アントニオ猪木の燃える事件簿2  政治家編
2016年12月20日 更新

アントニオ猪木の燃える事件簿2 政治家編

プロレスラーと国会議員二足の草鞋を履いて活躍したアントニオ猪木のまとめ。 1989年に当選し、戦時のイラクに乗り込み、あわや都知事かといわれた後、自らの党の元幹事長と元公設秘書から告発され、1995年に落選するまでの事件簿。

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史上初の国会議員プロレスラー

 (1802958)

猪木は「スポーツを通じて国際平和」を合言葉に、「スポーツ平和党」を結党した。
党首は猪木、幹事長は新間寿だった。

そして第15回参議院議員通常選挙に比例区から出馬。
キャッチコピーは
「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」
1989年7月24日、猪木は参院選に当選し、史上初の国会議員レスラーとなった。
(なんと最後の1議席に滑り込み当選)
1989年8月1日、国会議事堂に初登院し議員バッチの交付を受けた。
「今話題になっているリクルート問題に対して、私はこの一言で片付けたい『逆十字固め』。」
「国会の場でも俺にしかできないことをやる。」

流血演説事件

 (1802964)

猪木は政治活動を続けながらプロレスは引退しないという2足のわらじだった。
マスコミは プロレスラーと 国会議員の扱いを分け、「猪木」と呼び捨ての場合はプロレスラー、「猪木さん」「猪木氏」という場合は国会議員だった。
1989年10月14日、猪木は福島県会津若松市で講演中、暴漢に刃物で襲われ左頸部などを負傷した。
会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後、東京の病院に入院した。

闘魂ビンタ誕生

1990年5月16日、猪木は、早稲田予備校での講演「5月病に卍固め」の中で、予備校生のパンチを腹部に受けるという余興を行った。
次々と予備校生が猪木の腹を殴っていくが、猪木はビクともしなかった。
しかしその中に1人、少林寺拳法の有段者がいた。
彼は力を込めて猪木の腹を殴った。
(いい突きだった。)
するとその瞬間、猪木の顔が怒り、本能的、反射的に予備校生の顔面にビンタを返した。
ビンタを受けた予備校生は
「ありがとうございました。」
と一礼した。
この様子は全国に流れた。
こうして『闘魂ビンタ』が誕生した。

イラクがクエートに侵攻、日本は猪木をバクダッドに投下。

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1990年9月、イラクがクエートに侵攻。
湾岸戦争が危惧される中、サダム・フセイン大統領(イラク)は在留外国人を国外出国禁止とした。
これは事実上の人質、人間の盾だった。
その中には多くの日本人が含まれた。
日本の外務省による人質解放交渉は遅々として進まず
痺れを切らした猪木は決断した。
それは、あえて緊張高まるイラクで「スポーツと平和の祭典」を行うため、被害者家族等を率いてバグダッドに向かうというものだった。
外務省は、猪木にイラク行きを止めたが、猪木は拒否した。
同様に外務省は、被害者家族も止めたが、イラク邦人人質被害者家族「あやめの会」は猪木にすべてを託す事にした。
1990年11月、猪木は日本の各航空会社にイラク行きを要請した。
が、すべての会社が拒否した。
やむなく猪木は、園遊会の会場で駐日トルコ大使に懇願したところ、チャーター機の費用を猪木個人が負担することを条件に、トルコ航空の協力でイラク入りが可能となった。

1990年12月1日、猪木は平和の祭典関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダッド入りした。
イラクは、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えた。
1990年12月2日、3日、スポーツと平和の祭典には、猪木の趣旨に賛同した各国の選手、ミュージシャンたちも参加した。
初日は、アル・シャープ・スタジアムでサッカー、ナショナルシアターでロックコンサートと日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメント。
2日目は、長州力、マサ斉藤vs.馳浩、佐々木健介をメインとしたプロレス大会が開催された。
イベントが成功した一方、邦人人質と家族の面談は許されたものの解放までには至らなかった。

猪木と家族たちは、焦りと落胆の中、帰りの機内についた。
フライト直前、猪木はイラク政府から
「大統領からお話があります」
と告げられ、急遽、猪木は飛行機を降りた。
そして1990年12月3日、イラクの在留邦人の解放が決まった。
さらに1990年12月5日、、イラクの在留外国人全員の解放が決定した。

1991年、東京都知事選

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