桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース
2019年10月4日 更新

桑田真澄 桑田ロード、すなわち野球道 小さな体をした真のエース

本来、「すみませんでした」という謝罪は「澄みませんでした」 ということ。そういう意味で桑田真澄はほんとうに澄んだ男なのかもしれない。数字や勝ち負けなどの結果や巨額の年俸がクローズアップされやすいプロ野球において、「結果はクソ」とプロセス主義を貫き、「試練や困難は自分を磨くための砥石」「努力している自分が好き 」と自分を磨くこと「人間力」を上げることを人生の価値とした。そしてライバル清原和博同様、スケールの大きな、そして好対照な野球道を歩んだ。

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桑田は金に汚い?

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1989年、プロ3年目の夏。
週刊誌が桑田のスキャンダルが報じた。
それは1988年12月にアドバイザリー契約を結んでいたカドヤスポーツから不明瞭な金が桑田真澄の口座に振り込まれているというものだった。
振り込みを知らなかった桑田はすぐに返金した。
そして球団からは、200万円の罰金を科された。
世間には
「桑田は金に汚い」
という者もいたが、桑田真澄は一切弁解せずに野球に集中した。
そして1989年は、登板回数:30回、うち完投20回、投球イニング数:249回、17勝9敗、防御率:2.60。
ジャイアンツは8年ぶりに日本一になった。
そして桑田真澄は念願だった自分の家を建てた。

さらば桑田真澄、さらばプロ野球

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1990年のシーズン直前、中牧昭二の著作『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』(年間売上げ19位、ノンフィクション部門8位)が刊行された。
この中で、カドヤスポーツ販売促進課長だった中牧昭二は、桑田真澄にアドバイザリー契約を結ぶ見返りに多額の裏金を要求され、それを支払ったと主張した。
桑田が
「昭ちゃん。
裏金で月に20万くれたら(カドヤスポーツの製品を)使ってもいいよ。」
「裏金を20万から30万にしてくれないか。」
といい、1987年11月にカドヤスポーツと桑田が2年500万円で正式契約を結んだときは
「本契約以外に、裏金で500万円ほしい。」
「車が欲しい。
ソアラがいい。」
などと要求したと書かれてあった。
こうした裏金疑惑以外にも、親しくしている会員制メンバーズクラブの社長に登板日を教えたという記述があり、桑田真澄が野球賭博に関与した疑いも持たれた。
それ以外にも
「ソープランドへ連れて行ってほしい」
「(ドラフトの時、清原和博に対して)ザマアミロと思ったね。
ぼくが1位指名されるのはわかっていたから、いまに泣き面が見られるぞと楽しみにしていたんだ」
「ぼくが入団発表をする日、あいつ(清原)のお母さんがぼくのお母さんにイヤミの電話をしてきたんだ。
あそこはどうもそういうところがある」
「あいつ(清原)のことをすごいというけど、何かタイトルを獲ったのか。
あいつにぼくのことをいう資格はない。
タイトルを獲ってから、ものをいえっていうんだ」
などという内容も掲載されていた。
まず賭博疑惑については、ジャイアンツの寮の近くに中華料理屋があり、桑田真澄は何度か通ううちにオーナーと親しくなった。
そして
「桑田君、明日、投げるんでしょ?」
といわれ
「頑張ります。」
と答えた。
これを中牧昭二はみていたという。
そしてこのオーナーには賭博で有罪判決を受けた過去があった。
もちろん桑田は情報を渡すことで、このオーナーからお金をもらったことはなかった。
カドヤスポーツの裏金疑惑については、中牧昭二は、大阪、広島、名古屋など桑田の遠征に必ず帯同したとし、接待費として毎月、何百万円もの経費を会社にあげていた。
しかし桑田真澄は、試合前に、酒を飲まない。
たとえ飲む場所に行っても、牛乳かミネラルウォーター。
カドヤスポーツが、その領収書の日付と店名、桑田真澄の遠征先を照らし合わせて調査してみると、それが虚偽であることがわかった。
このスキャンダル後も、桑田真澄の契約は継続された。
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桑田真澄は、中牧昭二を訴えた。
中牧昭二は、拓殖大学からカドヤスポーツに入社し、販売促進課に勤務し、1990年に『さらば桑田真澄、さらばプロ野球』を出版しベストセラーとなった。
1992年、大仁田厚率いるFMWに入団しプロレスラーデビュー。
その後、プロレス団体を転々とし、2003年、参議院議員になった大仁田の秘書となった。
この疑惑とは別件で、高級時計や小遣いをもらったことがあると桑田真澄が認めたため、1990年のシーズン開幕から1ヵ月間の試合出場停止と罰金1000万円が科された。
桑田真澄は、なにも弁解せず、毎日、2軍の練習場に通った。
しかしマスコミは尾行し続けた。
謹慎中から謹慎が解けた後も、裁判も続いた。
人間不信、電話恐怖症となり、自殺まで考えた。
こうして散々叩かれ、嫌な思いをしながらも、1990年の成績は、登板回数:23回、うち完投17回、14勝7敗、防御率:2.51。
ジャイアンツはセ・リーグ優勝、2連覇を果たした。

