のピンチで迎えた清原をセンターフライで抑えると、2回表、宇部商業が1点を先制。
4回裏、清原は第2打席でレフトのラッキーゾーンに飛び込む同点弾。
6回表、宇部商業が3対2と逆転。
直後の6回裏、清原が第3打席でバックスクリーン左横に飛び込む、この試合2本目の同点ホームラン。
試合を実況していた植草貞夫は叫んだ。
「甲子園は清原のためにあるのか」
3対3のままで試合は進み、9回裏Pl学園の攻撃も既に2アウト。
このまま延長戦突入かと思われたとき、2番の安本選手がセカンドとセンターの間に落ちるポテンヒットで出塁。
打席に3番、キャプテンの松山選手が入ると、ランナーは盗塁で2塁に進塁。
カウントは2-3。
古谷投手は投げる前に振り返って後方の味方に声を出した。
「2アウト―」
ネクストバッターズサークルには清原がいる。
この日ノーヒットの松山を歩かせるわけにはいかない。
そんな意識が働いたのか、古谷投手の投げた速球は真ん中寄りに入った。
松山が打った打球は右中間を抜けていった。
こうしてPL学園は、サヨナラ勝ちした。
運命のドラフト会議
【巨人・桑田!】85プロ野球ドラフト会議 1位入札【清原6球団】
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清原と桑田は卒業後も野球を続けるため、甲子園の後に行われた国体後もPL学園のグラウンドで練習を続けた。
そのときに1度だけ進路について話し合った。
「俺はプロ野球に行く。
第1志望は巨人や」
清原がいうと、桑田は
「早稲田大学に進む」
といった。
清原は、巨人に入ることを望んでいた。
このときの巨人は王貞治監督の2年目。
1983年に優勝したが、王貞治が監督になった1984年、1985年は2年連続で3位に低迷していた。
清原は子供のころから目標だった王が監督になったことに運命を感じていた。
「オレが王監督を助ける!」
王貞治が
「清原君が木のバットで打つ姿が見たい」
とコメントしたことを知ると国体で清原は監督の許可を得て木のバットを使用した。
そして国体後、巨人への入団希望を報道陣の前で発表した。
11月のドラフト会議までに各球団のスカウトが清原に接近したが、その中には巨人もいた。
「もしウチが1位指名したら来てくれますか?」
「はい、よろしくお願いします」
うれしくて飛び上がりそうになりながら清原と両親は3人で頭を下げた。
ドラフト会議において、ある選手を複数の球団が指名した場合、交渉権はクジ引きで決まる。
仮に12球団が指名すれば、その確率は1/12となる。
指名された選手は意中の球団でなければ入団を拒否できる。
例えば、江川卓は、1973年に阪急ブレーブスに1位指名されたが拒否して法政大学へ進学。
1977年に福岡クラウンライターライオンズに1位指名され拒否してアメリカ留学。
1978年に巨人に入団した。
清原は、もし巨人が交渉権を獲得できなければ、阪神。
それもなければ社会人野球(日本生命)に進むつもりだった。
桑田真澄は、春の甲子園は50日前から、夏は100日前からお参りを行ったが、
同様にドラフトの100日前からお参りをした。
(巨人に指名されたらプロ入り。
指名されなければ早稲田大学へ進学)
そう決めていた。
「僕にとって最高の道をください」
そのときに1度だけ進路について話し合った。
「俺はプロ野球に行く。
第1志望は巨人や」
清原がいうと、桑田は
「早稲田大学に進む」
といった。
清原は、巨人に入ることを望んでいた。
このときの巨人は王貞治監督の2年目。
1983年に優勝したが、王貞治が監督になった1984年、1985年は2年連続で3位に低迷していた。
清原は子供のころから目標だった王が監督になったことに運命を感じていた。
「オレが王監督を助ける!」
王貞治が
「清原君が木のバットで打つ姿が見たい」
とコメントしたことを知ると国体で清原は監督の許可を得て木のバットを使用した。
そして国体後、巨人への入団希望を報道陣の前で発表した。
11月のドラフト会議までに各球団のスカウトが清原に接近したが、その中には巨人もいた。
「もしウチが1位指名したら来てくれますか?」
