第1回プロ野球ドラフト会議(1965年)で1位指名を受けた選手のその後【パ・リーグ】
2020年6月18日 更新

第1回プロ野球ドラフト会議(1965年)で1位指名を受けた選手のその後【パ・リーグ】

日本のプロ野球において新人を獲得する制度としてドラフト会議が1965年から開始されました。ドラフト以降で1位指名を受けた選手はセパ両リーグ合わせて毎年12名。野球のスーパーエリートでもあるこのドラフト1位指名の選手がどうだったかを追ってみました。

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引退後

1980年から1982年まで阪急一軍打撃コーチ、1983年から1984年まで毎日放送野球解説者、1985年には広岡達朗監督に請われ西武ライオンズ一軍打撃コーチ、1987年から1988年まで南海ホークス一軍打撃コーチ、1989年から1992年まで日本テレビ・福岡放送・ラジオ日本野球解説者、1993年から1995年まで近藤昭仁監督の下、横浜ベイスターズヘッド兼打撃コーチ。1996年には日本テレビ・ラジオ日本野球解説者。1997年から1998年まで再び近藤の下で千葉ロッテマリーンズヘッド兼守備コーチ、ヘッドコーチを歴任。2004年にはオリックスの宮古島キャンプで臨時打撃コーチを務めた。

コーチとしての手腕は高く、秋山幸二・金森栄治(西武)、佐々木誠(南海)、鈴木尚典・石井琢朗・波留敏夫(横浜)、小坂誠・福浦和也(ロッテ)を育てた。

ロッテ退団後は1999年から福岡放送の野球解説者に復帰し、現在に至る。2009年までは日本テレビ野球解説者、2012年まではラジオ日本・ラジオ関西野球解説者も兼任していた。また、1999年から2005年までスポーツニッポン野球評論家も兼任していた。

東京オリオンズ:大塚弥寿男(捕手・早稲田大学)

プロ入りまで

浪商高校では3度甲子園に出場。1960年、2年生の時に、1年生エース尾崎行雄とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。2回戦で法政二高の柴田勲投手に完封負け。翌1961年は春夏の甲子園に連続出場。春の選抜では準々決勝でまたも法政二高に敗れる。夏の選手権は準決勝で、三度目の対決となる法政二高を延長11回の熱戦の末、2-4で破り決勝に進出。決勝では桐蔭高に1-0で降し優勝。高校同期に大熊忠義三塁手、住友平二塁手、2学年下に高田繁外野手がいた。

卒業後は早稲田大学へ進学。高校、大学いずれも主将をつとめる。東京六大学野球リーグでは在学中2度優勝。1964年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で駒大に敗れ準優勝。宮本洋二郎、江尻亮、八木沢荘六らとバッテリーを組み活躍。リーグ通算87試合出場、328打数80安打、打率.244、0本塁打、25打点。ベストナイン3回。1965年第6回アジア野球選手権大会日本代表。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1972年

<成績>
229試合 320打席 57安打 4本塁打 打率.178

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

1年目から一軍の試合に出場し、2年目には醍醐猛夫と併用され、37試合で先発マスクを被った。3年目には71試合に出場するが、打撃面での不振が響き、醍醐の壁は破れず、1972年に引退した。

引退後

引退後は夫人の実家の経営する会社に就職した。
2008年11月14日、胃癌のため死去。65歳没。

近鉄バファローズ:田端謙二郎(投手・電電九州)

プロ入りまで

鎮西高校では1963年、2年生の時にエースとして夏の甲子園県予選決勝に進むが、九州学院に惜敗。翌年夏は県予選準決勝で池田純一のいた八代東高に敗れ、甲子園には出場出来なかった。
卒業後は電電九州に入社。1965年に国鉄の大分鉄道管理局(現・JR九州硬式野球部)に補強されて都市対抗野球に出場。1回戦では優勝候補であるサッポロビールの佐藤元彦と投げ合い完封勝利、準々決勝でも同じく優勝候補の全鐘紡を完投で降す。準決勝で住友金属に敗退するが、大分鉄道管理局チームは小野賞を受賞し(田端個人への表彰ではない)、田端も全鐘紡を抑えた本格派投手としてプロから注目される。

プロ野球での実績

<現役生活>
1966年~1971年

<成績>
26登板 1勝7敗

<主なタイトル>
なし

<表彰>
なし

引退後

引退後は近鉄で打撃投手を1989年まで務めた。

まとめ

第1回ドラフトの1位選手(パ・リーグ)は、事件に巻き込まれ、悲劇の永久追放となった森安投手、ミスターブレーブスとして大活躍した長池選手を輩出した一方、あまり実績を残せないまま、引退をした選手も数多かった。
ちなみに、この年の、近鉄バファローズの2位指名が、かの317勝を挙げた、「投げたらアカン」で有名な、鈴木啓示投手である。必ずしも1位指名の選手が活躍するとは限らないドラフトの面白さが、この年に既に現れている。

投げたらアカン!CM 1984年

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