芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男
2018年4月10日 更新

芦原英幸 「ケンカ買わない?」とケンカを売り「それ空手?」と道場破り「アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ」と大山倍達にさえケンカを売った恐怖の男

その強さは、猛者ぞろいだった初期の極真空手の中でも飛び出た存在。 真正面から打ち合うのではなく、一歩後ろ、一歩サイド、相手の技が届かないところから、いかに自分の技を届かせるかという空手。 そして決して負けることを許さない強烈な闘争本能。 道場の外でもヤクザ相手のストリートファイトや道場破りで名を売り恐れられた。 陰湿なこと、卑怯なことを嫌い、そのために多くの戦いを挑んだが、その中には師:大山倍達さえいた。

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さぬき街ネタNEWS第38回訂正版 少林寺拳法 鏡開き

11月27日、スポーツ新聞で連載されていた「大山倍達 ケンカ空手」に以下の文面が掲載された。
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ついこのあいだ、今月5日のことである。
ある拳法を志しているという若者が池袋の極真会館の大山館長を訪ねてきた。
極真会館の機関誌”空手マガジン”に△△△拳法はニセモノ”と題する特別寄稿が掲載されていたことから「2日後、あなたの道場で勝負を決めようではないか」という。
つまり他流試合の挑戦の申し入れであった。
7日、△△△拳法四、五段という青年3人が約束通り極真会館へ乗り込んできた。
応対に出たのは三浦二段、佐藤二段、英国人コリンズ初段ら6人。
大山館長は「若い者にまかせておけば大丈夫……」とそこには顔を出さなかった。
ところが当の3人は2日前の勢いはどこへやら、低姿勢で受付をのぞいていて「もう話はついたから」というばかり。
「何が話がついたんだ。
こっちは試合の用意ができている。
すぐに道場に上がれ」
三浦二段の言葉に3人はあわててエンジンをかけたまま表通りに待たせておいたタクシーに乗り込んで、排気ガスを最後っ屁(ぺ)に雲をカスミと逃げていったのである。
「△△△拳法の四、五段ならウチの茶帯(一級)で十分相手ができるとふんでいたのだが、やっぱり………」
てんで相撲にならなかったこの対決に大山館長はニガ笑いした。

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少林寺拳法側は激怒。
複数の拳士が池袋の極真会館総本部付近に待機した。
そして何名かの極真門下生が闇討ちにあい、数日後に100人組手を控えたハワード・コリンズも4人の暴漢に襲われた。
ハワード・コリンズは道場以外で暴力をふるうことを嫌い、黙って相手の殴る蹴るに任せた。
「 私はちっとも痛くありませんでしたが、彼等の方でスタミナ切れしたものか、やがて引き揚げて行きました」
( ハワード・コリンズは、数日後の12月1日に史上6人目の100人組手の達成者となった。)
また極真会館は囲んだ少林寺拳法の拳士たちは、「卍」と落書きしたり、ガラスを割ったり、玄関を破壊した。
四国にいた少林寺拳法の事務局長:鈴木義孝は事態を解決すべく上京。
まずはスポーツ新聞社を訪ね、
「記事は事実ではない」
と抗議。
そして極真会館を訪れた。
その後ろに80人の拳士がついていた。
添野義二は1人で出ていき要件を聞いた。
そして大山倍達と鈴木義孝が話し合い、和解に至った。
この騒動の最中、四国にいた芦原英幸は、香川県の少林寺総本山に単身乗り込んだという。
(詳細は不明)

石井和義に関西での空手普及を命じる

石井和義

石井和義

劇画マンガ「空手バカ一代」は多くの若者の心に火をつけ、極真空手には入門者が殺到した。
しかし所詮、ブームはブーム。
マンガの影響で入門した者の多くは長続きせず辞めることが多かった。
しかし中には仕事や学校を辞めて県外からわざわざ四国にいき、数年間、空手の修行を積む者もいた。
そういう人たちがやがて郷里や都市に帰り、それぞれの土地で自主的に稽古をするようになった。
始めは何人かの仲間で稽古していたものが次第に人数が増えてくる。
すると彼らは芦原英幸に指導の依頼をした。
そういう声に応え芦原英幸は関西や九州の各地を回った。
そして1975年、芦原英幸は弟子の石井和義に関西での極真空手の普及を命じた。
石井和義は、愛媛県で生まれ、テレビドラマ「キイハンター」の千葉真一の影響で高校で器械体操を始めた。
やがて偶然みかけた宇和島道場に入門し、わずか2年で黒帯になった。
大学受験に失敗し、大阪に住む兄の家に住み浪人。
アートスクールに通いながら東京芸術大学を目指した。
(ちなみに石井和義の父は画家。
横山大観の弟子で横山と一緒に中国本土へ渡り淡彩画を学んでいたが、終戦後、その夢が閉ざされ、自転車屋を営んだ)
しかしアートスクールの学生はみんな画の上手く、進学を諦め大阪の貿易会社に就職していた。
22歳の石井和義は大阪球場内の文化教室で極真会館芦原道場大阪支部を設立し、当初は昼はサラリーマン、夜は空手の先生という生活を送った。
その指導法は、ホメ殺し。
「わぁすごい!」
「強い突きだね!」
ホメまくり楽しいと感じさせるような指導を行った。
当時では考えられない指導法で、神戸、京都、奈良、堺市、岡山と拡大させた。
自身も会社は辞め空手に専念した。
月々の収益、数百万円を芦原英幸に送ったが、石井和義の月給は11万円だった。
27歳のとき、貯金を食いつぶしてしまったため昇給を懇願し、12万円に昇給してもらった。