「はい、よろしくお願いします」
うれしくて飛び上がりそうになりながら清原と両親は3人で頭を下げた。
ドラフト会議において、ある選手を複数の球団が指名した場合、交渉権はクジ引きで決まる。
仮に12球団が指名すれば、その確率は1/12となる。
指名された選手は意中の球団でなければ入団を拒否できる。
例えば、江川卓は、1973年に阪急ブレーブスに1位指名されたが拒否して法政大学へ進学。
1977年に福岡クラウンライターライオンズに1位指名され拒否してアメリカ留学。
1978年に巨人に入団した。
清原は、もし巨人が交渉権を獲得できなければ、阪神。
それもなければ社会人野球(日本生命)に進むつもりだった。
桑田真澄は、春の甲子園は50日前から、夏は100日前からお参りを行ったが、
同様にドラフトの100日前からお参りをした。
(巨人に指名されたらプロ入り。
指名されなければ早稲田大学へ進学)
そう決めていた。
「僕にとって最高の道をください」
王貞治 KKドラフトの真相を語る
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1985年11月20日、ドラフト会議当日、3時間目の授業中、教師から知らせが入った。
「巨人の1位指名は桑田や!」
桑田は、うれしかったが清原を傷つけないように下を向いた。
清原は校長室に呼ばれ、ドラフト会議の録画をみながら説明を受けた。
清原は6球団から1位指名を受けたが、その中に巨人はいなかった。
そして巨人が1位指名したのは桑田だった。
清原と桑田は別々の部屋で記者会見を行った。
巨人に指名されなかったこと、大学に行くといっていた桑田が実は巨人を志望し、それを教えてくれなかったことが悔しくて悲しくて、清原は涙を流した。
その後、密かに桑田が巨人を蹴ることを期待していたが、早稲田大学進学を取り消して巨人と契約を結んだことを聞いて再びショックを受けた。
卒業式のとき、桑田はしゃべりかけようとしたが清原は無視。
マスコミに2ショット撮影をリクエストされ、握手をしながらも2人は目は合わせなかった。
この後、桑田真澄は、ダーティーなイメージを植えつけられてしまう。
裏切られたヒーロー、清原。
したたかな桑田。
巨人入団発表の日、桑田真澄は、
「200勝します。」
といった。
そして
「君は平喘と嘘をついたね」
という記者に対しては
「そう思うなら思ってください」
といった。
この後も、裏金疑惑、野球賭博疑惑、土地投機失敗による借金地獄など、いろいろなスキャンダルに見舞われるが、桑田真澄は、一言も弁解しなかった。
言いわけはせずに密かに闘志を燃やした。
「巨人の1位指名は桑田や!」
桑田は、うれしかったが清原を傷つけないように下を向いた。
清原は校長室に呼ばれ、ドラフト会議の録画をみながら説明を受けた。
清原は6球団から1位指名を受けたが、その中に巨人はいなかった。
そして巨人が1位指名したのは桑田だった。
清原と桑田は別々の部屋で記者会見を行った。
巨人に指名されなかったこと、大学に行くといっていた桑田が実は巨人を志望し、それを教えてくれなかったことが悔しくて悲しくて、清原は涙を流した。
その後、密かに桑田が巨人を蹴ることを期待していたが、早稲田大学進学を取り消して巨人と契約を結んだことを聞いて再びショックを受けた。
卒業式のとき、桑田はしゃべりかけようとしたが清原は無視。
マスコミに2ショット撮影をリクエストされ、握手をしながらも2人は目は合わせなかった。
この後、桑田真澄は、ダーティーなイメージを植えつけられてしまう。
裏切られたヒーロー、清原。
したたかな桑田。
巨人入団発表の日、桑田真澄は、
「200勝します。」
といった。
そして
「君は平喘と嘘をついたね」
という記者に対しては
「そう思うなら思ってください」
といった。
この後も、裏金疑惑、野球賭博疑惑、土地投機失敗による借金地獄など、いろいろなスキャンダルに見舞われるが、桑田真澄は、一言も弁解しなかった。
言いわけはせずに密かに闘志を燃やした。
プロ入り
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1986年、甲子園で通算20勝、防御率1点台の高校野球のヒーローは、それなりの自信をもってプロ1年目を迎えた。
