木村政彦 vs エリオ・グレーシー
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木村政彦 vs エリオ・グレーシー
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木村政彦は、全日本選手権10連覇、15年間不敗、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれる不世出の柔道家だった。
戦後、師匠である牛島辰熊が起こしたプロ柔道に参加したが、半年ほどでその興行は下火となった。
木村政彦は、難病を患った妻のため、プロレスラーになることを決意し海外へ渡った。
1951年、木村政彦は、サンパウロの新聞社の招待でブラジルへ渡り、プロレスと柔道の指導を行った。
同年9月23日、木村に同行していた加藤幸夫とエリオ・グレイシーが試合を行い、エリオは加藤を絞め落とした。
エリオは、加藤だけではなく何人もの日本の柔道家を破っていた。
同年10月23日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、木村政彦とエリオ・グレーシーが対戦した。
ルールは、立技での一本勝ちは無し。
ポイント無し。
抑え込み30秒の一本も無し。
決着は、「参った(タップ)」か、絞め落とすこと。
木村は大外刈から腕緘を極めエリオの腕を折った。
しかしエリオは強靭な精神力でギブアップせず、木村も折れたエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。
試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングにかけ上がり木村の体をタップ。
木村政彦の一本勝ちとなった。
後に木村は
「何という闘魂の持ち主であろう。
腕が折れ骨が砕けても闘う。
試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」
とエリオを絶賛した。
戦後、師匠である牛島辰熊が起こしたプロ柔道に参加したが、半年ほどでその興行は下火となった。
木村政彦は、難病を患った妻のため、プロレスラーになることを決意し海外へ渡った。
1951年、木村政彦は、サンパウロの新聞社の招待でブラジルへ渡り、プロレスと柔道の指導を行った。
同年9月23日、木村に同行していた加藤幸夫とエリオ・グレイシーが試合を行い、エリオは加藤を絞め落とした。
エリオは、加藤だけではなく何人もの日本の柔道家を破っていた。
同年10月23日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで、木村政彦とエリオ・グレーシーが対戦した。
ルールは、立技での一本勝ちは無し。
ポイント無し。
抑え込み30秒の一本も無し。
決着は、「参った(タップ)」か、絞め落とすこと。
木村は大外刈から腕緘を極めエリオの腕を折った。
しかしエリオは強靭な精神力でギブアップせず、木村も折れたエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。
試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングにかけ上がり木村の体をタップ。
木村政彦の一本勝ちとなった。
後に木村は
「何という闘魂の持ち主であろう。
腕が折れ骨が砕けても闘う。
試合には勝ったが勝負への執念は私の完敗であった」
とエリオを絶賛した。
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前田光世の柔道が、最強の格闘技となり、日本に帰ってきた
Royce Gracie Highlight
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1993年(平成5年)、アメリカのデンバーで第1回UFC(ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)が開催された。
これは真の格闘技世界一を決めようとする格闘技大会で、ルールは、目潰し、嚊みつき、急所へ攻撃以外は何でもあり。
このトーナメント大会で優勝したのは、ホイス・グレイシー。
エリオ・グレイシーの6人息子の1人だった。
ホイスは柔術着を着て戦い、圧倒的な強さでアッサリと勝った。
これは真の格闘技世界一を決めようとする格闘技大会で、ルールは、目潰し、嚊みつき、急所へ攻撃以外は何でもあり。
このトーナメント大会で優勝したのは、ホイス・グレイシー。
エリオ・グレイシーの6人息子の1人だった。
ホイスは柔術着を着て戦い、圧倒的な強さでアッサリと勝った。
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Rickson Gracie vs Takada 1997
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1997年(平成9年)、日本の格闘技イベント「プライド」において、ホイス・グレイシーが「私の5倍は強い」という兄:ヒクソン・グレイシーがプロレスラー:高田延彦と対戦。
1Rで高田からギブアップを奪った。
1Rで高田からギブアップを奪った。
彼方 2019/12/14 17:13
「アメリカで異種格闘技戦」の項の締め
「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」
それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別のものだった。
これに関しては、嘉納治五郎の思想と異なるものではありませんよ。
むしろ嘉納治五郎の思想と同じものです。
嘉納は当身をどのように乱取りの中に含め練習させるかを早い段階から考え続けていましたが、
安全性の面から従来の古流柔術同様、形による練習方法から進められずでした。
オープンフィンガーグローブに関しても嘉納治五郎は構想を述べています。
また、サブタイトルになっている「講道館を破門」についても、前田光世が講道館を破門になった事実はなかったと思いますが、どうでしょうか?