雲井大悟に悔し泣き。

棟田利幸

棟田利幸

芦原英幸は警察学校で空手を教えたが、同時に柔道師範の棟田利幸から逮捕術を習った。
この経験がサバキのテクニックにも影響を与えた。
棟田利幸は、「空手バカ一代」の中で雲井大悟として描かれ芦原英幸に倒されてしまう。
しかし実際にはそんなことはなく、マンガを読んで驚いた芦原英幸は謝りに行った。
棟田利幸は笑って対応したという。
「ワシはな、人生で初めて土下座したんよ。
知っとるか?
棟田(利幸)先生に。
柔道の世界じゃ知らん者はおらん。
四国で一番、西日本でも一番、実力ならば日本でも一番。
本物の柔道家です。
たしかにワシは八幡浜の時から警察道場で棟田先生にも空手を指導してきた。
けどな、逆に柔道やったら、ワシなんてものの三秒も立ってはいられんわ。
打撃で人を3秒で殺せますか?
無理。
打撃を極めたワシがいうんやから無理です。
しかし投げやったら3秒で人を殺せるんです。
棟田先生は柔道の猛者なだけやない。
警察逮捕術の達人でもあった。
空手じゃワシが先生でも、柔道や逮捕術ではワシは相手にもならん」
「ワシは梶原先生に凄い柔道家がいるとはいった。
けど勝負はしとらんよ。
世話になっとるといっただけや。
なのに、梶原先生のマンガをみてワシは腰を抜かした。
やたら体のデカいウドの大木で、ワシに簡単にやられる内容や。
名前は雲井大悟。
ワシは悔し泣きしたんよ。
そのとき初めて棟田先生の家を訪ね、土下座して謝ったんよ。
実際は棟田先生がワシの手を引き上げて、土下座させてくれんかったのが本当じゃけん。
けどワシは気持ちで土下座した。
棟田先生は本物の豪傑じゃけん。
そんなことは気にせんでいいと笑ってくれました」

棟田 康幸

ちなみに棟田利幸の息子は、柔道100㎏超級で世界選手権を2度制した棟田康幸である。

極真 破門

 (1990378)

1979年、芦原英幸は、JR松山駅前に道場を完成させ、自身も長年住んだ八幡浜から松山市に引っ越した。
34歳のことだった。
「立派すぎる」
松山市の新道場は極真会館の本部からいい評価は得られず
「そんな道場が建てられるなら月々の送金額を増すように」
ともいわれた。
また芦原英幸は愛媛県支部長だったが、愛媛県が北部と南部に分けられ愛媛県北部支部長になった。
そして愛媛県以外の活動を慎むようにといわれた。
「空手バカ一代」による空手ブームにより、全国に極真空手の支部が増え、新しい支部長も増えた。
当然、縄張り争いが起き始めた。
芦原英幸は、大山道場が懐かしかった。
池袋の小さな道場は、ただただ強さを求め熱気に溢れていた。
やっと自分の居場所を見つけたうれしさ。
強かった先輩たち。
狂ったように続けた稽古。
極真会館へ変わって大山道場では考えられなかったようなしょうもない戦いが起こり始めていた。