しかし結果は、登板回数:15回、投球イニング数:61回1/3、2勝1敗、防御率:5.14。
桑田は、プロの凄さに圧倒され、絶望的な気持ちになった。
そしてトレーニング本を買い込み勉強を始めた。
そしてジムに通い、ウエイトトレーニングを行い、正月も走り込んだ。
2年目(1987年)は、登板回数:28回、投球イニング数:207回2/3、15勝6敗、防御率:2.17。
防御率は1位(最優秀防御率)だった。
ゴールデングラブ賞、ベストナイン、最優秀投手、沢村賞も獲得した。
桑田真澄には、常に1つのイメージがある。
理想のボール。
理想のフォーム。
そんな「理想の感覚」がある。
「理想の感覚」を、シーズン(1年)を通して維持できたのは、高校1年、1987年、1994年シーズンだけ。
昨日は出たのに今日は出なかったり、ずっと出ず、ずっと不安だったのに、何気ない練習中の1球で急に出たり、「理想の感覚」は波があった。
出ないときは
「俺の球じゃない。」
と悩みながら練習を続け、出たときは、狙ったところにボールが行くため、楽しくて仕方なかった。
しかし結果は、登板回数:15回、投球イニング数:61回1/3、2勝1敗、防御率:5.14。
桑田は、プロの凄さに圧倒され、絶望的な気持ちになった。
そしてトレーニング本を買い込み勉強を始めた。
そしてジムに通い、ウエイトトレーニングを行い、正月も走り込んだ。
2年目(1987年)は、登板回数:28回、投球イニング数:207回2/3、15勝6敗、防御率:2.17。
防御率は1位(最優秀防御率)だった。
ゴールデングラブ賞、ベストナイン、最優秀投手、沢村賞も獲得した。
桑田真澄には、常に1つのイメージがある。
理想のボール。
理想のフォーム。
そんな「理想の感覚」がある。
「理想の感覚」を、シーズン(1年)を通して維持できたのは、高校1年、1987年、1994年シーズンだけ。
昨日は出たのに今日は出なかったり、ずっと出ず、ずっと不安だったのに、何気ない練習中の1球で急に出たり、「理想の感覚」は波があった。
出ないときは
「俺の球じゃない。」
と悩みながら練習を続け、出たときは、狙ったところにボールが行くため、楽しくて仕方なかった。
KK対決
運命のKK対決 清原と桑田
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清原と桑田はオールスターや日本シリーズで数度対戦した。
キャッチャーのサインに桑田は何度も何度も首を振った。
キャッチャーが諦めて直球のサインを出すまで首を振り続けた。
そして勝負を挑んだ。
そして清原は桑田に対して、オールスターで8打数1安打1本塁打、日本シリーズで12打数7安打3本塁打という成績を残した。
2人は試合の合間に言葉を交わすこともあったが、お互いにドラフトのことだけは触れなかった。
桑田真澄は、「第一感」を大事にする。
ここはカーブでいきたいと思ったら、キャッチャーのサインが違っても、カーブ。
勝負どころだと思えば逃げずに勝負、勝負したくないと思ったら勝負しない。
日記にも、
「・・・・年にゴールデングラブ賞」
「・・・・年に年棒・・・・・円」
「・・・・年に最多勝」
など大目標を第一感で思いついたままに書いた。
キャッチャーのサインに桑田は何度も何度も首を振った。
キャッチャーが諦めて直球のサインを出すまで首を振り続けた。
そして勝負を挑んだ。
そして清原は桑田に対して、オールスターで8打数1安打1本塁打、日本シリーズで12打数7安打3本塁打という成績を残した。
2人は試合の合間に言葉を交わすこともあったが、お互いにドラフトのことだけは触れなかった。
桑田真澄は、「第一感」を大事にする。
ここはカーブでいきたいと思ったら、キャッチャーのサインが違っても、カーブ。
勝負どころだと思えば逃げずに勝負、勝負したくないと思ったら勝負しない。
日記にも、
「・・・・年にゴールデングラブ賞」
「・・・・年に年棒・・・・・円」
「・・・・年に最多勝」
など大目標を第一感で思いついたままに書いた。