ハマのスター☆〈石井琢朗〉
2016年11月25日 更新

ハマのスター☆〈石井琢朗〉

現在広島東洋カープでコーチを務めている名打者、石井琢朗さんについてご紹介します。

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名打者石井琢朗

プロ野球チップスカード

プロ野球チップスカード

石井 琢朗(いしい たくろう、本名:石井 忠徳(いしい ただのり)、1970年8月25日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。現在は広島東洋カープ一軍打撃コーチ。

出身地 栃木県佐野市
生年月日 1970年8月25日(45歳)
身長 174㎝ 、 体重 78 kg
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手、三塁手、二塁手
プロ入り 1988年 ドラフト外
初出場 1989年4月13日
最終出場 2012年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴
栃木県立足利工業高等学校
横浜大洋ホエールズ
横浜ベイスターズ (1989 - 2008)
広島東洋カープ (2009 - 2012)

コーチ歴
広島東洋カープ (2012 - )

背番号
66 (1989年 - 1992年)
0 (1993年)
5 (1994年 - 2008年)
25 (2009年 - 2012年)
75 (2013年 - )

登録名
石井 忠徳(いしい ただのり、1989年 - 1991年)
石井 琢朗(いしい たくろう、1992年 - )

表彰

ベストナイン:5回(遊撃手部門 = 1997年 - 2001年)
ゴールデングラブ賞:4回(三塁手部門 = 1993年 - 1995年、遊撃手部門 = 1998年)
JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞 = 1996年4月)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1998年)
セントラル・リーグ特別功労賞(2012年)
節目の記録
1000本安打:1999年7月15日、対阪神タイガース16回戦(阪神甲子園球場)、2回表に山崎一玄から ※史上196人目
1000試合出場:1999年10月15日、対ヤクルトスワローズ27回戦(横浜スタジアム)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上354人目
1500本安打:2002年8月22日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、4回表に入来祐作からソロ ※史上83人目
200犠打:2003年7月8日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム)、1回表に野口茂樹から ※史上24人目
300盗塁:2003年8月6日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:コリー・ベイリー、捕手:阿部慎之助)
1500試合出場:2003年8月27日、対広島東洋カープ20回戦(横浜スタジアム)、2番・遊撃手として先発出場 ※史上140人目
1000得点:2005年4月5日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、1回裏に金城龍彦の左前適時打で生還 ※史上31人目
1000三振:2006年5月2日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、4回表に川上憲伸から ※史上38人目
2000本安打:2006年5月11日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(横浜スタジアム)、1回裏に愛敬尚史から中前安打 ※史上34人目・投手としての勝利と2000本安打の両方の記録保持者は川上哲治以来2人目。
350盗塁:2007年5月13日、対広島東洋カープ9回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:黒田博樹、捕手:石原慶幸) ※史上15人目
2000試合出場:2007年6月13日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、8回裏に遊撃手として出場 ※史上38人目
250犠打:2007年7月12日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、9回裏にラファエル・クルスから ※史上11人目
3000塁打:2008年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(横浜スタジアム)、2回裏に金刃憲人から中前安打 ※史上42人目
100本塁打:2009年7月4日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、5回表に三浦大輔から右越ソロ ※史上256人目

石井琢朗の生い立ちとプロ入り前

小学校3年生から野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す。
プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え、栃木県立足利工業高等学校に進学。
1年時から背番号1を背負い、2年時に夏の甲子園に投手として出場した。
高校2年時、佐野日本大学高等学校の投手を見に来ていたスカウトの江尻亮が、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ。高校3年時のドラフト会議では東洋大学への進学が決まっていたためどの球団からも指名されなかったが、半ば強引な形で1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。ドラフト外でプロ入りした最後の選手となった。
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特徴

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憧れの選手は篠塚和典。横浜球団史上最多の2306安打を放っている(2008年10月9日時点)
打撃スタイルはとにかく、コンパクトに。またいかにピッチャーとのタイミングをとるかを模索。ピッチャーがえしの基本のバッティング。

三塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝き、遊撃手としても1度受賞している。送球までの速さと安定感は12球団1と評されたこともある。
また、通算358盗塁を記録しており、4度盗塁王を獲得している。

入団から3年間は投手であったものの、バッティングセンスを見いだされ4年目から内野手に転向。この際に登録名を現在の「石井琢朗」に変更する。するとその年の後半には三塁手のレギュラーに定着し、翌年には盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得。スター選手に登りつめる。

1996年、大矢明彦監督によって遊撃手にコンバートされ、以後10年に渡って遊撃レギュラーの地位を不動のものとする。

1998年にはマシンガン打線の1番打者として38年ぶりの優勝に大きく貢献した。

石井琢朗 2000本安打 - YouTube

ちょっと笑えるエピソード

2006年、古木克明から「石井豚朗」と名前を書き間違えられた年賀状が届く。

琢朗の琢の字が「豚」に似ている事から、ブタローという野次を受けた事がある。
ちなみに、本人はものすごく気にしている。

長年活躍した横浜から広島へ移籍

 (1521085)

2008年に若返りを理由に戦力外通告を受けてしまった。
前述のように長年にわたりベイスターズを支えてきた功労者であったため、ファンからは退団を惜しむ声と突然の解雇を発表したフロントに対する非難の声が寄せられた。

石井は現役続行を希望し、11月12日に広島東洋カープが石井の獲得を発表した。

広島1年目の2009年は開幕一軍でスタート。本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる。横浜時代の応援歌が親しみやすく人気があったため、横浜応援団の計らいもありカープへの移籍後も広島応援団が引き続き使用した。
7月4日の横浜戦にて、横浜スタジアムで通算100本塁打達成。2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録であった(従来の記録は東映・毒島章一の1773試合。またプロ在籍年数ではヤクルト・八重樫幸雄と並ぶ21年目で、最遅タイ)。
移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られ、100号本塁打達成時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。
7月17日の横浜戦では、吉田義男(阪神)を抜き日本歴代最多となる遊撃手としての通算1731試合出場を達成。シーズン前半は梵英心、後半は小窪哲也と併用され出場試合数と打撃成績は前年を下回ったが、一年を通して一軍でプレーした。
2010年も年間を通して一軍に定着。スタメン出場は少ないものの打率は3割を超えた。この年の契約更改では200万円アップの年俸2700万円(推定)で契約し、広島移籍後は2年連続で年俸アップを勝ち取った。
2011年は前年より成績を落としたが、引き続き存在感を見せた。シーズンオフに右膝のクリーニング手術を受ける。オフの契約更改では2012年から一軍野手コーチを兼任することが発表された。
2012年は、一軍コーチ兼任選手として開幕からベンチに入り、6月まで代打を中心に試合に出場。7月9日に選手登録を抹消され、コーチ専任となって一軍に帯同していたが、8月27日記者会見を開き、2012年シーズン限りでの現役引退を表明した。
同年シーズン本拠地最終戦の9月30日の対阪神戦(マツダスタジアム)、引退試合として1番・遊撃手で先発出場。現役最後の安打を含む2安打を放つ。
その後も一軍登録は抹消されずに10月7日の対ヤクルト戦(神宮)では9回に代打で出場(結果は右飛)。
翌10月8日、シーズン最終戦となった古巣の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、かつてのチームメイトの三浦大輔と金城龍彦から花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。試合では1番・遊撃手として先発フル出場し、現役最終打席はセンターフライとなった。

【野球】石井琢朗現役最終打席【横浜ベイスターズ広島東洋カープ】 - YouTube

カープのコーチになった石井琢朗

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