Conde Koma コンデ・コマ 前田光世 講道館を破門になっても海外でホンモノの柔道を続けた男
2017年8月8日 更新

Conde Koma コンデ・コマ 前田光世 講道館を破門になっても海外でホンモノの柔道を続けた男

前田 光世という講道館黎明期の柔道家は、柔道の強さを証明するため、アメリカで異種格闘技戦を行い、皮肉にも、その行為により講道館を破門された。 しかし彼はひたすら自らの道を進み続け、世界を転戦。 最終地、ブラジルでは、グレイシー柔術の起源となった。 現在、海外で育ったホンモノの柔道は、日本に逆輸入され、前田光世の凄さを証明している。

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柔道着を着ていないと使えない柔道の技もある。
相手の両肩をマットにつけたら勝ちだが、いくら投げても勝ちにならない。
確実に勝つためには、関節技・絞め技でギブアップさせるしかない。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに、前田光世は独自の戦法を編み出していった。
さらに開発は突き蹴りという打撃技にまで進んでいった。
「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」
それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別のものだった。

破門

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「柔道は、究めるものであり、金をとり観客にみせるものではない」
アメリカで転戦する前田光世を講道館は破門した。
もともと前田は、講道館四天王の1人の富田が負けたため、柔道の真価をみせようと、敢えて異国に留まった。
しかし海外でのあまりに高い名声、次々に編み出される前田独自の柔道技術が講道館を嫉妬させ、恐れさせたのかもしれない。
前田は気にせず、アメリカを周り終えイギリスに渡った。
そしてヨーロッパを周った。

前田困る

JiuJitsu Brasília - JiuJitsu Brasília - Livro de Conde Koma de 1913 é re-editado (1883927)

1905年(明治38年)、26歳の前田光世はイギリス各地で柔道の指導や試合を行った。
1908年(明治41年)、ベルギーで異種格闘技戦、100戦100勝を達成した。
やがて「前田光世」の名が有名になりすぎ相手が見つからなくなった。
そこで偽名を考えた。
しかしよい名が思い浮かばなかった。
困った。
では「前田困る」にしよう。
「コマル」では語呂が悪いから「コマ」はどうか。
伯爵という意味の「コンデ」をつけて「コンデ・コマ(Conde Koma)」
これがリングネームとなった。
「困る伯爵」ならぬ「コマ伯爵」というワケである。
このように前田光世は、陽気、調子にノリやすく、細かいことに気にしない、まるで子供のような性格だった。

ブラジルに魅せられる

Brazilian jiu-jitsu - WikiVisually (1883543)

1909年(明治42年)、29歳でメキシコへ。
1912年(明治45年)、32才で中南米(グァテマラ、ニカラグア、パナマ、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリー、アルゼンチン、ウルグアイ)を巡った。
1913年(大正2年)、ブラジルへ入った。
1915年(大正4年)、アマゾン川河口の都市:ベレンに到着。
1916年(大正5年)、アマゾナス州マナウスへ到着。
前田光世はブラジルのアマゾンの大自然に魅せられた。
そして決心した。
「アマゾン川流域開発に残る人生を賭けよう」
ここまでアメリカ、中南米、ロシア、ヨーロッパを周り、世界の格闘家と試合し続け、およそ2000回戦いに挑んだ。
そのうち1000回余りは柔道着を着て、それ以外は柔道着なしで戦った。
前田が敗れた試合は2度だけ。
いずれも柔道着なしで挑んだものだった。
そのうちの1回が、ジミー・エチソン戦。
195cm、132kg。
世界レスリングチャンピオン大会の決勝戦でのものだった。
1917年(大正6年)、前田光世は、マナウスからべレン市に戻り、ここに永住することを決意し 、道場を開設した。
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グレイシー柔術

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1921年(大正10年)、前田光世は、ブラジル政府より70万エーカー(青森県より広い)の土地を無償で与えられた。
このとき政府と前田の仲介をしたのが、ガストン・グレイシーという政治家だった。
グレイシー一家は、スコットランドからの移民で、ガストンはブラジル3代目で5人の息子がいた。
ブラジルの治安の悪さと長男カーロス・グレーシーの素行の悪さに悩んでいたガストンは、前田に頼んだ。
「息子たちに柔術で鍛えてくれ」
こうして前田はガストンの息子たちに柔道を教えることになった。
前田は彼らに柔道の技術と精神を教えた。
1925年(大正14年)、前田に4年間みっちり柔道を習ったグレイシーの兄弟は、共同で「柔術アカデミー」という道場を開いた。
前田は、自分が講道館から破門されていたので「柔道」という言葉を使わせなかった。
末弟のエリオ・グレイシーは、身体が小さく、前田の柔術をさらに改良し、力を使わず誰にでも使いこなせる技術体系を完成させた。
この「柔術アカデミー」が、やがてグレイシー柔術となり、ブラジリアン柔術となるわけだが、グレイシー柔術の宗家は、ごついストロングスタイルのカルロス派と、合理的な技巧派のエリオ派に分かれている。

Gracie Family - BJJ History - HIGHLIGHTS - [Hélio Gracie]

「おい、わしの柔道衣を持ってきてくれ 」

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1927年(昭和2年)、49歳の前田光世は外務省事務を委託せられた。
1928年(昭和3年)、南米拓殖株式会社を設立。
1929年(昭和4年)、第1回アマゾン移民189名が到着しトメアスヘ入植。
1930年(昭和5年)、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化。
アマゾニア産業研究所設立。
1935年(昭和10年)、日本人会顧問として在留邦人のために尽力。
1940年(昭和15年)、日本政府よりブラジル移民の功績が認められ、皇紀二千六百年祭に招待されたが辞退。
1941年(昭和16年)11月28日午前4時5分、ベレン市の自宅で死去。
62歳だった。
最後の言葉は
「おい、持ってきてくれ
わしの柔道衣を・・・」
であったという。
真珠湾攻撃の10日前のことだった。
前田光世の死後、講道館は七段を贈呈。
現在でも史上最強の柔道家の1人として評価されている。
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  • 彼方 2019/12/14 17:13

    「アメリカで異種格闘技戦」の項の締め

    「僕の経験によれば、飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。
    しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ。」
    それは師:嘉納治五郎の講道館柔道とは全く別のものだった。

    これに関しては、嘉納治五郎の思想と異なるものではありませんよ。
    むしろ嘉納治五郎の思想と同じものです。
    嘉納は当身をどのように乱取りの中に含め練習させるかを早い段階から考え続けていましたが、
    安全性の面から従来の古流柔術同様、形による練習方法から進められずでした。
    オープンフィンガーグローブに関しても嘉納治五郎は構想を述べています。

    また、サブタイトルになっている「講道館を破門」についても、前田光世が講道館を破門になった事実はなかったと思いますが、どうでしょうか?

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