Ashihara Karate

1980年3月、東京で行われた支部長会議が行われた。
ここで議事予定になかったが、ある支部長から「芦原英幸除名」が発議された
芦原英幸は、居並ぶ極真会館の支部長たちと大山倍達にケンカを売った。
「何を最初から茶番やっとるんよ。
面倒くさいことタラタラ続けよって。
最初から目的は決まっとったんやろ。
館長(大山倍達)、そうでしょう。
この芦原を破門にするため、何もかもあんたが企んどったことは分かっちょったわ。
館長、こんだけの人間集めて芦原を脅かそうとかビビらせようなんて考えちょったら甘いですけん」
「ワシが邪魔やというんなら、館長、これだけの支部長がおりますけん、ここで芦原を殺してくださいよ。
このデカいガラス窓を蹴破って一人一人窓の外に放り投げてやってもいいんですよ。
ほらお前ら、黙っちょらんで向かってこいや。
何が極真の支部長や。
誰一人戦えるもんなどおらんやないけえ。」
「館長、ワシがこの窓蹴破るといっちょるんです。
こんな腰抜け支部長は置いといて、館長が芦原を外に放り出してくださいよ。
アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ。
何頭もの牛を殺したんでしょ。
熊も退治したって聞いてますけん、ワシみたいなヒヨっ子潰すのなんて簡単やないんですか。
破門だ除名だ手回しのいいことせんでも、今ここで決着つけてくださいよ」
どの支部長も何もいえない中、芦原英幸は、一歩一歩大山倍達に近づいていった。
大山倍達の横に座っていた極真会館相談役の柳川魏志はいった。
「芦原、もうやめんか。
いかなる場でも、いかなるときでも自分の師匠や親分に食ってかかるのは仁義に外れた行為や。
師弟関係は親子も同然やないか。
お前が今やっていることは仁義に生きる世界なら万死に値する最低の行為なんや。
場をわきまえんか」
柳川魏志は、その武勇で日本の裏社会を震撼させたヤクザ。
昔から芦原英幸に目をかけていた。
しかし芦原英幸は自分を止めることはできなかった。
「先生との縁もこれまでちゅうことですね。
先生は館長の味方やもんね。
ワシは今から先生のカタキになるちゅうことですわ。
好きにしたらええ」
そういい放ちと会場を後にした。

初代柳川組組長 柳川次郎インタビュー、山口組の尖兵としての柳川組


1980年9月、極真会館の本部から一通の手紙が届いた。
「永久除名処分」の通達状だった。
..............................................................................................................

愛媛県松山市三番丁八丁目三六〇番地一号

芦原英幸殿

通知書

貴殿は、極真会館の規律をみだし、且つ支部認可条件に

違背する不都合な行為に対する再三の注意を無視し、

情状酌量の余地なしと認められるので、極真会館道則の

定めるところに従い、極真会館愛媛支部長の任を

取り消すとともに、以後、いかなる場所にても

極真カラテを標榜することを禁じ、

極真会館から永久除名する。

この旨通知する。


昭和55年9月8日

財団法人極真奨学会 極真会館

国際空手道連盟

会長        毛利松平

理事長       塩次秀雄

館長        大山倍達

評議委員長    河合大介

..............................................................................................................

一週間後には新聞にも、芦原英幸を永久除名処分にしたという極真会館からの広告が掲載された。
芦原英幸は、この広告をみて大山倍達が
「師を乗り越えて雄飛せよ」
といっているように思えた。
大山道場に入門したのが1961年9月。
2度とその門をくぐれなくなったのが1980年9月だった。
極真会館を退会後、
「これで大山倍達とは師でも弟子でもなくなったな。」
といわれたとき
「私の師匠は今も昔も大山倍達です。」
といった。
また昇級審査会を受けた弟子が「大山」という名前だったとき、芦原英幸は
「なに?大山?
いかんなあ、大山という苗字は!」
とふざけた。
その後も
「コラ!大山ぁ!!
はあ~、気持ちええなあ!」
などといって大げさに喜んでみせ審査会の会場を爆笑させた。
しかし審査が終わると一転、
「大山という苗字に恥ずかしくない立派な空手家にならんといけんよ」
と声を掛けた。

芦原空手

Hideyuki Ashihara 1982

通達状が届いたその日、芦原英幸は1人で喫茶店にいってこれからのことを考えた。
極真を離れたら、かなり道場生が減るだろうと思った。
それでもいい。
信じてついてきてくれる人と一生懸命やればいいと思った。
実際は、四国、九州、中国、関西のほとんどの道場生が残った。
「先生、きっと今は誤解している人もきっといつかわかってくれますよ」
「これからもご指導よろしくお願いします」
始めは自分さえ強くななればよかった空手が、今や空手に生きて空手に死ぬしかないという覚悟がに変わった。
自分を信頼してくれる道場生が安心して学べ安全に事故なく上達できなければいけない。
「ようし、見とけよ。
いろいろあったけど芦原についていってよかった、信じてついていってよかったといつか思えるようにしちゃる」
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