借金地獄

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1991年、桑田真澄に待っていたのは借金地獄だった。
資産の運営を任せていた元義兄(姉の元夫)、長田喜弘の過剰な土地投機が、バブルが弾け、地価が低下し失敗。
元金20億、金利だけで年1億という巨大な借金だけが残ったという。
桑田真澄は、1年前に建てた自宅や土地を売却し、足らずは銀行に融資してもらい借金を借金で返した。
後は野球に打ち込むしかなかった。
そして1991年シーズンは、登板回数28回、うち完投17回、投球イニング数:227回、16勝8敗、防御率:3.16。
逆境ほど燃える桑田真澄らしい結果だった。
1992年、1993年は逆境だった。
つらい2年間だった。
逆境をはねのけようと一生懸命努力したが、反比例するように低迷した。
球場では
「投げる不動産!」
「借金王!」
とヤジられ、モノを投げられた。
中にはタンを吐きかける者もいた。
1992年シーズンは、10勝14敗、防御率:4.41。
年棒は1000万円近くダウン。
長嶋茂雄がジャイアンツの監督に復帰した1993年シーズンも、8勝15敗、完投数8、防御率:3.99。
年棒は再び1000万円ダウンした。
しかし桑田真澄は自分を信じて、自分流の努力を続けた。
不調の原因を、体のバランスの崩れと断定し、
チューブを使ったトレーニングや、
PNF(固有受容性神経筋促通法)トレーニングなど、体の上下前後左右のバランスを整えるトレーニングを導入。
そして一心にシャドーピッチングに励んだ。
そして見事に復活した。

「試練や困難は砥石」

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桑田真澄は、ピンチや困難に直面すれば、そしてそれが大きければ大きいほど燃えるという。
桑田真澄の生きる目的は、「自分を磨くこと」であり、「試練を克服してこそ自分が磨かれる」と考えている。
だから
「試練や困難は自分を磨くための砥石」
といい、とにかくポジティブに、前向きな行動を続けて自分を磨くこと。
それが人生の基本姿勢となっている。
また桑田真澄は、お金持ちでも、有名人でも、名誉がある人でもなく「人間力の素晴らしい人」に憧れる。
「人間力」とは、桑田真澄的には、すべてのことにありがたいと思える心や、気持ちが大きいことだといい、
「人間力」には、到達点や限界がなく無限であるという。
これに限らず、桑田真澄は、日記をつけていて、そこに人から聞いた印象的な言葉や格言なども記すという。
そして、つらいときは、その言葉を思い出し、頑張るという。

真のエース

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1994年8月13日、阪神タイガース戦で、セ・リーグタイ記録の16奪三振で完封。
1994年10月5日、ヤクルト戦に先発登板。
8回ツーアウトまでノーヒットノーランだったが、8日の首位決戦に備えるため降板。
10月7日夜、宿舎で長嶋茂雄監督に呼ばれ
「しびれるところで、いくぞ」
といわれた。
10月8日、7回裏、ジャイアンツが3点リードの状態から登板。
8回裏、先頭打者のPL学園の後輩:立浪和義が一塁ベースに執念のヘッドスライディングをして左肩を脱臼しながらも内野安打とした。
9回裏、最後の打者を大きなカーブで空振り三振に打ちとり、3イニングを無失点に抑えて胴上げ投手となった。
最後の三振をとった後のガッツポーズは、多くの野球ファンの記憶に刻み込まれている。
プロ野球日本選手権シリーズでは、ジャイアンツはライオンズと対戦し、4勝2敗で勝利。
5年ぶり、18度目、東京ドームでは初の、そして長嶋茂雄にとって監督として初の日本一だった。
桑田真澄の1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185、最多奪三振、セ・リーグ最優秀選手 (MVP)を獲得。
ジャイアンツのエースとして認められた。

アスリート

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桑田真澄のシーズン中の登板間隔はだいたい中5日。
この5日間のコンディショニングは以下のようなもの。

1日目:
投げた翌日は休む選手が多いが、桑田真澄は、30分以上のハードなランニングを行う。
そして充分ストレッチング。
その後ウエイトトレーニングをして、さらに水泳をする。
食事は肉主体。
2日目:
休養。
食事は軽めに行う。
3日目:
100~150mを全力ダッシュ×10本。
肉主体の食事を行う。
4日目:
運動量を落とし調整に入っていく。
50m、40m、20m、10mと短い距離を何本か走る。
食事は炭水化物を多めに摂る。
5日目:
軽くランニングして汗を流しストレッチング。
4日目同様、調整中は、炭水化物を多めの食事。

上記のように、
食事に関しては、
トレーニング日は、傷ついた筋肉を修復させるタンパク質を多くとるために肉中心の食事、
調整日は、スタミナを蓄積するために炭水化物中心の食事となる。
また桑田真澄は、非喫煙者かつ嫌煙家で、
非喫煙者が受動喫煙させられることを問題視し、球団スタッフに働きかけ、
移動用バスは禁煙車と喫煙車に分け、
ロッカールームは禁煙、食堂は喫煙と分煙化を行った。
春のキャンプでは、禁煙ルームを設置できないので、全面禁煙となった。
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