本人は無実を主張するも、永久追放。
1970年7月30日、球界を永久追放されてしまいました。
江夏豊が、「オレより速い」と認めた男。
通算206勝193セーブの大記録を残した、江夏豊投手は全盛時、「オレより球の速い投手はおらんかった」と豪語していた。その江夏が「ただ一人、いるとすれば…、ヤスベエだな」と認めた投手がいた。ヤスベエこと、東映(現日本ハム)の森安敏明投手。球界を震撼させた「黒い霧事件」で永久追放となり、現役生活はわずか5年。通算242試合登板、58勝69敗の成績を残して消えた伝説の投手は、パ・リーグの個性的な猛者連中をしてこう言わしめている。「球の速い投手はいくらでもいたが、直球に恐怖心を感じてバットが出なかったのは森安だけだった」。
西鉄ライオンズ1位:浜村孝(内野手・高知商業高校)
プロ入りまで
高知商業では2年生の時、1964年夏の甲子園予選南四国大会準決勝に進むが徳島商に敗退。この大会で3本塁打を放ち注目される。同年の秋季四国大会決勝に進出、同期のエース江本孟紀が好投し、小坂敏彦のいた高松商を降し優勝を飾る。翌1965年の第37回選抜高等学校野球大会への出場を決めたが、部の不祥事で出場辞退。夏の県予選も出場停止処分を受けた。
ドラフトの順位で、江本孟紀が入団拒否?
浜村孝の同期、江本孟紀も同年のドラフト会議で西鉄ライオンズに4位指名されるが、江本は4番でエースだったのに、3番を打っていた浜村より下位指名だったことに納得がいかず、入団拒否をしたとされる。(後に、江本本人はこれを否定している。)
プロ野球での実績
<現役生活>
1966年~1977年
<成績>
415試合 930打席 203安打 13本塁打 打率.218
<主なタイトル>
なし
<表彰>
なし
入団2年目の1967年には、船田和英の故障もあって遊撃手に定着。豊田泰光の背番号7を受け継ぎ、1969年までレギュラーとして活躍。しかし打撃面で伸び悩み、1970年のシーズン後半には、菊川昭二郎にポジションを譲る場面が多くなる。
同年オフ、広野功と共に、高橋明、田中章、梅田邦三とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。1971年には12試合に先発出場。しかしシーズンオフに事故で右手小指を切断し、1972年に二軍で復帰するものの、同年限りで引退した。
1976年に太平洋へ復帰し、登録名は戸籍上の「浜村孝」とした。翌1977年は一軍に入れず、同年限りで再び引退。
1966年~1977年
<成績>
415試合 930打席 203安打 13本塁打 打率.218
<主なタイトル>
なし
<表彰>
なし
入団2年目の1967年には、船田和英の故障もあって遊撃手に定着。豊田泰光の背番号7を受け継ぎ、1969年までレギュラーとして活躍。しかし打撃面で伸び悩み、1970年のシーズン後半には、菊川昭二郎にポジションを譲る場面が多くなる。
同年オフ、広野功と共に、高橋明、田中章、梅田邦三とのトレードで読売ジャイアンツへ移籍。1971年には12試合に先発出場。しかしシーズンオフに事故で右手小指を切断し、1972年に二軍で復帰するものの、同年限りで引退した。
1976年に太平洋へ復帰し、登録名は戸籍上の「浜村孝」とした。翌1977年は一軍に入れず、同年限りで再び引退。
引退後
ロッテオリオンズでコーチを1988年から1992年まで務めた。ロッテ退団後は、地元で浜村海産の代表として活動している。
阪急ブレーブス:長池徳二(外野手・法政大学)
プロ入りまで
徳島県立撫養高等学校ではエースとして1960年秋季四国大会決勝に進出、高橋善正のいた高知商を降し、翌1961年の春の選抜出場を決める。しかし選抜では2回戦(初戦)で松江商に敗退。夏は県予選準々決勝で城南高に敗れ、甲子園には届かなかった。3年生時に南海ホークスのテストを受けたが、鶴岡一人監督に「使い物になるには4年はかかるな。遊びに行ったつもりで大学行ってこい。」の言葉により、鶴岡の母校法政大学経営学部へ進学した。
法大では外野手に転向する。東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験した。1964年秋季リーグで首位打者を獲得。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に六番打者、右翼手として出場している。4年生の1965年春季リーグではエース里見忠志(河合楽器)を擁し優勝に貢献。直後の全日本大学野球選手権大会に出場するが、1回戦で中京大に敗退している。リーグ通算60試合出場、217打数62安打、打率.286、3本塁打、30打点。ベストナイン3回。法大時代は通算3本塁打の成績が示すとおり長距離砲というわけではなかった。同期には外野手の鎌田豊がいる。
大学を卒業したら南海入団の約束になっていたが、その年からプロ野球はドラフト制度を導入。阪急ブレーブスが1965年のドラフトで1位指名を行う(南海は2位指名の予定だった)。ドラフト制度の目的には高騰する一方だった契約金の抑制もあり、南海と3000万円が約束されていたにもかかわらず、1000万円に抑えられた。希望球団に入れず、契約金も抑えられたことで「ホンマ、えらいもん(ドラフト制度)ができよったすよ」と長池は苦笑混じりに振り返っている。
法大では外野手に転向する。東京六大学リーグでは在学中3度の優勝を経験した。1964年秋季リーグで首位打者を獲得。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に六番打者、右翼手として出場している。4年生の1965年春季リーグではエース里見忠志(河合楽器)を擁し優勝に貢献。直後の全日本大学野球選手権大会に出場するが、1回戦で中京大に敗退している。リーグ通算60試合出場、217打数62安打、打率.286、3本塁打、30打点。ベストナイン3回。法大時代は通算3本塁打の成績が示すとおり長距離砲というわけではなかった。同期には外野手の鎌田豊がいる。
大学を卒業したら南海入団の約束になっていたが、その年からプロ野球はドラフト制度を導入。阪急ブレーブスが1965年のドラフトで1位指名を行う(南海は2位指名の予定だった)。ドラフト制度の目的には高騰する一方だった契約金の抑制もあり、南海と3000万円が約束されていたにもかかわらず、1000万円に抑えられた。希望球団に入れず、契約金も抑えられたことで「ホンマ、えらいもん(ドラフト制度)ができよったすよ」と長池は苦笑混じりに振り返っている。
プロ野球での実績
「ミスターブレーブス」と呼ばれるほどの活躍を見せた。
1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。
<現役生活>
1966年~1979年
<成績>
1449試合 4872打席 1390安打 338本塁打 打率.285
<主なタイトル>
本塁打王=3回(1969、1972~1973)
打点王=3回(1969、1973~1974)
<表彰>
最優秀選手=2回(1969、1971)
ベストナイン=外野手で6回(1967、1969~1973)、指名打者で1回(1975)
オールスターゲームMVP:3回 (1967年 第2戦、1970年 第1戦、1971年 第2戦)
日本シリーズ敢闘賞:2回 (1968年、1969年)
パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1975年)
パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回 (1974年)
日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (1971年)
本塁打王に3回、打点王に3回輝き、4番打者を務めた9年間(1967年 - 1975年)の全てのシーズンで「25本塁打以上」を記録(うち40本塁打以上が4回)。安打に対する本塁打の比率が非常に高い打者であったが、打率を残せる打者でもあり、「打率.300以上」を4回クリアしており、うち3回のシーズンで40本塁打を同時に達成している。
1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。
<現役生活>
1966年~1979年
<成績>
1449試合 4872打席 1390安打 338本塁打 打率.285
<主なタイトル>
本塁打王=3回(1969、1972~1973)
打点王=3回(1969、1973~1974)
<表彰>
最優秀選手=2回(1969、1971)
ベストナイン=外野手で6回(1967、1969~1973)、指名打者で1回(1975)
オールスターゲームMVP:3回 (1967年 第2戦、1970年 第1戦、1971年 第2戦)
日本シリーズ敢闘賞:2回 (1968年、1969年)
パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1975年)
パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回 (1974年)
日本プロスポーツ大賞 殊勲賞:1回 (1971年)
本塁打王に3回、打点王に3回輝き、4番打者を務めた9年間(1967年 - 1975年)の全てのシーズンで「25本塁打以上」を記録(うち40本塁打以上が4回)。安打に対する本塁打の比率が非常に高い打者であったが、打率を残せる打者でもあり、「打率.300以上」を4回クリアしており、うち3回のシーズンで40本塁打を同時に達成している。
長池徳二 32試合連続安打 (1971)
豪快なスイング。
via www.youtube.com